スーチー氏顧問の命を救ったミャンマー元警察官が語る民主化への思い。クーデターに抵抗し、日本で難民認定

4/5 6:02 配信

東洋経済オンライン

ミャンマーの人道状況が悪化の一途をたどっている。国連人道問題調整事務所(OCHA)は3月20日、軍と少数民族武装勢力との間での戦闘の激化により国内避難民が260万人に達したと発表。ミャンマーの人権団体「政治犯支援協会」(AAPP)によると、2021年2月1日の軍事クーデターから2024年4月3日までに軍によって殺害された市民は4830人にのぼる。
さらに軍事政権は徴兵制を実施すると2024年2月10日付で発表。3月末までに第1次の招集が実施された。

軍による人権侵害が猛威を振るう中、ミャンマーを脱出して日本で難民認定を受けた元警察官のチョーサンハン氏が東洋経済のインタビューに応じ、ミャンマーの現状と民主主義回復への道のりについて語った。
 
――日本で難民認定を受けました。現在の心境は? 

 2021年9月、父と弟を先に隣国のタイに逃がした後、私自身はタイ経由で2022年12月に日本に逃れ、翌2023年7月に難民認定されました。

 認定を受けるまでの約半年間、不安な日々が続きました。ミャンマーに強制送還されたならば、必ずや逮捕され、大変な目に遭うことはわかっていましたから。

 難民認定を受けて以降、ミャンマーの民主化について積極的に発言する自信を持てました。私を保護してくれた日本政府に深く感謝しています。

■市民同士を戦わせる非道、軍支配は必ず終焉

 ――ミャンマーの現状をどう見ていますか。

 民主派が勝利した2020年の総選挙は公正なものでした。にもかかわらず、国民が選んだリーダーがクーデターでその地位を追われ、今も拘留されている。これは明らかに不正です。アウンサンスーチー国家顧問やウィンミン大統領の釈放を強く求めます。

 2023年10月27日、少数民族が大規模な攻撃を始めてから、投降する軍人が増加し、軍事政権の力は弱まっています。今回の徴兵制強行は、弱体化する軍を補強することが目的ですが、市民同士を戦わせることになります。

 市民の反発は強く、徴兵を逃れる動きも見られます。ただ、軍が家族に危害を加えかねないため、徴兵を拒否することが難しい人も多くいます。

 軍の上層部もお互いを信頼できていない状況で、いずれ軍による支配体制は崩壊するでしょう。

 ――チョーサンハンさんはミャンマーでは警察官でありながら、市民の弾圧への加担を拒否し続けたようですね。

 2021年2月1日、軍がクーデターを起こした日は、最大都市ヤンゴンのインセイン地区で幹部警察官になるための半年間の訓練を受けている最中でした。その後、同年3月から8月まで、首都のネピドーおよびその周辺で警備チームのリーダーを務め、デモ参加者を逮捕する任務を与えられました。

 しかしながら、私たちのチームは実弾を一発も発射せず、一人も逮捕しませんでした。部下には銃に実弾を込めないように指示しました。

 ――発砲させず、一人も逮捕せずということで、問題になりはしませんでしたか。

 私が指揮したチームは総勢10~15人。逮捕も射殺もしなかったことで、精神的に救われた部下もいたかもしれません。他方で、私のことを「警官を装った民主主義者ではないか」と疑う部下はいました。

 そうした人物はビルマ語で「ペイヤディー」(スイカ)だと言われます。外側は緑(=軍の色)でも、中は赤い(=民主派)と。私はスイカだと疑われました。

 しかし、問題となりそうな写真はスマートフォンからすべて削除していて、証拠を見つけられることはありませんでした。

 2021年8月頃になると市民によるデモも見られなくなり、セキュリティチームの任務自体がなくなりました。

■国軍司令官が不快感を示した理由

 ――クーデターの直後、民主派の最高指導者アウンサンスーチー氏の上級顧問を務めたオーストラリア人経済学者ショーン・ターネル氏の尋問の際に、チョーサンハンさんは英語の通訳を務めました。

 私はオーストラリアに留学した経験があり、英語で意思疎通ができるということから、クーデター直後に拘束されたターネル氏の通訳を命じられました。先ほど申し上げた、セキュリティチームのリーダーを命じられる前のことです。

 私は尋問に際して通訳を務めるとともに、尋問内容に関する報告書の作成にも関与しました。その報告書は、最終的にミンアウンフライン軍司令官に届けられました。しかし、その報告書の内容について、司令官や警察の長が不満を抱いたことから、ターネル氏を擁護したとみなされた私は通訳を交代させられてしまいました。

 その後、ターネル氏が拘留されていることはオーストラリア政府も知るところとなりました。

 ミャンマー軍事政権およびASEAN各国、オーストラリア政府による人身売買問題のためのオンラインでの国際会議で、オーストラリア政府の関係者からターネル氏の即時釈放要請がありました。そのときも私は通訳を務め、議事録にそのやり取りを記しました。

 報告書はミンアウンフライン司令官の目に留まり、内容に激怒した同司令官の命令により、まもなくして私は職務を外されてしまいました。

 ――ターネル氏は釈放された後、自著でチョーサンハンさんのことを「私の命を救ってくれたヒーローだ」とほめたたえました。 ターネル氏の処遇をめぐり、どんなやり取りがあったのでしょうか。

 軍事クーデターの5日後、ターネル氏は逮捕され、インセインにあった刑事捜査部に連れてこられ、そこで尋問を受けました。ターネル氏が連行された場所は非常に環境が悪く、オーストラリア大使館も当時、ターネル氏の安否を把握できていませんでした。

 ターネル氏は逮捕直後、身体的な虐待も含めてひどい扱いを受けていました。私は捜査チームに虐待をやめ、食事やトイレの状態を改善するように要請しました。そしてターネル氏について「本人は何も罪を犯していない。すぐに家族の元に返すべきである」と報告書に記しました。

■日本にどのように逃れたのか

 ――ターネル氏のその後は? 

 1年半以上も拘留されました。釈放されたのは2022年11月17日。ターネル氏の所在を知ることになったオーストラリア政府や大使館がミャンマー軍事政権に強く抗議し、大使自らミンアウンフライン司令官にターネル氏の釈放を求めました。

 ――ターネル氏の釈放後、チョーサンハンさんはどうしましたか? 

 私はターネル氏の件に関与したこと、その後、民主主義を求める市民の抵抗運動に理解を示したことから、もはやミャンマーにはいられないと考えました。

 そこで博士号を取得するための留学を理由としてパスポートを取得し、留学先のタイに向かいました。ただし、隣国のタイも安全とは言えません。幸いにもビザが下り、日本に逃れることができました。

 ――ミャンマーで軍に抵抗することには勇気が必要です。チョーサンハンさんが、軍が支配するミャンマーの体制に疑問を抱くようになったきっかけは。

 私は1991年にミャンマー南部のエーヤワディ管区の小都市で生まれました。私の父母は小さな雑貨店を営んでいて、姉と2人の弟がいました。高校卒業前の最後の試験を受け、その結果を待っているとき、滞在先の友人が住んでいた村でサイクロン・ナルギスの直撃を受けました。

 サイクロン・ナルギスではミャンマー全土で約10万人が死亡し、私は木に抱きついて一命を取り留めました。家族は幸い、無事でしたが、多くの友人が亡くなりました。

 そのとき、ミャンマーを支配していた軍事政権は避難指示を出さず、被災者に十分な支援の手もさしのべませんでした。その頃から軍が支配するミャンマーのあり方に強い疑問を抱くようになりました。高校時代、アウンサンスーチー氏の父親でビルマ建国の父と言われるアウンサン将軍の伝記を隠れて読み、感銘を受けました。

■内部から警察の体質を変えたかった

 ――なぜ警察官になったのですか。

 本当は大学に行きたかったのですが、警察訓練学校のリクルーターが私の高校に来て、訓練学校に入るように持ち掛けました。訓練学校でも大学のための勉強はできるのでそのほうがいいというリクルーターの説得を私は受け入れました。今考えると、その説明は正しいものではありませんでした。

 警察では上官が恐怖によって部下を支配し、暴力など人権侵害もたびたび目にしました。ミャンマーでは警察のイメージは非常に悪く、無実の人をつかまえて拷問することもしばしばありました。

 私は警察に入った以上、その体質を変えるために力を注ぎたいと思うようになりました。タイミングよく、タイの警察士官学校に留学する機会を得られ、そこで市民社会にとってふさわしい警察官であるための心構えを勉強しました。

 ――タイでの留学の後は? 

 2016年4月には、ミャンマー政府の人身売買対策局に配属されました。当時は、アウンサンスーチー氏が率いる民主派政権が発足した直後でした。ただし、警察は依然として軍が掌握していて、改革は進みませんでした。

 その後の2018~2019年にかけてオーストラリアに留学し、国際関係学の修士号を取得しました。そこでの学びから、ミャンマーでは多民族による連邦民主制がふさわしいと考えるようになりました。

 外国に留学し、民主主義の重要性を学んだ私に対して、上司は不満とともに脅威を感じるようになり、昇進を阻止しようとしました。

 選挙の際、アウンサンスーチー氏が率いる国民民主連盟(NLD)には投票するなと、上司は私に圧力をかけてきました。私は上司の言葉を無視して、こっそりNLDに投票しました。

■民主主義を取り戻すうえでの日本への期待

 ――日本での生活基盤を確立するうえでの苦労は。

 当初は言葉も文化も分からなかったので大変でした。今は日本での生活にだいぶ慣れました。難民認定されたことで、精神的にも安定しました。日本語の勉強にも励んでいます。

 ――日本を含む国際社会に望むことは。

 日本を含む世界の国には3つのことを期待したい。

 1つ目としてミャンマーからの難民を受け入れ、定住の場を提供してほしい。2つ目としては、民主派勢力が結成した国民統一政府(NUG)への支援を強化してほしい。そして3つ目として、残忍な軍事政権へのいかなる支援もやめてほしい。

 日本はミャンマーの軍事政権に圧力を加えることができる主要な国の一つです。軍事政権にとって、円借款をはじめとする日本からの政府開発援助(ODA)がなくなると困ると思います。日本ははっきりと姿勢を示してほしい。

東洋経済オンライン

関連ニュース

最終更新:4/5(金) 6:02

東洋経済オンライン

最近見た銘柄

ヘッドラインニュース

マーケット指標

株式ランキング