山間部にある地方都市で必ずと言ってよいほど目にする公営の日帰り温泉施設。その多くは、バブル崩壊後の1990年代後半から2000年代初頭にかけて、地域振興や観光客誘致を目的に、地方交付税や補助金を活用して整備されたものだ。
■放置されていた日帰り温泉施設で「うなぎの養殖」を開始
しかし近年はコロナ禍や燃料費高騰の影響が重なり、休廃業に追い込まれる施設が増えている。
岐阜県・旧金山町の「ゆったり館」もその1つ。1992年に開業し、ピーク時には年間19万人(1998年度)いた利用者も、2019年度には5万人までに減少。その後、新型コロナの影響が直撃し、管理業者が2021年3月に撤退した。市は新たな事業者を募集したが、決まらないまま放置されていた。
そんな中、2025年1月から、この場所でうなぎの試験養殖を始め、今年1月に本格的に参入した事業者がいる。手がけるのは、岐阜県高山市で観光客向けの屋台村を運営するTri-win(トライ・ウィン)だ。
Tri-winの伊藤通康社長に導かれて、裏の勝手口からかつての「ゆったり館」に足を踏み入れると、温泉の内湯と洗い場だった場所に5つの直径3.5メートルの巨大水槽が並び、体長20センチほどのうなぎの稚魚が元気よく泳いでいた。
稚魚の数は5000尾。今年7月の初出荷に向けて、すくすくと生育している。
これまで筆者はうなぎの養殖池を何度も訪れたことがあるが、うなぎが生息する自然環境を考慮して、泥水で飼育しているところがほとんどだった。
しかし、ここでは地下深部から湧き出る、澄みきった温泉水を利用している。外部環境の影響を受けにくく、従来の養殖で課題となりがちな水質変動や外的汚染のリスクを低減できる可能性があるという。
■燃料費が節約できて、うなぎを安く出荷できる可能性も
稚魚たちが泳ぐ水槽の中の水は温泉の源泉で、水温は年間を通してうなぎにとって適温である29度前後で安定している。魚にとってストレスとなる温度変化がほぼなく、冬場でもボイラーなどで温める必要がないので、燃料費も抑えられる。そのため、「出荷価格を平均よりも1割ほど安くできるかもしれない」(伊藤社長)という。
これまでにこの場所で試験的に養殖したうなぎは、大きく育っても皮が硬くならず、試食した多くの人が川魚特有の臭みの少なさと、脂がのっているのにすっきりとした軽い口当たりを評価した。
伊藤社長は、今後、水産試験場などと連携して温泉養殖の効果を検証していく予定だ。
一般的なうなぎ養殖は、1年でいちばん需要の高い土用の丑の日に向けて出荷を集中させるが、伊藤社長の養殖場では、稚魚の投入時期を分散させて、通年供給を前提とした体制を構築する。下呂温泉という観光地であるがゆえに、季節に関係なく提供できることが価値になるからだ。
今年7月の初出荷を皮切りに、初年度は地元のスーパーやうなぎ料理店などに向けて年間8000尾の出荷を見込む。将来は、年間5万尾まで広げたいと考えている。
伊藤社長が温泉でのうなぎ養殖に新規参入した背景には、伊藤社長自身がこれまで歩んできた事業転換の積み重ねがあった。
■スーパー廃業、屋台村苦戦で温泉養殖へ
祖父の代から続いたスーパーマーケットの経営を引き継いだ伊藤社長は、人口減少やドラッグストアの進出による価格競争の激化を受けて、2014年に廃業を決断する。
「スーパーマーケットは、値下げしないと勝てません。でも、それを続けるほど売り手も買い手も、地域の生産者も疲弊していきます。弊社の経営理念である“三方よし”が成り立たなくなっていたんです」(伊藤社長)
スーパーの跡地を活用して立ち上げた観光客向けの屋台村では、個店では難しい集客やPRを屋台村全体で積極的に行い、飲食店経営者の挑戦を後押しする「三方よし」を実現した。
しかし、コロナ禍によって観光客が激減してしまう。
新たな事業を模索する中で、転機となったのは、温泉宿を経営する夫婦から寄せられた相談だった。
「温泉をボイラーで沸かし直す燃料代が経営を圧迫している」
温泉は源泉が熱すぎれば冷まさねばならないし、ぬるければボイラーで加温する必要がある。とりわけ後者の場合、原油価格の上昇が直接経営を圧迫する。
それならば、温泉をそのままの温度で活用する道はないかと考えた。そしてたどり着いたアイデアが、温泉での魚の養殖だった。高密度で飼育でき、販売単価が高く、販路が広い魚種は何か――その答えがうなぎだった。
ところが、うなぎ養殖への新規参入には高い壁が立ちはだかった。
水産庁の許可制度の下で、国内の養殖量は国際的な枠組みの中で厳格に制限されていて、新規参入は既存事業者の撤退などで生じた空き枠を“抽選で”獲得するしかないのだ。
準備を整えても、抽選そのものが行われない年もあるため、事業としてはかなり不確実性が高い。実際、伊藤社長も抽選に外れて、計画の見直しを余儀なくされた経験を持つ。
「参入障壁は設備や技術だと思っていたら、実際には制度が最大の壁でした。でも逆に言えば、それを乗り越えれば競争は激しくないとポジティブに受け止めました」(伊藤社長)
既存の養殖事業者との協業などで参入の糸口を見つけ、現在は小規模ながらも年間約8000尾の養殖枠を確保している。
もっとも、うなぎの温泉養殖には稚魚の調達やえさの供給、過密飼育に伴うリスク管理、養殖枠の配分制度など課題も多いのは間違いない。とくに養殖枠については、実際には使われていない枠や低稼働の枠があるはずだが、制度の硬直性が新しい挑戦のスピードを抑えているのが現状だ。
■全国にある「温泉」という資源を生かさないのはもったいない
それでも、この温泉養殖の取り組みは地方に残された可能性をはっきりと示している。
「温泉の成分や水質によっては魚に影響を及ぼす可能性もあるので、適性の見極めが前提となりますが、温泉は全国にある資源です。それを生かさないのはもったいない」と伊藤社長は話す。
観光資源として使われてきた温泉施設が、うなぎを育てる場へと変貌した。人口減少が進む中で、地域の資源を生かして産業の拠点をつくる方法の一つが、ここに示されている。
永谷 正樹 :フードライター、フォトグラファー
最終更新:7/9(木) 8:30