「ツンデレな道綱母」が藤原兼家にした嫌がらせ バカにされても大納言にまで出世した藤原道綱

3/31 5:21 配信

東洋経済オンライン

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第13回は、藤原道長の異母兄弟である道綱と、道綱の母のエピソードを紹介する。

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■「一夫多妻制」とは言えなかった平安時代

 「それは私を北の方にしてくれるってこと?」

 NHK大河ドラマ「光る君へ」では、主人公のまひろ(紫式部)が藤原道長から「妻になってほしい」と求愛されて、こう問い返したことが話題となった。北の方とは、正妻のことだ。

 当然、まひろの身分では、右大臣の息子、いや、今や摂政の息子となった道長の正妻になるのは難しい。無言の道長に「妾になれってこと?」と問い返して「そうだ」と返されると、悲嘆に暮れたまひろは道長を拒否。道長もまた無理難題をいうまひろに苛立ちながら、その場を立ち去った――。

 言うまでもなく、2人のやりとりはフィクションである。もっとも、紫式部が道長の妾だったという説は昔からあり、珍しいものではない。また、道長と式部は歌を詠み合う仲だったことは確かだ。だが、恋愛関係にあったという裏づけはない。

 ただ、まひろが「北の方に……」と無理を言った気持ちはわからなくもない。平安時代、男性は妻以外にも妾を持つことが珍しくなかったので、「一夫多妻制だった」と誤解されることもあるが、正妻と妾ではまるで立場が違った。

 男は正妻とのみともに暮らすのが一般的で、妾のもとにはひたすら通うのみ。愛が尽きれば、足が遠のき、妾はみじめな思いをするのだから、まひろとしても、抵抗があったのだろう。

 「一夫多妻制」というワードからイメージされるような、多くの妻がフラットな状態にあるわけではまったくなかったのである。

 なんとかして、夫を自分に振り向かせたい。そう考えるあまりに、逆に冷たくしてしまう妾もいたようだ。いわゆる「ツンデレ」である。『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱の母がまさにそうだった。

 藤原道綱の母は、藤原兼家の妾だった。『蜻蛉日記』によると、待ちわびた兼家をすんなりと受け入れなかった夜もあったようだ。

 あるとき、夕方になると兼家が「宮中の用事から逃れることができないんだ」(「内裏にのがるまじかりけり」)といって、出ていってしまった。

 いかにも怪しいと考えた藤原道綱の母は、人についていかせて、兼家を監視させると、こんな報告を受ける。

 「町小路のあるところに、車をお停めになりましたよ」

 (町小路なるそこそこになむ、とまり給ひぬる)

 宮中の用事といいながら、ほかの女のところに行ったらしい。そんなことだろうとは思ってはいても、真実を突きつけられれば、つらいもの。

 藤原道綱の母も「やっぱりね」(「さればよ」)と予想していたことではあったが、「いみじう心憂し」と、大変つらかったと胸中を吐露している。

■藤原道綱の母が兼家に和歌を贈る

 とはいえ、兼家をすぐにとがめる術もない(「言はむやうも知らで」)ままに、2、3日が過ぎると、家の門を叩く者がいた。兼家である。

 嬉しい来訪には違いなかったが、すんなりと戸を開けるのは、なんだか癪だったのだろう。藤原道綱の母が、門を開けないで意地を張っていると、兼家はほかの女性のところへと行ってしまった。

 兼家からすれば、戸を開けてもらえないのだから、仕方なく立ち去ったまでのこと。だが、わだかまりがある女性側からすれば「ダメなら諦めて、すぐほかのところに行くんかい!」となんだか納得できないのは当然だろう。

 「そのままなにもしないでいられまい」

 (つとめて、なほもあらじ)

 そう考えた藤原道綱の母は、兼家にある歌を贈ることにした。

 「歎きつつ ひとり寝(ぬ)る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」

 現代語訳すれば「嘆きながら、1人で孤独に寝ている夜が明けるまでの時間がどれだけ長いかご存じでしょうか?  ご存じないでしょうね」というものになる。

 「中古三十六歌仙」に選ばれるほど、和歌の名手だった藤原道綱の母だったが、この歌については「例よりはひきつくろひて書きて」とある。いつもよりも注意を払って、創作したらしい。そんな思いが込められているからだろう。この歌はのちに「百人一首」にも選ばれることになる。

 藤原道綱の母は、この力作を色のあせている菊に挿して、兼家に送っている。この秀逸で切ない和歌を受けて、兼家はこんな返事をした。

 「夜が明けるまでも待ってみようとしたけれども、急な呼び出しが来てしまって」

 (明くるまでも試みむとしつれど、とみなる召し使ひの来合ひたりつればなむ)

■不信感を募らせる道綱の母

 なんとも軽い返事である。その後「いとことわりなりつるは」、つまり、「あなたが怒るのも当然だよね」と、とってつけたように言いながら、さらに、こう続けている。

 「げにやげに 冬の夜ならぬ槙(まき)の戸も 遅くあくるは わびしかりけり」

 意味としては「本当に、冬の長い夜が明けるのを待つのはつらいものだが、冬の夜でもない真木の戸が開かないのもつらいことです」。

 君もつらかっただろうけど、せっかく行ったのに戸が開かないのもつらかったよ……と、結局のところ、謝る気はなし。

 不信感を募らせる藤原道綱の母だったが、兼家は素知らぬ顔をするばかりだった。しばらくは「宮中に行く」と言い続けて隠すべきなのに、それすらもしなくなったことについて、藤原道綱の母はこう嘆いている。

 「いとどしう心づきなく思ふことぞ、限りなきや」

 (不愉快に思うこと限りない)

 なんともかみ合わない2人。飄々とした兼家の前に、道綱の母による「兼家追い出し作戦」は、不発に終わることとなった。

 正妻と妾で待遇が異なったのは、本人だけのことではない。正妻との間に生まれた子と、妾との間に生まれた子では、待遇に大きな違いあった。

 寛和2(986)年、兼家の策略による「寛和の変」によって、花山天皇は出家して、退位することになる。この一大プロジェクトにおいて、藤原道綱は、兄の道隆とともに清涼殿にある三種の神器を皇太子の居所である凝花舎に移すという役割を果たしている。

 無事にミッションを果たした道綱だったが、兄の道隆だけではなく、弟の道兼や道長に比べても昇進は遅れている。

■バカにされても出世した道綱

 3人とも正妻である時姫が産んだ子だったから……ということもあるが、それだけではない。実際には、国母となった詮子と兄弟だったことも昇進の差となったようだが、道綱の母としては、やるせない気持ちだったことだろう。

 もっとも、道綱の場合は、単純に能力が劣っていたともいわれている。藤原実資からは「一文不通」、つまり「文字が書けない」と揶揄されて、「あいつは自分の名前を書くのがやっと」と『小右記』に書き残されている。あまり仕事ができるタイプではなかったようだ。

 それでも、異母弟にあたる藤原道長とは、気が合ったようだ。道長が政治の中心になるにつれて昇進を重ねて、長徳3(997)年には大納言となっている。

 なんだかんだで、よいポジションに収まっているあたりは、さすが、したたかな兼家の息子である。

 
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衝『紫式部』(吉川弘文館)

倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

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最終更新:3/31(日) 5:21

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