江戸時代の「人気職業」はいくら稼いでいたのか、「千両役者」は寛政の改革を機に姿を消した

9/8 19:02 配信

東洋経済オンライン

「火事と喧嘩は江戸の華」「一年を二十日で暮らすいい男」など、江戸の風俗の中から生まれた言葉は現代まで数多く残っていますが、江戸の庶民のリアルな暮らしぶりとはいったいどんなものだったのでしょうか。
大工に駕籠かきから髪結い、棒手振りまで、時代劇などでお馴染みの職業がどれだけの収入を得ていたのかを現代の感覚で換算してみると、これまでの印象がガラッと変わるかもしれません。
※本稿は、磯田氏の監修書『新版 江戸の家計簿』から、一部を抜粋・編集してお届けします。

■江戸時代の花形職業だった「大工、左官、鳶」

 徳川家康が幕府を開いた当時、江戸は寒村だった。町づくりのために三河や駿河などから呼び寄せられたのが、大工をはじめとする職人たちである。また、武士たちの生活必需品を作る職人も、関八州などから集められた。

 職人たちは職ごとにまとまって住み、職人町が形成された。古地図などでは、大工町、鍛冶町、木挽町などといった町名が見える。

 職人には大きく分けると道具を持ってよそに出かけて仕事をする出職と、家のなかで物を作る居職がある。なかでも出職の大工、左官、鳶は「江戸の三職」と呼ばれる花形職業だった。

 火事が多かった江戸では、大工は引っ張りだこだったのである。賃金は現代感覚で換算すると、日給にして2万7000円、年収にして800万円近くにもなった。

 職人中、大工は最も高収入で生活レベルも高い。女子には習い事をさせ、歌舞伎見物もしたようだが、家を持つ者は稀で、借家住まいが多かった。

 そんな大工をはじめとする建築職人たちは、大火があるごとに賃金が上がり、江戸の60%が焼失した明暦の大火(1657年)後では、さらに暴騰した。そのため幕府は「上職人(腕のいい職人)」の賃金の上限を定めたのだった。この賃金の制限によって職人町は離散してしまう。

 大工には及ばないが、畳職人や石材に細工をする「石切」は日給約1万5000円、大鋸で原木を挽き割り、造材にあたる「木挽」は日給約1万円だった。

 しかし当然ながら、すぐに高収入を得られるわけではない。親方、職人、弟子という階級があり、親方は職人に仕事を供給する代わりに賃金の一部をピンハネした。弟子は一人前の職人になるまで、長年の奉公と修業が必要だったのである。

■日本橋から吉原大門までの駕籠代は約3万7500円

 幕府の公文書を運んだ飛脚を「継飛脚」といい、2人1組で、1人は「御用」と書いた高張提灯を掲げ、もう1人が文書を入れた籠を担いだ。

 庶民の手紙などの書類や金銭、小荷物などの運輸も飛脚が担うようになった。所要時間や荷物の重さにより料金が違った。江戸市中の通信を請け負った町飛脚も登場した。

 飛脚とともに江戸の町を走り回ったのは駕籠。当初、庶民が乗ることは禁じられていたが、しばらくして四つ手駕籠という簡素な町駕籠が出現した。現代の価格で日本橋から吉原大門までの約5㎞分が約3万7500円というかなりの高額であったが、駕籠で乗りつけるのが江戸っ子の見栄だったのだ。

 現代では医者は高収入の代表で、平均年収は1000万円を超えるが、江戸ではどうだったのだろう。今のような医師資格はなく、法律上は誰でも医者になることができたというから、収入もさまざまだ。

 幕府や藩に仕える医者と、町医に大別でき、さらに町医には町奉行から駕籠を使用する許可を得た乗物医者と、お供に薬箱を持たせて歩く徒歩医者がいた。

 医者によって薬礼(治療や投薬に対して医者に払う代金)も違った。『江戸真砂六十帖』によると寛延年間には1両で300服相当、天保年間では120服相当だ。

 また、髪結いを専門とする床屋は3代将軍・家光の頃に誕生した。多くは湯上がり客を狙って、湯屋の近くに開業したが、開店費用は現代に換算して5000万円近くもした。客の頭(月代)を剃り、髷を結い直し、眉の手入れや耳掃除などをして相場は32文、約2400円。月収約60万円という高額所得者だった。

 江戸時代の商人は、特定の店を構えないで商品を売り歩く行商人が多かった。なかでも天秤棒をかついで売り歩く棒手振りは、江戸庶民の生活になくてはならない存在だった。野菜や魚、豆腐、漬物といった食品を毎日売り歩き、人々はその日食べる分だけを購入した。針や糊など日用品の販売や錠前直し、鏡磨きなどのサービス業を行う者もいた。

 たとえば、棒手振りの1日は早朝、青物市場に行き商品を仕入れることから始まる。仕入れ用に借りたお金約700文から、大根などの野菜を購入。肩に食い込む天秤棒の重さに耐えながら、声を張り上げ野菜を売り歩く。日が傾くまで働いて稼ぎは500文程度。現代感覚で算出すると、3万7500円ほど。

 米や味噌といった食費に家の家賃を差し引き、子どもに菓子でも買えば、手元に残るのは約200文。現在の価格にして1万5000円程度だ。借金の返済に充てたり、酒を飲んでしまったりすればあっという間になくなってしまう。江戸っ子は宵越しの銭は持たないというが、持てないというのが実情だったようだ。

■歌舞伎界に「千両役者」は実在していた

 「一日に千両の金が動く」と謳われたのが、日本橋の魚河岸、吉原、そして芝居町である。町奉行所の許可を得た中村座、市村座、森田座のいわゆる江戸三座は江戸歌舞伎の中心で、老若男女で賑わっていた。役者にもピンからキリまであり、給金にもかなりの差があった。

 人気のある立役者のことを「千両役者」というが、安永7(1718)年、実際に中村仲蔵が森田座から1000両(約3億円)を受け取ったという。しかし、松平定信を登用した寛政の改革(1787-1793年)によって役者の1年間の給金が定められ、規制が実施された。

 その結果、最高額は尾上菊五郎の500両(約1億5000万円)となる。次が坂東彦三郎450両(約1億3500万円)、尾上多見蔵400両(約1億2000万円)などと細かく取り決めが行われることとなり、「千両役者」は見られなくなった。

 相撲は歌舞伎、吉原とともに人気を博した。もともと鎌倉、室町時代まで武術としての格闘技「武家相撲」だったが、江戸時代には勧進相撲として盛んになった。寺社建立や仏像修理などの費用集めのため、深川八幡宮で興行したのが、寺社奉行の許可を得た最初の相撲だったという。

 しかし、次第に営利目的となり、有名力士が登場しても相撲を取らなかったり、体を見せるだけの力士が登場したりと、ショーや見世物的なものとなっていった。

 力士は大名のお抱え者が多く、藩から禄をもらっていた。天明から寛政年間には大名の参勤交代とともに江戸に人気力士が集結し、江戸相撲は大人気となった。松江藩の雷電為右衛門、仙台藩の谷風梶之助、久留米藩の小野川喜三郎などが人気力士だった。晴天8日の興行で50両(約1500万円)から80両(約1800万円)も稼いだという。

■文字どおり「ピンキリ」だった遊女の揚代

 吉原は江戸唯一の幕府公認の遊郭である。江戸の男の望みはお伊勢参りと遊郭で遊ぶことだと言われるほど、男たちにとって魅惑的な場所だった。

 はじめは日本橋葺屋町の外れにあったが、明暦3(1657)年、大火の後に、浅草・浅草寺北に移された。客の大半は武士だったが、次第に町人主体となっていく。また、参勤交代で江戸に上った地方の武士たちにとっても、1度は行ってみたい場所となっていた。

 客が高級遊女の花魁を呼び、幇間や芸者も一緒に酒や肴を振る舞って豪遊すると、一晩で現代の価格にして1000万円もかかったという。かの紀伊國屋文左衛門には、吉原大門を閉めて貸し切りにし、千両箱数個を使い切ったという伝説がある。また、江戸の材木商・奈良屋茂左衛門もこれに負けじと散財したそうだ。

 吉原で働く遊女は、時代によって等級が変わった。元禄・享保期には、太夫、格子女郎、散茶女郎、梅茶女郎(局女郎)、切見世女郎(局女郎)の5等級があった。太夫、格子のような高級遊女は享保頃から花魁と呼ばれる。

 しかし、明和の頃に太夫、格子が絶え、散茶女郎が「呼出」、「昼三」、「附回」の3等級となり、この3等級の遊女が花魁と呼ばれるようになった。下級遊女も整理され、「座敷持」、「部屋持」、「番頭新造」、「振袖新造」、「禿」といったように分けられた。客を取るのは部屋持以上の遊女である。

 揚代は呼出で金1両1分(約37万5000円)、昼三で金3分(約22万5000円)、座敷持で金2分(約15万円)、部屋持が金1分(約7万5000円)だった。部屋持以下では番頭新造、振袖新造が金2朱(約3万7500円)、少女の禿は無給で花魁の身の回りの世話をした。禿はその後、新造となり、さらに修業を積んで一人前の遊女となった。

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最終更新:9/8(日) 19:02

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