宮城県民なら誰でもこの曲を知っている…「青葉城恋唄」がJR仙台駅の"発車メロディ"になった意外な理由

4/18 9:17 配信

プレジデントオンライン

JR仙台駅(宮城県仙台市)では、さとう宗幸さんの代表曲「青葉城恋唄」(1978年発表)をアレンジした発車メロディが流れている。当時無名の新人だったさとうさんの楽曲が、なぜ採用されたのか。昭和女子大学現代ビジネス研究所研究員・藤澤志穂子さんの著書『駅メロものがたり』(交通新聞社新書)から、国鉄時代のエピソードを紹介しよう――。

■ご当地ソングがなかった仙台

 東北新幹線でJR仙台駅に着くと、「青葉城恋唄」(作詞:星間船一、作曲:さとう宗幸)のメロディが聞こえてくる。弦楽器の豊潤な音色は、流れる川面を思い起こさせるような、仙台フィルハーモニー管弦楽団の生演奏による音源だ。

 歌詞にある「広瀬川」「青葉城」「杜の都」の情景が浮かび、発車を知らせる鐘の音で締めくくられる。そのまま新幹線の旅を続ける旅行者には、ひとときの間、城下町・仙台を感じさせる癒しの時間だ。

 仙台には長い間、不思議と「ご当地ソング」となる代表曲がなかった、という。市内有数の繁華街である国分町を歌った演歌も過去にはあったようだが、ヒットには至っていない。札幌や長崎などに比べると「歌にならない街というジンクスがあった」と研究家の山内繁さんは分析する(2023年4月4日付「河北新報」)。

 いっぽう「青葉城恋唄」の歌詞は、市内を流れる「広瀬川」、東北三大祭りの一つである「仙台七夕まつり」、「青葉通り」「杜の都」と、仙台の名所旧跡をフルに紹介。シンガー・ソングライターのさとう宗幸さんによる、透明感のあるメロディと優しい歌声が、仙台のイメージを決定づけた。「この歌を聴けば仙台を思い、仙台を思えばこの歌が聞こえるという、ご当地ソングの代表格になった」(山内繁さん、同記事より)。

■無名の新人、地方発で異例の100万枚を達成

 「青葉城恋唄」は1978(昭和53)年5月発表、仙台を拠点に活動していたさとうさんのメジャーデビュー曲だ。地方在住の無名の新人だったが、仙台から人気に火が付き、シングル盤を100万枚も売る爆発的なヒットとなった。そのため、この時代を生きた人の多くは、きっと仙台というとこの曲という印象を今も持っているのではないだろうか。

 実は、この大ヒットのきっかけはJR仙台駅(当時は国鉄)だったことは意外と知られていない。当時の駅長・米山晴夫さん(故人)が、郷土の若者の挑戦を応援しようと構内で曲をかけまくったのがその始まりだった。駅メロが持つ力の大きさを感じさせてくれる。

 「当時の国鉄では、商業ベースに乗るようなことを勝手にやってはいけなかったはず。もしかしたら僕の曲をかけたことでお咎めを受けたのかもしれないけれど、毅然とした方でした。まさに英断。感謝してもしきれない。今もホームで一日に何回も流してもらえているのは、アーティスト冥利につきます」とさとうさんは振り返る。

 さまざまな苦労を重ね、30歳近くなって遅咲きのデビュー、地方発で異例の大ヒットとなったドラマがこの曲にはあった。

 幼少時に宮城県に家族と転居してきたさとうさんは、音楽の道を志し、東北学院大(仙台市)在学中から歌声喫茶でアルバイトをしていた。

 卒業後は東京で一般企業に就職したものの、音楽を諦めきれず一年あまりで帰郷、再び歌声喫茶で働くなどしながら音楽活動を続け、同郷の女性と結婚して娘ももうけたが、なかなか人気が出ず、知人の借金の保証人になるなどして苦労した。

■3~4分で曲が完成した

 1977(昭和52)年にディスクジョッキーをしていたNHK仙台放送局のラジオ番組で、リスナーから寄せられた詞にさとうさんが曲をつける企画があった。

 「青葉城恋唄」と題した詞を送った星間船一さんは当時、仙台で活躍していたセミプロの作詞家で、仙台の情景とともに失恋のほろ苦さを綴った詞はさとうさんの琴線に触れた。「一気にイメージが膨らんで、作曲は放送予定の前日、ギターで三~四分で完成しました。あっという間にできる曲は皆さんに愛されるものだ、とあとで実感することになりました」と話す。

 番組では、仙台市出身で東北大で機械工学を学ぶ榊原光裕さんがアシスタントを務めていた。独学でピアノを学び、仙台で活躍していたバンド「コンビネーションサラダ」のキーボード奏者でもあった。やはり仙台市出身のミュージシャンの稲垣潤一さんが、デビュー前にドラムを担当していた“伝説のバンド”でもある。

 榊原さんは「青葉城恋唄」に即興でアレンジしたピアノを合わせ、番組で生演奏したところリクエストが殺到、さとうさんのメジャーデビューが決まる。レコーディングには榊原さんも参加、「シンプルなメロディで故郷を歌う点が共感を得たのではないでしょうか」と話す。

■国鉄本社にかけあい、上野行きの特急「ひばり」発車メロディに

 「青葉城恋唄」は1978(昭和53)年5月にシングル盤が発売された。当時の仙台駅の米山駅長は、上野~仙台間を当時、走っていた特急「ひばり」が仙台駅から発車する際のメロディとしてホームで、到着後には駅構内全体で、「青葉城恋唄」のレコードを音源とするテープをかけ続けた。

 「『地元の歌を応援したい』と当時の国鉄本社にかけあったそうです」と、息子で父と同じように旧国鉄に入り、仙台駅の助役を務めたこともある元JR石巻駅長の俊秀さんは言う。

 また、駅構内のBGMとしてもひたすらかけ続けた。シングル盤の最初のレコードプレスは二~三千枚程度だったが、多くの乗降客が耳にした効果もあったのか、最初の一週間で、仙台だけで三万枚を売り切った。

 その後、NHKの朝の全国テレビニュースが「仙台で生まれた曲が驚くほどの盛り上がりを見せている」として紹介、さとうさんが旧青葉城の城跡でギターを弾きながら「青葉城恋唄」を歌う様子を生中継した。これを機に評判は爆発的に全国へと広がる。

 「全国のレコード店から、シングル盤の追加注文が万単位で殺到して。もう何が何だか分からなくなっていきましたね」とさとうさん。同年のNHK紅白歌合戦にも初出場を果たした。米山駅長は紅白歌合戦が放送された大みそかの12月31日夜、仙台駅で夜通し、「青葉城恋唄」をかけ続けて応援したという。

■駅長のアイデアが仙台発の大ヒット曲を生んだ

 息子の俊秀さんによると、実は米山駅長はこの年のNHK紅白歌合戦に、審査員として出演のオファーがあったという。仙台発の「青葉城恋唄」のヒットが、それだけ社会現象となっていたからなのだろう。だが米山駅長は「大みそかという大事な日に駅を不在にすることはできない」と出演を断った。

 そんな経緯もあり、「当日はさとうさんの紅白出場を、駅構内放送で曲を流し続けて応援したのでしょう」。俊秀さんは現在、仙台駅に隣接するJR系のホテルで働いており、父の遺志を継いで今も仙台駅を見守り続けている。

 「青葉城恋唄」がヒットした当時の歌謡界は、1960年代から1970年代にかけて一世を風靡したフォークソングの影が薄くなる一方、ピンク・レディーやキャンディーズなど女性アイドルが台頭し、カタカナの和製英語が飛び交うヒット曲が多くなった。その中でレコード会社は、新人としては遅咲きのさとうさんの特徴を出すため「杜の都の吟遊詩人」のキャッチフレーズで売り出した。

 「当時の僕は29歳で、『青葉城恋唄』の“瀬音”とか“ゆかしき”なんていう歌詞が、当時の大人に受け入れられたように思います。東北大出身の、当時で50~60歳くらいの方々が『聴くと仙台を思い出す』とノスタルジーを感じてくださったようです」。

 加えて「地方の時代」という世相も反映しているようだ。この当時、政府による東京への中央集権に疑問を呈する意見が、地方自治体の首長らを中心に活発に議論されていた。仙台は東北の一大都市であり、旧七帝大の一つである東北大学があって、“学都”とも呼ばれていた。「都会には負けない」という気概もあったろう。

■ふるさとを旅立つ瞬間に流れる駅メロの効果

 しかし、もうひとつ。当時の鉄道の状況と駅という舞台の力は見逃せないのではないだろうか。大ヒット当時、東北新幹線はまだできておらず、在来の東北本線がメインルートで、上野~仙台間は特急「ひばり」がほぼ一時間ごとに運転されていた。

 この当時、東北各地と東京(上野)を結ぶ列車は、行先や通るルートごとに違う列車名が付されていたため、東北人それぞれの町の風土と心は、列車名で繋がっていた一面があった。

 盛岡行きの「やまびこ」や青森行きの「はつかり」、秋田行きの「つばさ」、山形行きの「やまばと」などが代表的だが、上野駅ではその列車が発車するホームに行くと、行先の町や沿線のお国訛りが聞けるほど根付いていた。

 その中、「ひばり」は仙台行き。仙台人の心をも結ぶような大切な列車だった。その列車が仙台駅を発車するとき、つまり、ふるさとの家から旅立つ瞬間のこのとき、“純仙台生まれ”の「青葉城恋唄」の優しいメロディが見送ってくれるわけである。

 仙台人の琴線を揺さぶらないわけがないだろう。まさに、ふるさとや駅を大切にしたいという温かな心と列車が持つ力を知る、駅長ならではのアイデアだったと思う。

 この歌をきっかけに仙台は、音楽の都を意味する“楽都”とも呼ばれるようになっていく。

 「青葉城恋唄」の大ヒットにより、さとうさんが歌番組への出演などのために東京へ行くことが増えた。

 実はさとうさんは「乗り鉄」でもある。仙台から東京へ行く際、今は最短で一時間半あまりで着く東北新幹線を利用するが、それ以前に走っていた列車の中で過ごした時間を懐かしむ。当時は特急「ひばり」に加え、上野~青森間を走っていた夜行列車もよく利用したという。



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藤澤 志穂子(ふじさわ・しほこ)
昭和女子大学現代ビジネス研究所研究員
昭和女子大学現代ビジネス研究所研究員。元全国紙経済記者。早稲田大学大学院文学研究科演劇専攻中退。米コロンビア大学大学院客員研究員、放送大学非常勤講師(メディア論)、秋田テレビ(フジテレビ系)コメンテーターなどを歴任。著書に『出世と肩書』(新潮新書)『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』(世界文化社) がある。
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最終更新:4/18(木) 13:17

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