「政府が果たす役割」についての考え方も正反対、現代アメリカを貫く「驚くほど真逆」な2つの正義

3/16 15:02 配信

東洋経済オンライン

ふだん私たちが何の気なしに口にする「正義」という言葉ですが、玉川大学名誉教授の岡本裕一朗氏によれば、「正義」の理解の仕方というのは、歴史的にも地理的にもいろいろ違っているそうです。
それではいったい何を正義と考えるのか、そして、そもそも正義とはいったいどういうことなのでしょうか。そのヒントを岡本氏の著書『知を深めて力にする 哲学で考える10の言葉』から、一部を抜粋・編集してお届けします。

■「公平性」から展開するロールズの「正義」

 アメリカの政治哲学者、倫理学者のジョン・ロールズ(1921〜2002)は、1971年に『正義論』を発表したのですが、そこで展開されているのは、“公平性”、つまりfairnessをめぐる議論です。

 正義がなされるには、どういう分配が可能なのか、という問いに答えるかたちで、彼独特の“公平性”の理論が展開されています。「公平性としての正義」―これがロールズの構想する「正義」という考えです。

 ロールズの考え方はこうです。他の人の社会的な状態や経済的な状況などが分からないよう「無知のベール」をかぶせ、一番恵まれない人が最悪の状態に陥ることを回避しようとする(これを「マキシミン・ルール」といいます)と、参加者はどういう選択をするか、というのです。

 つまりロールズはある種、純粋な思考実験をしているわけです。少し分かりづらいかもしれませんが、そこでは2つの原理が導かれるとします。

 第1の原理(自由原理)は、各人が広範で自由な制度に対等にアクセスできることです。

 第2の原理(格差原理)は、社会的・経済的不平等は、次の2つの条件を満たすように構成されなければならないことです。

 ①そうした不平等が各人の利益になると無理なく予期しうること。

 ②全員に開かれている地位や職務に付帯すること。

 注目すべきは、ロールズが公平を考えるのに、「不平等」からアプローチしていることです。たとえ不平等があっても、各人の利益になると無理なく予期しうることが大事だ、というのです。

■「弱者保護」を命題とするリベラルな民主党

 たとえば、失業保険や生活保護など、まさかの場合のセーフティネットが張られていれば、心おきなく働き、暮らすことができます。

 いま栄華を極めている人も、明日には路頭に迷っているかもしれません。そういう人だって最低保障があれば安心でしょう。

 だれしもが富者になれるわけではありませんが、だれしもが貧者になる可能性は常にあります。

 ロールズはリベラルな立場で、社会を構成する普遍的な原理を案出しようとしたわけです。その背後には1960年代、70年代の公民権運動があり、それは黒人や女性などの弱者保護を提唱したものでした。ロールズはその運動に理念的な支柱を立てようとしたわけです。

 アメリカは1930年代からリベラルの伝統があり、弱者保護が中心的な命題として受け継がれてきました。そのためには、国の関与(大きな政府)が想定されていますが、実際の政治では民主党の政策がそれに則っています。

 リベラルは経済政策の他、道徳的にはLGBTQの諸権利や妊娠中絶なども認める立場です。

 このような、リベラルの側から「正義」に現代的な解を提出したのがロールズといえます。それに賛成するにも、あるいは反対するにも、過去の正義をめぐる議論を知っておくのは、自分の意見を構築するのに欠かせない作業ではないか、という気がします。

 「正義」という点で、1つだけ注意しておきます。ロールズは「正義」を「善」から区別し、「公正(fairness)」と理解しました。

 リベラリズムの考えでは、個々人が追求するものが「善」であるのに対して、「正義」はむしろ人々の間の公平性と考えられるのです。

 こうしたリベラルの「正義」に対して、国家からの介入をいっさい取り払って、より個人重視の、自由な選択を行なおうというのがリバタリアン(libertarian)です。

 これは実際のアメリカ政治では、共和党の経済的な政策(小さな政府)のバックボーンとなっています。では、リベラルの「正義」を批判するリバタリアンは、何を正義と考えるのでしょうか。

■「自己所有」を重視するリバタリアンの「正義」

 ロールズが『正義論』を出版してすぐに、その反論を展開したロバート・ノージック(1938〜2002)の議論を見ておきましょう。1974年に刊行した『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで、ノージックは個々人の「別個性」と「自己所有」という考えに基づいて、「自由」の考えをリベラル以上に強調しています。

 あらためていうまでもありませんが、私たちはみな、それぞれ違った生活を送っていますし、まったく別個の存在です。各人は、自分の身体の所有者ですし、自分の生活や行為に関して、自分で決定することができます。

 この何でもない当たり前のことから、ノージックは「正義の権原(entitlement、エンタイトルメント)理論」を導くのです。「エンタイトルメント」というのは、「資格」とか「権利」とも訳すことができる言葉です。これをノージックは、所有の正当性を示すために使っています。

 たとえば、だれの所有物でもないものを獲得するとき、あるいは他人の所有物を売買などで正当に入手するとき、不正は行なわれていません。言い換えると、他人のものを盗んだり、嘘をついてだまし取ったりしたのではありません。

 そのような不正が行なわれていない場合には、「権原をもっている」といわれるのです。ノージックの場合、「権原」があるかどうかが、「正義(正しさ)」の重要な原理となるのです。

 つまり、正当な方法によって獲得した自分の所有物については、身体に対する権利と同じように。エンタイトルメント(権原)をもっているのです。そのため、極端にいえば、餓死しかかった他人がそばにいたとしても、自分の所有物を他人に分け与える義務はないのです。

 もちろん、慈善行為として分け与えることは否定されませんが、だからといって、他人に分け与えなくても「不正(義)」になるわけではありません。ここから分かるように、リベラルが主張するような所得の再分配は、ノージックにとって認められないのです。

 こうしたリバタリアンの考えからすれば、リベラルとは違って国家としては、「最小国家」(小さな政府)をめざすことになります。ノージックによれば、「最小国家」の役割というのは、「暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行」などに限定されます。

 つまり、侵略行為から市民を守り、警察や裁判所によって市民を守ることです。それ以外のことは、市民に対する権利の侵害であり、不当だと見なされます。

■所得の再配分や福祉政策は国家の「越権行為」

 通常だと、国家にはその他の役割も属しています。たとえば、公共サービスを提供したり、福祉政策を実施したりすることです。また、国家は道徳や教育・文化などに関して、市民生活にさまざま干渉しています。

 ところが、リバタリアンの立場からすれば、国家が個々人の生活に介入して、所得を再分配したり、福祉政策を実施したりするのは、まったくの越権行為なのです。

 自分が正当な手続きによって稼いだものを、他の人よりも豊かという理由で、税金としていっそう多く徴収するのは、国家による盗みにほかならない、と考えるのです。

 リベラルとの違いを理解するため、才能豊かなスーパースターの例を考えてみましょう。その人物は、自分の才能によって莫大な収入(たとえば100億円)を得ることになったとしましょう。このとき、国家としてどうすることが「正義」になるのでしょうか? 

 リベラルだと、こうして得られた莫大な収入に対して税率を高くして課税し、社会的に再分配すべしと主張するでしょう。

 こうして、極端な場合そのスーパースターは、99億円が税金で徴収され、手元には1億円が残ることになります。徴収された税金によって、恵まれない人々が救済されるのです。

 これに対して、ノージックは「勤労収入への課税は、強制労働と変わらない」といって、再分配にきっぱりと反対するわけです。「権原理論の観点からするなら、再分配は、実際のところ人びとの権利の侵害をともなうから、実に深刻な問題である」(『アナーキー・国家・ユートピア』)。

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最終更新:3/17(月) 23:47

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