「この木なんの木」と深い縁、ポール与那嶺の半生 ポール与那嶺さんにインタビュー(前編)

3/28 9:02 配信

東洋経済オンライン

日系人のために設立されたハワイの銀行「セントラル パシフィック バンク」名誉会長のほか、三井住友銀行、セブン&アイ・ホールディングスなどの社外取締役を務めるポール与那嶺氏は、東京で生まれ育ったハワイ在住の日系3世。日本語と英語を流暢に操り、40年以上にわたりアメリカ・日本で経営とコンサルの実践経験を蓄えながら、国際的な視野から日系企業のグローバル化を後押ししてきた。
ハワイ州知事特別顧問としての役目も加わり、現在、ハワイのインフラ開発に日本企業が培った知見と技術を取り込むべく、日本とハワイを往復する日々を送る。

独自の経営理念の基礎をつくった自身のルーツを振り返るとともに、米日間のビジネス連携の具体策や、日本経済の今とこれからをどう見通すのか、ポール与那嶺氏に聞いた。前編・後編でお届けする(前後編の前編)。

■「この木なんの木」を守った

 ―――ハワイと日本の架け橋をなさるポールさんといえば、日立のテレビCMでお馴染みのホノルルにある「この木なんの木」の木と大変深い関わりがあります。まずは、ぜひそのエピソードをお聞かせください。

 ホノルルの公園(モアナルア・ガーデン)にあるモンキーポッドという木ですね。その公園は子供の頃、ハワイを訪れるたびに親とよくピクニックをして遊んだ、私にとっても思い出のある場所です。

 日立製作所がそれを「日立の樹」として1970年代から会社のシンボルに使っていました。2006年に持ち主が公園を売却するという話が出て、不安に思った日立から、KPMG(コンサルタント会社)時代の顧客だった縁で私に連絡がありましてね。コーポレートイメージで使う木を守りたい、公園を残す方法はないかという相談を受けました。

 そこで私が信託会社と話をして、最終的には持ち主が売却をやめて、日立が維持管理費を出しながら、公園を残すという結果になりました。

 相手は当初、日立という社名も知らなければ、この木が日本の人にとって親しみのある、意味のある木だということも知らず、驚いていました。でも私の友人でもある信託会社の理事長が協力し、理事会に日立の概要や思いを熱く説明してくださって実現することができたのです。

 幸運にも、いまだに日立が維持費を出し続けて公園が守られています。ホノルル市民にとっても本当にいい結果になりました。

 ハワイのビジネスでは信頼関係、島国的なパーソナルリレーションシップはとても重要ですね。ヒューマンネットワークは、リスク管理にもつながると思います。このことで、当時(日立製作所の)社長だった古川(一夫)さんに「グッジョブ」と褒めていただいたことは、思い出に残っています。

 ―――その古川社長から、その後日立でコンサル会社を立ち上げて社長になってくれないかと誘われたのですね。

 今もよく覚えていますが、古川社長がハワイまでわざわざ会いにきましてね、「日立の改革ができなければ日本の改革もできない」とおっしゃって。それまで自分のキャリアプランの中にはありませんでしたが、2006年から4年契約で日立コンサルティングの社長を務めました。

■祖父が沖縄からハワイに渡る

 ―――ポールさんご自身は東京で生まれ育っていますが、お祖父様が戦前に沖縄からハワイ移民としてマウイで過ごし、そこからお父様のウォーリーさん(与那嶺要さん)はアメリカンフットボール初の日系人選手になり、そして戦後初の外国人プロ野球選手として読売巨人軍や中日ドラゴンズの選手・監督で大活躍されていますね。

 祖父は沖縄県の中城(なかぐすく)から那覇、横浜を経由して、船でホノルル、ラハイナへと16歳の時に渡ってきています。この年で全然知り合いがいないところに1人で行くというのは、いまだにちょっと想像ができませんよね。ゼロスタートから最終的には子供7人を育てました。

 今回、残念なことにラハイナで火事があり、祖父がいた村もその被害に遭いました。朝から晩までさとうきび畑で仕事をして家族を養っていくのは大変だったと思いますが、アメリカンドリーム的に家も購入して、子供もそれなりにいい学校に行けるようになりました。

 父は第2次世界大戦終結のわずか1年半後、1947年に初の日系人選手として(アメリカのプロフットボールチームの)サンフランシスコ・49ers(フォーティーナイナーズ)に入って、白人とぶつかり合いをしているんですよね。(その後野球に転向し)1951年には日本のプロ野球で初の外国人選手として巨人軍に入っています。

 球団のチームメイトは戦争で家族を失ったりして、サンフランシスコでも日本でも、最初は嫌われていたわけです。大変だったと思いますが、そこは彼なりに根性を持ちながら職人のように練習して、いい成果を出すようになって、次第にどちらでも好かれるようになったんですね。

 彼も、日本でうまくいかなければハワイに戻るしかないわけですよ。当時の野球選手は今の大谷翔平選手みたいな世界じゃない。1957年にセ・リーグでMVPを獲ったときの賞金が自転車ですよ。

 あの時代は広島の市民球場で帽子を回してお金を入れてもらって、それが報酬になるような。生活のため、家族のために必死だったと思います。

■父は野球のヒーローだった

 ―――お祖父様のハングリー精神と、お父様のファイト、そうした家風、家庭環境で育ったことはどのように、ご自身に影響していると思いますか。

 私自身、野球小僧で大学2年まで野球をやってきたので、親父はやはり、親父というよりも野球のヒーローですよね。実際、一緒にいる時間よりもテレビや新聞雑誌で見ることのほうがずっと多かったですから。

 彼が他界したときも、最初に感じたのはファンが可哀想だということでした。日系人として初めて全米フットボールチームに入った父は、カリフォルニアにいた日系人のヒーローでした。「社会的責任のある存在」というイメージがあり、それは私にとってものすごく意味のあることでした

 ―――お父様の存在の大きさもありますが、ポールさんのキャリアを振り返ると、竹中征夫さんというお師匠さんがいらっしゃいますね。「昭和のジョン万次郎」「サムライ会計士」と呼ばれ、1980年代以降、対米進出を目指す日本企業の伴走者として大きな足跡を残されています。2023年11月に亡くなられましたが、竹中さんはどのような存在だったのでしょうか。

 大学3年のときに就職活動をしていた私のところに竹中さんから突然電話がかかってきましてね。私は当時8大会計事務所のプライスウォーターハウスに就職が決まっていたのですが、竹中さんが旅費を出すから一度ロサンゼルスに来て一緒に食事をしろというので、ただで行けるなら、という感じで応じたのです。

 彼はカリスマ性が非常に強い。彼自身はアメリカ国籍だけど、日本人ということに対するプライドが非常にありました。

 「アメリカ人社会の中で日本人として頑張っているんだ。君も自分のルーツに必ず誇りを持って、アメリカと日本の架け橋になりながらお客さんを手伝いなさい」と。

 それを聞いて非常に感激しましてね。何度かお会いするうちに最終的にプライスウォーターを断念して、(アメリカの監査法人大手)ピート・マーウィック・ミッチェル(現・KPMG)に入社することになったんです。

 自分で言うのもなんですが、会計士の卵として、結構活躍していたのですが、入社して1年くらい経ったある日、竹中さんに呼ばれて、「実は君を採用したのは親父さんが有名だったから」と聞かされて。でも「君は仕事を上手にこなせるから結果的にいい採用だった」と言われました。

 そこで5年働いた後、別の企業からの誘いで3倍くらいの報酬が得られるところに転職しました。彼はそのとき何も言いませんでしたが、10年後に『本音は残ってもらいたかったんだ』と言って。彼は非常にディープな人間なんですよね。

■ライフイベントに必ずいる竹中さん

 ―――その後のキャリアにおいても、常に竹中さんの導きがあったのでしょうか。

 1992年に私は起業し、会社の業績自体はよかったのですが、日本企業との仕事はあまりなく、物足りなく感じていたちょうどそんなときに、竹中さんからピート・マーウィックに戻ってこないかと言われて戻ることにしたのです。

 彼もすでに独立して企業買収のコンサル会社を作っていましたけれど、ピート・マーウィックをリードしていて、日本のお客様に対するサービス内容に対して非常に違和感があった。私に戻って立て直してほしいというのです。

 日本関連企業を担当し、南カリフォルニアからハワイ州の会計の仕事や全米のコンサルまでやるようになり、日本に駐在してからはアジアパシフィックも含め、全部で13カ国にコンサル会社をつくりました。

 原点につねに竹中さんがいて、彼に恩を感じながらピート・マーウィックに長年いましたが、その後地元のハワイに戻りたいと思い、ホノルル市の顧問として市の再生プロジェクトを2年間担当するようになりました。

 やりがいはありましたが子供が3人いて、報酬面でやはり魅力的じゃなかった。民間に戻らなくちゃいけないというときに、日立コンサルティングの社長の話があり、そして日本アイ・ビー・エムにつながる。

 鍵になるライフイベントには必ず竹中さんがいます。借りを返さないといけない。ほかにも竹中チルドレンがたくさんいましてね、みんな竹中さんへの恩を忘れていない。世の中悪くないなと思いますよ。

 ―――いわば「竹中道場」ですね。竹中さんにはしつけというか、大事にされていたことはありますか。

 よく言われたのは、「感謝」「謙虚」「根性」の3Kです。つねに謙虚さを持ちながら、手伝ってもらった人たちに感謝して。そして最終的には企業のリーダーには根性がないと決していい経営ができないと言っていました。たまに竹中さんは3つ目のKは「工夫」ということもおっしゃっていたけど、私はやっぱり根性じゃないですかと言っていました。

 やはり正しいことをするのは根性がものすごく必要ですね。正しい方向に進む場合に、必ず外野からいろいろ言われることはあるんです。だけど、根性でやり遂げるしかない。最終的には結果によって周りが判断するものです。

 短期的にみんなに好かれたいからというのでは、経営者やリーダーには絶対なれないですよね。中長期的にチームメンバーやコミュニティー、社会に貢献することに対して判断することが大切だと思っています。

■ダニエル議員から聞かれたこと

 ―――もうお二人、親交の深い日系人の方といえば、ハワイ出身のダニエル・イノウエ連邦上院議員とアイリーン・ヒラノ・イノウエさんがいらっしゃいます。ポールさんはお2人が創設した「米日カウンシル」の理事長に指名され、2022年まで後継を務められていますね。追悼の意味も込めてお二人との思い出を聞かせてください。

 ダニエル議員とは私が小学生の頃からの長い付き合いでしたが、社会人になって初めてワシントンでお会いしたときに、彼から「自分自身に対して何にいちばんプライドを持っているかわかるか」と聞かれたんですよね。

 「なんですか」と尋ねると、彼がハワイからワシントンに行き議員になってから、ほかの議員が「ジャップ(日本人に対する差別的表現)」という言葉を使わなくなったことだ、というのです。それがいちばん印象的でした。

 だから自分の次の日系人の政治家を育てていきたいと言っていた。それで米日カウンシルが発足して、私に理事になってくれないかと言われて。もちろんなりますと答えました。

 彼はアメリカが強い国である理由は多様性があるからだと言うんですね。そのダイナミズムの中に日系コミュニティーも含まれるから強い国になったんだと。

 彼はアメリカ人としてアメリカ合衆国のためになんでもやりたいという意識があった。そのダイナミズムを維持するためにも、日系コミュニティーは継続し成功しなければいけない。

■どのエスニックコミュニティーも重要

 日系人だけでなく、中国系、韓国系、どのエスニックコミュニティーも重要であるという発想ですよね。それにものすごく感激しました。奥さまのアイリーンさんは、日米間をもっと密な関係にして両国でウィンウィンになる仕組みにしていきたいという思いでした。

 アイリーンさんが亡くなる1週間前に私に連絡があり、米日カウンシルの理事長をやってくれないかと言われて。2年間務めましたが、私にとって非常に意味のあることでした。

 (後編は3月29日に配信予定です)

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最終更新:3/28(木) 9:02

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