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「年金の神様」が失脚、次官を目前に厚生省を去る 政治、メディア、積立金に翻弄されたエリートたちの全記録『ルポ年金官僚』より#3

4/17 8:32 配信

東洋経済オンライン

2025年、日本は、団塊の世代すべてが75歳以上の後期高齢者となり、国民の5人に1人が後期高齢者となる「2025年問題」に直面する。その年には年金法改正が予定されている。歴史上経験したことのない高齢社会に私たちが立ち向かう時、年金はどう位置付けられるべきなのか。その解は、政治とメディア、そして巨額な積立金に翻弄された年金官僚たちのドラマの中に、ちりばめられているはずである。
ここでは、『週刊文春』の記者として年金問題を追い続けてきた和田泰明氏の著書『ルポ年金官僚』から一部を抜粋。国民皆年金という国家的プロジェクトをスタートさせ、年金の神様と呼ばれた小山進次郎年金局長が次官を目前に失脚に至る攻防を紹介する。

(全3回の3回目)

■「孫におひな祭りのお菓子でも買って帰ります」

私は古川貞二郎に2020年8月28日、2021年10月1日の2度、拙著『ルポ年金官僚』の取材で話を聞いた。

 私の手元には、コメントチェックをお願いした際、古川が詳細に書き込んだA4の紙4枚が残っている。その冒頭、角ばった癖のある赤字でこう記されている。

 「当時の年金局には優秀な人材が集まっていて、小山進次郎局長以下全職員が、国民年金制度の発足準備に追われ、活気に満ちていた。後々古川は、霞が関人生の始まりが、あの年金局であったことは、好運だったとしみじみと語る」

 古川は1960年1月、国民年金課で霞が関官僚のスタートをきったが、わずか1カ月で鉄火場の福祉年金課に異動となる。まだ支払いを郵便局にするか決まっておらず、高木玄・福祉年金課長の下、激しい議論がなされた。新米の古川の主な仕事は、インターネットのない時代、全国の新聞から福祉年金に関する記事を集めることだった。

 4カ月分の4000円――現在価値にして9万円弱が濡れ手で粟なのだから当然と言えば当然だが、感謝の言葉で溢れていた。

 「『国民年金証書』と書かれた緑色の通帳の間に受け取った4千円を大事そうに挟んで『これで孫におひな祭りのお菓子でも買って帰ります』とホクホク顔」(『読売新聞』1960年3月3日付、夕刊)

■最大労組の反対闘争

 だがそれもわずかな間だった。拠出制年金スタートが近づくと、反対運動の火がくすぶり始めるのだ。一気に炎が燃え上がるのは、安保反対闘争の終焉によってである。

 岸信介総理が踏み切った日米安全保障条約改定を巡り、全国各地では、再び軍国主義化するかもしれないと、大規模な安保反対闘争が勃発した。1960年6月、条約は自然承認され、岸は刺し違えるように総理の座を降りる。行き場を失った安保闘争のエネルギーが、国民年金に注がれたというわけだ。

 古川は実は、安保闘争に一度だけ参加している。国の方向が変わろうとする時に、自分が何のアクションも起こさなくていいのか、それは自己否定ではないか、と感じたからだ。昼休みにオンボロ庁舎を抜け出し、目と鼻の先の日比谷公園から出発するデモ隊に合流した。国会方面、銀座方面の二手に分かれており、バレたらクビになるだろうから銀座方面に向かった。

 若気の至りであり、古川は厚生省退官直前まで周囲に黙っていたというが、当時の若者の行動としては珍しくない。

 運動の中心となったのが、総評(日本労働組合総評議会)である。1950年に結成された日本最大の労働組合の中央組織で、「昔陸軍、今総評」と称され、その頃は絶頂期であった。岸退陣の翌日、総評は反政府エネルギーを拠出年金反対闘争に引き継ぐ方針を決定。

 ただ古川が気を揉む必要はなかった。小山局長自ら、矢面に立ったためだ。

 岸の後に総理に就いた池田勇人が地方遊説中、反対派のデモ隊に取り囲まれる騒ぎがあった。そのニュースを部下から聞いた小山は、顔色ひとつ変えずこう語ったという。

 「君らも苦労しているだろうが、お互いがんばろう。こんな問題のために次官や大臣に心配をかけてはいけない。局長限りの責任と判断で何とか解決したいね」

 7月29日には、組合員約500人を動員して、厚生省に集団陳情が行われた。

 小山は、オンボロ庁舎の国民年金課、福祉年金課の前にある部屋に案内した。腰かけると、バネのビューンと音がするソファがあり、それに互いに座って対峙するのである。運動員が小山を取り囲み、がなり立てるから、交渉にならない。小山はトイレに立つこともできなかったが、逃げ出すことはなかった。

 1961年4月1日、火だるまの状態になりながら、拠出制の国民年金はスタートした。

 なぜ、国民皆年金という国家的プロジェクトを、一糸乱れぬ形で進められたのだろう。2つの要因が考えられる。まずは役人たちの気概だ。

 古川は千代田区麹町のオフィスでこう回想した。

 「いまは官邸からやれと言われて官僚はシブシブやってるように見えるけど、あの頃はみんな意気に燃えていた。俺たちが年金制度をつくるんだと。もとより制度の大枠を決めるのは政治で、たくさんある白地部分を行政官が固めていく。やりがいがありました」

 古川の5期先輩にあたる吉原健二はこう語る。

 「当時の嫌な思い出がないんですね。厚生省というか、私どもがやりたいことができた。国全体の中で社会保障の予算のウエートは非常に小さくて。これから社会保障の制度を整備していく時代だった」

 第二に、役人のやりがいを引き出す小山の手腕である。

 部下たちには勉強を求めた。「大学の講師になれと言われたら、いますぐできるように」と言い、顔を合わせれば「君はいま、何を読んでいるのか」と聞いた。山崎圭の結婚式で祝辞に立った時には「新婚なりといえども、早く家に帰るなんていうことは考えないでください。覚悟してください」と述べている。

 いい加減な報告には「味噌っかす!」と突っぱね、容赦ない。課長たちは「閣下」と畏怖し、局長室に入る時には足が震え、小山のOKが出ると飛び上がらんばかりに喜んだという。

 鍛えられた集団は「小山学校」と呼ばれた。人に厳しく自分にも厳しい。すべての責任は自身が負う。これ以上ないリーダー像である。後に小山は「年金の神様」と称される。

 その小山が、右腕として重宝したのが、福祉年金課長の高木玄だった。

 1964年に古川は、福祉年金課の女性職員と結婚するのだが、仲人は高木夫妻である。

 国民年金の産みの父が小山さんとすれば、母は高木さん──。吉原はそう指摘した。

■大山小山事件

 反対闘争を乗り切った1962年7月、人事異動が行われた。国民年金、厚生年金の実務を所管する厚生省の外局として社会保険庁が発足し、大規模なものとなった。

 小山は、その異動で保険局長に就任した。省内の誰もが、小山は数年後には次官になるものと思っていた。

 1965年、官僚の出世は、実力だけではどうにもならないことを知らしめる事件が起きる。いまも語り継がれる「大山小山事件」である。

 診療報酬は、厚生大臣の諮問機関・中央社会保険医療協議会(中医協)で決まる。ところがそこで提案された引き上げ幅8%に医師会が納得せず、膠着状態となっていた。厚相の神田博は1965年1月、中医協の答申を待たずに9.5%引き上げる「職権告示」を断行。日本医師会会長・武見太郎(現厚労相・武見敬三の父)が「武見天皇」と呼ばれ、自民党に絶大な影響力を持っていた頃である。

 反発した健康保険組合連合会(健保連)と4健保組合は、告示取り消しの行政訴訟を起こす。厚生省の予想に反し、東京地裁は4月、本訴確定までの間、告示の効力を停止する判決を下した。小山は決定の効力を4健保の加入者のみに認めた。

 すると患者によって医療費が違う「二本立て料金」が発生し、悲劇が起きた。4組合の一つ、全国食糧健保組合の加入者が岩手医科大学附属病院で治療を受けようとした。だが同大は、医師会の指示で「4組合関係者は自由診療(現金払い)とする」と掲示を出していた。そのため加入者は入院を断念し、地元の病院で死亡してしまったのだ。

 焦った神田厚相は武見会長と会談し「4組合も新料金に一本化」と合意するものの、今度は健保側が反発。首相官邸で、官房副長官・竹下登立ち合いのもと、神田や小山、健保幹部との会談も行われた。結局、東京高裁が「東京地裁の原決定を取り消す」との決定を下し、小山は、新料金一本化をする通達を出した。

 混乱の責任を問う形で、神田は小山と次官・大山正を更迭。自身は6月3日の内閣改造をもって辞任した。

 小山は、次官の座を目前にして厚生省を去ったのだった。

 小山は1972年9月、持病を悪化させ、心不全により死去。57歳の若さであった。

■ベスト&ブライテストの生きざま

 「小山学校」の〝先生〟が失脚した一方、〝生徒〟たちは省内の枢要なポジションを占めていく。

 小山の右腕・高木玄は社会局長、社会保険庁長官と順調に出世の階段を上りながら、悲劇に見舞われる。京都大学山岳部の長男が、ヒマラヤで遭難、死亡したのだ。高木は死亡確認の旅に出る際、周囲に落ち込んだ様子を一切見せなかったという。

 長男の死から10カ月後の1975年7月、高木は次官に就任した。

 その他、「学校」当時の庶務課長・坂元貞一郎、係長・幸田正孝、主査・吉原健二はそれぞれ厚生次官に、係長・山崎圭は環境次官になった。紛れもなく、厚生省のベスト&ブライテスト(最良にして最も聡明な逸材)の集合体であった。

 古川はそんな先輩官僚の生きざまを糧にして、エリート街道を突き進む。

 岸信介首相に抗議する安保闘争に古川が参加したことは前述したが、1987年に岸が死去した際、巡り巡って古川は首席内閣参事官として内閣・自民党合同葬の事務方責任者となった。娘婿で、安倍晋三の父である安倍晋太郎から「参事官、いろいろご苦労様。ありがとう」と声をかけられ、長年の胸のつかえが取れたと、古川は懐古している。

 1993年7月、古川はついに次官の座に就いた。政権交代が起き、宮沢喜一、細川護熙、羽田孜、村山富市と総理はコロコロと替わった。村山は古川の手腕を評価し、古川は次官を約1年半で勇退すると、官僚機構トップの官房副長官に抜擢される。その後、小泉純一郎政権まで8年7カ月、5人の総理に仕えた。当時の最長在任記録であった。

 入省試験で弾かれた農家の長男を掬い上げた小山進次郎の眼に、狂いはなかった。

■元霞が関トップの“遺言”

 年金ほど長い間「政局」に使われ続けた制度は他にない。激しい攻防といえば消費税が挙げられようが、1980年代後半からのことで、それも散発的なものだ。年金は制度発足以来、「少なくとも5年ごと」の法改正が義務付けられている。現役世代なら保険料の「出」、高齢者なら年金受給額の「入り」という金に直結する問題だから、改正ごとに大きな政治パワーが必要となる。

 そのせいか、年金史に刻まれる「大改革」は、決まって強い政権の時に成立している。1959年の国民年金法成立時の総理は岸信介、1973年改正は田中角栄、1985年改正は中曽根康弘、2004年改正は小泉純一郎、GPIF改革は安倍晋三……というように。

 いまわれわれが接している制度は、国会審議、世論、マスコミに揉みくちゃにされながら、「法改正」という襷がつながって形づくられたものだ。彼ら名のある政治家を軸に据え、国民皆年金制度が始まって60年に及ぶ変遷を描くことで、年金の本質が見えてくるのでは──そう、私は考えた。

 ところが、「政治と年金」の切り口で官僚OBや政治家に取材を申し込み、その歴史を紐解いていくうち、私は煮え切らないものを感じた。多くの政治家たちは、どうやら年金制度の中身を理解していない。彼らは「年金額」「保険料率」「支給開始年齢」といった国民が反応する数字を示し、大まかな方針を示したに過ぎないのだ。

 その緻密な叩き台をつくったのは、言うまでもなく年金官僚である。彼らは目先の選挙などに左右されないから、遠い将来にわたって国民生活に根付かせる制度設計を考えている。ところが年金官僚にスポットライトが当たる機会は、そう多くない。法律は建前上、役所の審議会、国会審議を経てつくられ、官僚に決定権があるわけではなく、その発言も「官僚答弁」で面白みに欠けるからだろう。

 そうこうしている間に古川貞二郎の死の報に接した。その時私は、古川が甲高い声でポツリと漏らした言葉を思い起こした。「(私の取材は)彼ら(年金官僚)の供養にもなるからね」という〝遺言〟であった。するとモヤモヤしたものが晴れていく心境になった。

 年金官僚にも本音は存在する。顧みられなかった彼らの思惑を推し量り、記録していくことで、現行年金制度の本質に迫れるのではないか。その視点で年金の歴史を紐解くと、「改革」の舞台の奥底から、確かに年金官僚の壮絶な攻防が浮かび上がってきた。

 2025年、日本は、団塊の世代すべてが75歳以上の後期高齢者となり、国民の5人に1人が後期高齢者となる「2025年問題」に直面する。その年には年金法改正が予定されている。

 歴史上経験したことのない高齢社会に私たちが立ち向かう時、年金はどう位置付けられるべきなのか。

 その解は、政治とメディア、そして巨額な積立金に翻弄された年金官僚たちのドラマの中に、ちりばめられているはずである。

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最終更新:4/17(水) 8:32

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