栗山英樹「信じ切る」に至れば、結果に納得がいく WBC、絶不調だった村上宗隆を出し続けた理由

4/9 17:02 配信

東洋経済オンライン

2023年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で、監督として侍ジャパンを指揮した栗山英樹さん。「世界一」への期待を一身に受ける中、勝利のために欠かせなかったものは何だったのか――。栗山さんの野球哲学と人生の指針が詰まった書籍『信じ切る力 生き方で運をコントロールする50の心がけ』から、WBCの準決勝・メキシコ戦での“村上宗隆選手の逆転サヨナラ打”、その直前に指揮官が考えていたことについて、一部引用、再編集してお届けします。

■20年以上もプロ野球の現場から離れていた

 2021年11月まで北海道日本ハムファイターズの監督を10年間、務めていたこともあり、僕については「監督」というイメージを持っている人が少なくないようです。

 しかし、2011年、僕のファイターズ監督就任は大変な驚きをもって迎えられていました。なぜなら僕は、1990年に現役を引退してからは、テレビのキャスターなどを務め、20年以上もプロ野球の現場を離れていたからです。

 しかも、僕にはコーチの経験もありませんでした。コーチ経験もなく、20年以上も野球の現場を離れていた人間の監督就任は、日本のプロ野球の歴史でも初めてのことだったのではないかと思います。

 1984年から7年間、ヤクルトスワローズに在籍した選手時代も、華やかな実績があるわけではありません。もとより僕は、甲子園にも出ていないし、大学野球で活躍したわけでもない。プロテストを受けてのドラフト外での入団でした。

 なんとか入団は叶ったものの、プロの世界はレベルが想像をはるかに超えていて、当時の大きな挫折感は、今もなお忘れられないほどのものでした。さらに入団2年目からは、原因不明のメニエール病とも闘わなければなりませんでした。

 1年を通して一軍で過ごした年もありました。規定打席に達しなかったものの、3割を打った年もありました。ゴールデン・グラブ賞を受賞したこともあります。しかし、何か特別な記録に残るようなものがあるわけではありません。

 知っていただきたいのは、そんな僕にプロ野球の監督という大役が委ねられたということです。さらには、侍ジャパンという日本代表を率いるチームの監督まで任されることになった。そして、監督としてWBCに挑み、世界一になった。

 人生は、何が起きるかわからない。僕自身、本当にそう思います。そして、こういうことは僕にだけ起こるわけではない、ということも僕は同時に思っています。驚くような未来は誰にでも待ち構えている可能性が十分にある、と。

■「普通、選手に向かって言わないですよね」

 まずは、信じる。いろいろなことについて、僕はそこから始めることが少なくありません。また、「信じている」と言葉に出したりもします。ただ、これはずっと昔から無意識にしていたことで、誰もがする、ごく普通のことだと思っていました。

 実は必ずしも普通ではなかった、と改めて知ったのは、北海道日本ハムファイターズの監督になった1年目のことです。

 ある主力選手がメディアのインタビューを受けていたのを偶然見たのですが、こんなことを言っていたのです。

 「監督が『お前のことを信じてる』とか言っちゃうんですよ。普通、選手に向かって、そんなこと、言わないですよね」

 信じていると相手に伝えることを僕は普通のことだと思っていましたが、実はみんながそうではないのだ、と気づいたのは、このときでした。

 しかし、僕はその後も選手たちに「信じている」と言い続けました。WBCでも侍ジャパンの代表選手たちに言っていました。なぜなら、本当に信じていたからです。

 本当にそう思っているなら、言葉に出したほうがきっと伝わると僕は思っていました。気恥ずかしいとか、かっこつけてるとか、そんなふうに思われたとしても、「信じている」と言葉に出したほうがいいと考えていたのです。

 ただ、信じているといっても、やっぱり不安になることもあります。大丈夫かな、と思うこともある。野球のような勝負ごとは、その日の調子もあります。

 それでもだんだんわかっていったのは、これこそが勝負の綾(あや)になる、ということでした。最終的に信じ切れるかどうか。どこまで本気で自分がそう思っているか。それこそが問われるのです。だから、僕は信じるし、信じ切る。それを大事にしてきました。

 WBCの準決勝、メキシコ戦。9回裏で日本は4対5と負けていました。あと3つアウトを取られたらゲームセット。侍ジャパンのWBCは、そうなったらここで終わりでした。しかし、僕は信じ切っていました。選手たちは、きっとやってくれる、と。

■不振で苦しんでいた村上

 先頭バッターは大谷翔平。メキシコの守護神から気迫のツーベースヒット。翔平はヘルメットを飛ばして二塁まで走りました。そして塁上でベンチに向けて両手を振り上げて鼓舞しました。

 続く吉田正尚は四球を選び、これでノーアウト一、二塁。ここで次のバッターは、この日、4打席3三振の村上宗隆になりました。

 村上は、WBCの開幕からずっと不振に苦しんでいました。なかなか結果が出ない。この日も、ノーヒットでした。

 後に、「どうして、あの場面で村上を代えるという決断をしなかったのか」とメディアから問われることになりました。しかし、僕は代えませんでした。

 忘れてはいけないのは、前年の2022年の日本のプロ野球で、村上はあの王貞治さんの年間ホームラン記録を塗り替えていたことです。そして三冠王を取った。あの王さんの記録を初めて抜いた選手なのです。

 そんな選手が打たないはずがない。彼がとてつもない努力をしていたであろうことも僕には想像できました。だから、絶対にいつか調子を取り戻して打つと思っていました。たとえ、それが負けたあとだったとしても。

 侍ジャパンは勝つことが使命でした。だから、判断は情に流されてはいけない、と心に決めていました。翔平でも代える、と覚悟していました。ダルビッシュ有にも、「初回でランナー溜まったら代えるぞ」と言っていました。ダルビッシュは笑って「代えてください」と言っていました。

 もちろん村上も同じです。だから、代える準備もしてあった。翔平が出塁してから、「バントの準備もさせてくれ」とコーチにも言っていました。誰であっても一番勝つ確率の高い選択肢を用意しながら試合を前に進めていたのです。

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最終更新:4/9(火) 17:02

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