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誉れ武門の名に恥じはなし!の掲示板

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    5月21日 15:51

    仙覚(せんかく)
    1203~?
    鎌倉時代の僧・万葉学者。常陸国出身。
    鎌倉新釈迦道で権律師に任ぜられ、
    のち武蔵国比企郡に住む。
    若い頃か『万葉集』の研究を志し、
    1245年、『万葉集』諸本を閲覧する
    機会を得て、翌年にそれまで無点歌の
    百五十二首に新点を加えた。
    この件で万葉集研究が飛躍的に進んだ。
    1253年、新点歌を奉状と添えて
    御嵯峨天皇に奉じる。
    以後も万葉集の研究を続け、
    1266年、『万葉集註釈』二十巻を
    完成させた。
    万葉集註釈は、
    別名『万葉集抄』『仙覚抄』ともいう。

  • 善円(ぜんえん)
    生没年不詳
    鎌倉時代前期の仏師。
    彼の作品に、
    承久3年銘の『十一面観音像』、
    嘉禄元年銘の『釈迦如来像』、
    宝治元年銘の『愛染明王像』など。
    彼の精巧かつ優美な作風は、
    藤原彫刻の特色を示している。

  • 禅慧(ぜんえ)
    生没年不詳
    鎌倉時代後期の僧。
    字は教王房。心一とも称す。
    興福寺に住し、湛秀と並び称される。
    のち頼照・定海に師事し、真言を学ぶ。
    晩年、相模極楽寺の住持になる。

  • 詮慧(せんえ)
    生没年不詳
    鎌倉時代前期の僧。近江国出身。
    顕密二教を学び、論義に長じる。
    道元が宋から禅宋を伝えたことを
    聞いて深草を訪れ、その弟子となる。
    のち永興庵を開いて住す。

  • 善阿弥(ぜんあみ)
    1386~1482
    室町時代の作庭家。
    初めは寅、又は虎菊と称したという。
    『蔭涼軒日録』・『鹿苑日録』のほか、
    『大乗院寺社雑事記』の史料によれば、
    善阿弥は足利義政に遇されて室町殿を
    はじめ相国寺の蔭涼軒・睡隠軒などを
    造り、また興福寺大乗院の庭園改修を
    行ったとされ、作庭家としてはじめて
    歴史に名を残した人物になる。
    同じく作庭家の善阿弥に、
    二代目小四郎や三代目又四郎がいる。

  • 世良田頼氏(せらたよりうじ)
    ?~1272
    鎌倉時代の武将。
    上野国新田庄世良田郷の領主。
    父は世良田義季。
    世良田氏は新田・得川・徳川など、
    史料により姓の表記が異なる事が多い。
    1244年、新田本惣領の政義が幕府から
    嫌疑を受けて蟄居を命じられて以来、
    世良田氏は半惣領の地位を得た。
    1272年、『二月騒動』に巻き込まれ、
    咎めにより佐渡へ流され同地で没す。
    江戸幕府創始者である徳川家康は、
    松平から徳川(得川・世良田)に改名。
    改名前の松平氏も世良田氏の後裔とし、
    新田源氏を称していた。

  • 世良田義政(せらたよしまさ)
    ?~1364
    南北朝時代の武将。
    父は岩松政経。
    伊予守。
    上総守護。
    貞治3・正平19年7月27日、
    足利基氏の勘気に触れて追討を受け、
    翌日28日に兄弟や梶原景安とともに
    鎌倉の如来堂で自害した。
    所領は弟の岩松直国が引き継いだ。

  • 世良田政義(せらたまさよし)
    生没年不詳
    室町時代の武将。
    実在不詳の人物。
    父は世良田満義。
    大炊亮を称す。
    1397年、桃井宗綱と計って宗良親王の
    遺子を上野国寺尾城に迎えた。
    1424年、遺子が信濃諏訪城に入ると
    その令旨に応じて挙兵するが、
    三河に向かう途上の浪合において戦死。
    この事績には史料が乏しく、
    はっきりしない。

  • 妹尾兼康(せおかねやす)
    ?~1183
    平安時代末期の武将。平氏の家人。
    通称太郎。
    本領は備中国都宇郡妹尾村。
    1180年12月、大和国検非所に任命され、
    五百騎あまり率いて奈良に向かった。
    しかし南都衆徒の抵抗に遭って郎党の
    一部が斬首されてしまった。
    これに激怒した平重衡により、
    南都焼き討ちを行われた。
    1183年4月、平維盛による源義仲追討の
    軍勢に参加して北陸へ出陣。
    翌月、俱利伽羅峠の戦いで大敗し、
    義仲麾下の武将倉光成澄に捕まった。
    従う姿勢を示した事で助けられ、
    成澄の弟成氏の預かりとなった。
    義仲が備中国へ進出した際には先導役を
    務めたが成氏を誘導の末に裏切って殺害、
    備中国内の平氏方を集めて反旗を翻す。
    追討軍を率いる今井兼平の猛攻を受け、
    福隆寺縄手の戦いで敗死した。

  • 瀬戸井広明(せといひろあき)
    ?~1221
    鎌倉時代前期の武将。
    父は佐貫広綱。
    上野国邑楽郡永村大字瀬戸井を領す。
    1221年、承久の乱では幕府側に従って
    上洛を目指し、宇治川の戦いで戦死。

  • 雪村友梅(せっそんゆうばい)
    1290~1346
    南北朝時代の僧。越後国出身。
    臨済宗一山派。
    別に幻空と号す。
    一山一寧に参じ、のちその法を嗣ぐ。
    1307年、元へ渡る。
    元叟行端・虚谷希陵らについて学ぶ。
    1313年、ゆえあって投獄されたが、
    無学祖元の故事(臨刃偈)を用いて
    赦され、のち翠微寺に住す。
    1328年、帰国。
    信濃慈雲寺に住し、のち徳雲寺を開山。
    1337年、播磨法雲寺を開く。
    1343年、万寿寺住持。
    1345年、建仁寺住持。
    貞和2・正平元年12月2日、寂す。57歳。
    著書に、
    『宝覚真空禅師語録』・『岷峨集』
    がある。
    法嗣は雲渓支山・太清宗渭ら。

  • 雪江宗深(せっこうそうしん)
    1408~1486
    室町時代中期の僧。摂津国出身。
    建仁寺の文瑛法𤫂のもとで得度、
    正深と名付けらえた。
    のち尾張瑞泉寺の日峰宗舜に参じて、
    日峰の命で義天玄承に師事。
    諱は宗深と改名し、雪江と号す。
    のち養源院塔主となり、義天の寂後に
    竜安寺に住む。
    1462年、大徳寺に入ったが3日で退く。
    1467年、応仁の乱では八木竜興寺に
    避難した。
    1477年、妙心寺再興の綸旨を賜り、
    復興に尽力する。
    1479年、中風を患う。
    文明18年6月2日、寂す。79歳。
    勅諡は仏日真照禅師。
    法嗣に景川宗隆・悟渓宗頓らがいる。

  • 絶海中津(ぜっかいちゅうしん)~2~

    帰国後は天竜寺の春屋妙葩・性海霊見の
    もとに身を寄せる。
    1380年、赤松則祐の播磨法雲寺住持の
    招きを汝霖良佐に譲り、甲斐慧林寺に
    赴任した。
    1382年、将軍足利義満は義堂を介して
    上京を促し、翌年9月に上洛した。
    9月14日が日野宜子の忌日にあたり、
    義満は鹿苑院に絶海を住まわせた。
    1384年6月、摂津銭原に移る。
    1385年4月、有馬の牛隠庵に退く。
    同年7月、細川頼之の招きに応じ、
    讃岐宝海寺を開山。
    さらに夢窓疎石の土佐吸江庵を再興。
    1386年2月、再び義満の要請を受けて
    上洛し、等持寺に住む。
    1391年、北山等持院に退居。
    1392年10月、相国寺住持。
    1394年、等持院に退く。
    同年9月、相国寺が火災に見舞われ、
    復興に尽力する。
    1395年2月、相国寺住持。
    1396年、住持を退いて鹿苑院僧録を
    勤めたのち、勝定院へ移る。
    応永12年4月5日、寂す。70歳。
    勅諡は仏智広照国師。
    法嗣は鄂隠慧奯・西胤俊承ら。
    著書に、
    『絶海和尚語録』『蕉堅藁』
    がある。

  • 絶海中津(ぜっかいちゅうしん)~1~
    1334~1405
    室町時代初期の僧。
    土佐国高岡郡津野出身。
    在地豪族津野氏の一族。
    建武元年11月13日生まれ。
    はじめ道号を要関とする。
    のち明に渡って李潭宗泐から
    絶海の道号を受けて改称。
    別に蕉堅子・蕉固道人と号す。
    義堂周信と同郷。
    1348年、上洛して天竜寺に喝食。
    1350年、剃髪して沙弥となり、
    1351年9月30日、夢窓疎石に参じて
    彼が没するまで付き従った。
    1353年、建仁寺の竜山特見の会下に
    参加した。
    1354年、南禅寺に移り、大林善育の
    もとで湯薬侍者を勤める。
    1364年、鎌倉建長寺の青山慈永に
    参じて学び、さらに大喜法忻の会下に
    蔵主・焼香侍者を任される。
    1365年5月、義堂周信の鯖見善福寺に
    入り、衣鉢侍者を勤めた。
    1368年2月、明に渡り、杭州天竺寺の
    李潭宗泐に師事する。
    ついで霊隠寺・護聖万寿寺に赴き、
    用貞輔良・清遠懐渭に会う。
    1376年、明の洪武帝との謁見を果たし、
    熊野三山詩を披露した。
    1378年、帰国。

  • 絶崖宗卓(ぜつがいそうたく)
    ?~1334
    南北朝時代の僧。
    南浦紹明に参じて法を嗣ぐ。
    豊後万寿寺、筑前崇福寺に住んだあと、
    1306年、京都万寿寺の住持。
    のち竜翔寺の住持になる。
    文保年間、南禅寺に入寺。
    1333年、勅によって鎌倉浄智寺の
    住持となる。
    建武元年6月27日、寂す。
    勅諡は広智禅師。
    法嗣に明室宗喆・岩叟本中らがいる。

  • 世尊寺行康(せそんじゆきやす)
    1412~1478
    室町時代中期の公卿。
    初名は伊忠。のち行高・行康と改名。
    父は世尊寺行豊。
    1452年4月、従三位。
    1456年4月、正三位。
    同年10月、参議となるが翌年辞す。
    のち正二位に累進。
    文明10年1月10日、没す。67歳。
    行康は能書家として有名だったが、
    嗣子がなかった。
    清水谷実久は藤原行成以来の書の家が
    絶えるのを惜しみ、自分の子行季を
    後嗣とした。

  • 石梁仁恭(せきりょうにんきょう)
    1266~1334
    鎌倉時代の僧。出身は南宋国浙江省。
    はじめ清拙正澄・一山一寧らに師事。
    1299年、一山に従って来日する。
    はじめ信濃慈雲寺におり、
    その後は慈寿寺を開山する。
    のち聖福寺・寿福寺・建仁寺を歴住。
    建武元年12月18日、寂す。69歳。
    梵唄に詳しかったという。
    勅諡は慈昭恵灯禅師。
    法嗣は竺芳祖裔。

  • 関宗祐(せきむねすけ)
    ?~1343
    鎌倉末・南北朝時代の武将。
    常陸国結城郡関城主。
    父は関政祐。
    民部少輔・大輔。
    1338年、南朝方の北畠親房を迎え、
    北朝方の佐竹・結城氏と戦う。
    1343年、味方の小田城が陥落し、
    親房と共に南朝方最後の拠点となった
    関城に移る。
    同年11月、孤立無援の中で奮闘したが、
    子息の宗政らと共に敗死した。

  • 関政泰(せきまさやす)
    ?~1247
    鎌倉時代前期の武将。
    父は関政嗣。
    政嗣は左衛門尉として源実朝に仕える。
    1221年、承久の乱で官軍側に味方し、
    尾張池瀬で幕府軍と戦うも敗れて投降。
    1247年、宝治合戦の際は妻の兄である
    三浦義村に従って兵を挙げたが敗北し、
    法華堂で自害した。

  • 関俊平(せきとしひら)
    生没年不詳
    平安末・鎌倉時代初期の武将。
    常陸国出身。
    秀郷流藤原氏で常陸関氏の祖。
    通称は関次郎。
    父は大方五郎政家。
    弟は関政嗣ら。
    『保元物語』によると、
    1156年、保元の乱では源義朝に従う。
    1181年2月、志田義広が頼朝に背いて
    兵を挙げると、俊平もこれに参加した。
    俊平については以後委細不明だが、
    弟達はのちに鎌倉幕府へ出仕している。

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