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2354(最新)
仙覚(せんかく)
1203~?
鎌倉時代の僧・万葉学者。常陸国出身。
鎌倉新釈迦道で権律師に任ぜられ、
のち武蔵国比企郡に住む。
若い頃か『万葉集』の研究を志し、
1245年、『万葉集』諸本を閲覧する
機会を得て、翌年にそれまで無点歌の
百五十二首に新点を加えた。
この件で万葉集研究が飛躍的に進んだ。
1253年、新点歌を奉状と添えて
御嵯峨天皇に奉じる。
以後も万葉集の研究を続け、
1266年、『万葉集註釈』二十巻を
完成させた。
万葉集註釈は、
別名『万葉集抄』『仙覚抄』ともいう。 -
2353
善円(ぜんえん)
生没年不詳
鎌倉時代前期の仏師。
彼の作品に、
承久3年銘の『十一面観音像』、
嘉禄元年銘の『釈迦如来像』、
宝治元年銘の『愛染明王像』など。
彼の精巧かつ優美な作風は、
藤原彫刻の特色を示している。 -
2349
禅慧(ぜんえ)
生没年不詳
鎌倉時代後期の僧。
字は教王房。心一とも称す。
興福寺に住し、湛秀と並び称される。
のち頼照・定海に師事し、真言を学ぶ。
晩年、相模極楽寺の住持になる。 -
2348
詮慧(せんえ)
生没年不詳
鎌倉時代前期の僧。近江国出身。
顕密二教を学び、論義に長じる。
道元が宋から禅宋を伝えたことを
聞いて深草を訪れ、その弟子となる。
のち永興庵を開いて住す。 -
2347
善阿弥(ぜんあみ)
1386~1482
室町時代の作庭家。
初めは寅、又は虎菊と称したという。
『蔭涼軒日録』・『鹿苑日録』のほか、
『大乗院寺社雑事記』の史料によれば、
善阿弥は足利義政に遇されて室町殿を
はじめ相国寺の蔭涼軒・睡隠軒などを
造り、また興福寺大乗院の庭園改修を
行ったとされ、作庭家としてはじめて
歴史に名を残した人物になる。
同じく作庭家の善阿弥に、
二代目小四郎や三代目又四郎がいる。 -
2346
世良田頼氏(せらたよりうじ)
?~1272
鎌倉時代の武将。
上野国新田庄世良田郷の領主。
父は世良田義季。
世良田氏は新田・得川・徳川など、
史料により姓の表記が異なる事が多い。
1244年、新田本惣領の政義が幕府から
嫌疑を受けて蟄居を命じられて以来、
世良田氏は半惣領の地位を得た。
1272年、『二月騒動』に巻き込まれ、
咎めにより佐渡へ流され同地で没す。
江戸幕府創始者である徳川家康は、
松平から徳川(得川・世良田)に改名。
改名前の松平氏も世良田氏の後裔とし、
新田源氏を称していた。 -
2345
世良田義政(せらたよしまさ)
?~1364
南北朝時代の武将。
父は岩松政経。
伊予守。
上総守護。
貞治3・正平19年7月27日、
足利基氏の勘気に触れて追討を受け、
翌日28日に兄弟や梶原景安とともに
鎌倉の如来堂で自害した。
所領は弟の岩松直国が引き継いだ。 -
2344
世良田政義(せらたまさよし)
生没年不詳
室町時代の武将。
実在不詳の人物。
父は世良田満義。
大炊亮を称す。
1397年、桃井宗綱と計って宗良親王の
遺子を上野国寺尾城に迎えた。
1424年、遺子が信濃諏訪城に入ると
その令旨に応じて挙兵するが、
三河に向かう途上の浪合において戦死。
この事績には史料が乏しく、
はっきりしない。 -
2343
妹尾兼康(せおかねやす)
?~1183
平安時代末期の武将。平氏の家人。
通称太郎。
本領は備中国都宇郡妹尾村。
1180年12月、大和国検非所に任命され、
五百騎あまり率いて奈良に向かった。
しかし南都衆徒の抵抗に遭って郎党の
一部が斬首されてしまった。
これに激怒した平重衡により、
南都焼き討ちを行われた。
1183年4月、平維盛による源義仲追討の
軍勢に参加して北陸へ出陣。
翌月、俱利伽羅峠の戦いで大敗し、
義仲麾下の武将倉光成澄に捕まった。
従う姿勢を示した事で助けられ、
成澄の弟成氏の預かりとなった。
義仲が備中国へ進出した際には先導役を
務めたが成氏を誘導の末に裏切って殺害、
備中国内の平氏方を集めて反旗を翻す。
追討軍を率いる今井兼平の猛攻を受け、
福隆寺縄手の戦いで敗死した。 -
2342
瀬戸井広明(せといひろあき)
?~1221
鎌倉時代前期の武将。
父は佐貫広綱。
上野国邑楽郡永村大字瀬戸井を領す。
1221年、承久の乱では幕府側に従って
上洛を目指し、宇治川の戦いで戦死。 -
2341
雪村友梅(せっそんゆうばい)
1290~1346
南北朝時代の僧。越後国出身。
臨済宗一山派。
別に幻空と号す。
一山一寧に参じ、のちその法を嗣ぐ。
1307年、元へ渡る。
元叟行端・虚谷希陵らについて学ぶ。
1313年、ゆえあって投獄されたが、
無学祖元の故事(臨刃偈)を用いて
赦され、のち翠微寺に住す。
1328年、帰国。
信濃慈雲寺に住し、のち徳雲寺を開山。
1337年、播磨法雲寺を開く。
1343年、万寿寺住持。
1345年、建仁寺住持。
貞和2・正平元年12月2日、寂す。57歳。
著書に、
『宝覚真空禅師語録』・『岷峨集』
がある。
法嗣は雲渓支山・太清宗渭ら。 -
2340
雪江宗深(せっこうそうしん)
1408~1486
室町時代中期の僧。摂津国出身。
建仁寺の文瑛法𤫂のもとで得度、
正深と名付けらえた。
のち尾張瑞泉寺の日峰宗舜に参じて、
日峰の命で義天玄承に師事。
諱は宗深と改名し、雪江と号す。
のち養源院塔主となり、義天の寂後に
竜安寺に住む。
1462年、大徳寺に入ったが3日で退く。
1467年、応仁の乱では八木竜興寺に
避難した。
1477年、妙心寺再興の綸旨を賜り、
復興に尽力する。
1479年、中風を患う。
文明18年6月2日、寂す。79歳。
勅諡は仏日真照禅師。
法嗣に景川宗隆・悟渓宗頓らがいる。 -
2339
絶海中津(ぜっかいちゅうしん)~2~
帰国後は天竜寺の春屋妙葩・性海霊見の
もとに身を寄せる。
1380年、赤松則祐の播磨法雲寺住持の
招きを汝霖良佐に譲り、甲斐慧林寺に
赴任した。
1382年、将軍足利義満は義堂を介して
上京を促し、翌年9月に上洛した。
9月14日が日野宜子の忌日にあたり、
義満は鹿苑院に絶海を住まわせた。
1384年6月、摂津銭原に移る。
1385年4月、有馬の牛隠庵に退く。
同年7月、細川頼之の招きに応じ、
讃岐宝海寺を開山。
さらに夢窓疎石の土佐吸江庵を再興。
1386年2月、再び義満の要請を受けて
上洛し、等持寺に住む。
1391年、北山等持院に退居。
1392年10月、相国寺住持。
1394年、等持院に退く。
同年9月、相国寺が火災に見舞われ、
復興に尽力する。
1395年2月、相国寺住持。
1396年、住持を退いて鹿苑院僧録を
勤めたのち、勝定院へ移る。
応永12年4月5日、寂す。70歳。
勅諡は仏智広照国師。
法嗣は鄂隠慧奯・西胤俊承ら。
著書に、
『絶海和尚語録』『蕉堅藁』
がある。 -
2338
絶海中津(ぜっかいちゅうしん)~1~
1334~1405
室町時代初期の僧。
土佐国高岡郡津野出身。
在地豪族津野氏の一族。
建武元年11月13日生まれ。
はじめ道号を要関とする。
のち明に渡って李潭宗泐から
絶海の道号を受けて改称。
別に蕉堅子・蕉固道人と号す。
義堂周信と同郷。
1348年、上洛して天竜寺に喝食。
1350年、剃髪して沙弥となり、
1351年9月30日、夢窓疎石に参じて
彼が没するまで付き従った。
1353年、建仁寺の竜山特見の会下に
参加した。
1354年、南禅寺に移り、大林善育の
もとで湯薬侍者を勤める。
1364年、鎌倉建長寺の青山慈永に
参じて学び、さらに大喜法忻の会下に
蔵主・焼香侍者を任される。
1365年5月、義堂周信の鯖見善福寺に
入り、衣鉢侍者を勤めた。
1368年2月、明に渡り、杭州天竺寺の
李潭宗泐に師事する。
ついで霊隠寺・護聖万寿寺に赴き、
用貞輔良・清遠懐渭に会う。
1376年、明の洪武帝との謁見を果たし、
熊野三山詩を披露した。
1378年、帰国。 -
2337
絶崖宗卓(ぜつがいそうたく)
?~1334
南北朝時代の僧。
南浦紹明に参じて法を嗣ぐ。
豊後万寿寺、筑前崇福寺に住んだあと、
1306年、京都万寿寺の住持。
のち竜翔寺の住持になる。
文保年間、南禅寺に入寺。
1333年、勅によって鎌倉浄智寺の
住持となる。
建武元年6月27日、寂す。
勅諡は広智禅師。
法嗣に明室宗喆・岩叟本中らがいる。 -
2336
世尊寺行康(せそんじゆきやす)
1412~1478
室町時代中期の公卿。
初名は伊忠。のち行高・行康と改名。
父は世尊寺行豊。
1452年4月、従三位。
1456年4月、正三位。
同年10月、参議となるが翌年辞す。
のち正二位に累進。
文明10年1月10日、没す。67歳。
行康は能書家として有名だったが、
嗣子がなかった。
清水谷実久は藤原行成以来の書の家が
絶えるのを惜しみ、自分の子行季を
後嗣とした。 -
2335
石梁仁恭(せきりょうにんきょう)
1266~1334
鎌倉時代の僧。出身は南宋国浙江省。
はじめ清拙正澄・一山一寧らに師事。
1299年、一山に従って来日する。
はじめ信濃慈雲寺におり、
その後は慈寿寺を開山する。
のち聖福寺・寿福寺・建仁寺を歴住。
建武元年12月18日、寂す。69歳。
梵唄に詳しかったという。
勅諡は慈昭恵灯禅師。
法嗣は竺芳祖裔。 -
2334
関宗祐(せきむねすけ)
?~1343
鎌倉末・南北朝時代の武将。
常陸国結城郡関城主。
父は関政祐。
民部少輔・大輔。
1338年、南朝方の北畠親房を迎え、
北朝方の佐竹・結城氏と戦う。
1343年、味方の小田城が陥落し、
親房と共に南朝方最後の拠点となった
関城に移る。
同年11月、孤立無援の中で奮闘したが、
子息の宗政らと共に敗死した。 -
2333
関政泰(せきまさやす)
?~1247
鎌倉時代前期の武将。
父は関政嗣。
政嗣は左衛門尉として源実朝に仕える。
1221年、承久の乱で官軍側に味方し、
尾張池瀬で幕府軍と戦うも敗れて投降。
1247年、宝治合戦の際は妻の兄である
三浦義村に従って兵を挙げたが敗北し、
法華堂で自害した。 -
2332
関俊平(せきとしひら)
生没年不詳
平安末・鎌倉時代初期の武将。
常陸国出身。
秀郷流藤原氏で常陸関氏の祖。
通称は関次郎。
父は大方五郎政家。
弟は関政嗣ら。
『保元物語』によると、
1156年、保元の乱では源義朝に従う。
1181年2月、志田義広が頼朝に背いて
兵を挙げると、俊平もこれに参加した。
俊平については以後委細不明だが、
弟達はのちに鎌倉幕府へ出仕している。
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猫 2021年4月7日 01:30
【スレ主専用掲示板】
※ 返信は難しいです。理由はレスが非常に遅い為。
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気まぐれ投稿です。
名のある方達を記載。
(鎌倉 ~ 江戸初期頃まで)
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