古代ローマの頃から変わっていない戦争の性質 戦争は始めるのは簡単だが終えるのは困難
古代ローマを描いた『テルマエ・ロマエ』などで知られる漫画家・随筆家のヤマザキマリ氏と、古代ローマの公用語であったラテン語を研究し、Xでも人気のラテン語さんが、古代ローマ時代から今に残る、戦争と平和にまつわる格言の数々について対談しました。
※この対談は2人の共著である新刊『座右のラテン語』からの抜粋です。
■正当防衛か侵略行為か
ラテン語:まさに現今の世界情勢も混沌を極めていますが、戦争というトピックでラテン語世界を見ていきたいと思います。時事問題に通じるラテン語です。また、戦争といった悪にどう向き合うか、どう用心して生きるかといったことにも話を繋げられればと思います。
まず、こちらの格言です。
inter arma silent leges「法律は武器のなかにあっては沈黙する」
キケローが裁判において、殺人を犯したミローという人を弁護する立場でこの言葉を言いました。
殺されそうな人は相手を殺してでも自分を守る。それは当然のことだろう。だから法律に関係なく、正当防衛で相手を殺していい。もともとはそういう文脈における言葉だったのですが、今では「戦時中は何でもありになってしまって、法律が無視されてしまう」という解釈で広がっている格言です。正当防衛でなく戦争批判の文脈に変化したのですね。
ヤマザキ:私も後者の意味で捉えました。今の時代で言えばイスラエルとパレスチナ、そしてロシアとウクライナにしても法律の効力は希薄です。武器は大きなお金を動かしますから、法律はそこに服従してしまうのでしょう。
ラテン語:正当防衛の文脈で捉えても、現代にリンクする部分があります。つまり、正当防衛が武力行使の建前になってしまっている。
ヤマザキ:自分たちが正義であり、正しいと思っている勢力からすれば、侵略も正当防衛になるということですよね。
ラテン語:そうです。アメリカが大量破壊兵器の存在をでっちあげて中東に侵攻したように。
ヤマザキ:こうした格言が他の名言とともに20世紀以上も残り続けているその背景に、常に戦争を起こさないと気が済まない人間の性質というものを痛感させられます。
■終わらない戦争
ラテン語:続いては古代ローマの詩人、ホラーティウスが古代ギリシャ詩の『イーリアス』について『書簡詩』で表現した文章です。
quicquid delirant reges, plectuntur Achivi「王たちがどう狂乱しても、アカイア人たちがそれを償うことになる」
ヤマザキ:いろんな状況で使うことのできる言葉ですね。
ラテン語:そうですね。戦争に当てはめれば、上級軍人や為政者は戦争に携わっていても自分たちは負傷することなく暮らしているし、あまつさえ戦争を始めたり激化させたりするけれど、戦時中の下級軍人は傷つき、国民も大変な暮らしを強いられるということです。
ヤマザキ:今もまったく同じというか、人間というのはつくづく学習できない、または学習したくない生物なのだと思います。
ラテン語:続いては、サッルスティウスという人がまとめた戦記『ユグルタ戦争』からです。
omne bellum sumi facile, ceterum aegerrime desinere「戦争は始めるのは簡単だが終えるのは極めて困難だ」
これも現代に通じますね。ウクライナ戦争は終わりが一向に見えてきません。
ヤマザキ:だいたい中東で起こっている紛争の動機やきっかけは、ほぼ古代の時代から変わっていないですからね。
ラテン語:戦記を読んでいると、確かに勇ましい、俗っぽくいえばカッコいい面もあるにはあるんです。例えば、カエサルの部下のクラスティヌスという人が合戦の日に言ったのが、「今日私が死んでも生きていても、あなたは私にお礼を言うことになるでしょう」。
こういったエピソードを見ていくと、戦のロマンというものを感じる一方で、やはり大前提として平和を希求する気持ちがあります。
『ユグルタ戦争』では、戦争を始める人と終える人は同じ人ではないことも書いています。戦争を始めるのはどんな臆病者でもできるが、終わるのは勝っているほうがやめたいと思う時だけ。戦争を始めた人とは異なる、勇気ある人が必要だと示唆しています。
ヤマザキ:だとすると勝利がはっきりするまでは終わらないということになってしまいますが、複雑な構造によって展開される戦争というものの実態を生々しく反映している言葉ですね。
■ハンニバルのスピーチ
ラテン語:続いてはリーウィウスの『ローマ建国史』のなかの、ハンニバルのスピーチに使われた言葉です。
meilor tutiorque est certa pax, quam sperata victoria「確実な平和は期待される勝利より優れ、より安全である」
ハンニバルは、カルタゴの将軍としてローマと戦った人物です。この言葉は、その時点では戦いを求めていなかったハンニバルが、ローマを説得するために行ったスピーチです。明日の百より今日の五十ということわざにも通じる言葉かと。
ヤマザキ:平和というのがそもそもどういうものなのか。勝った負けたで得られるものではなく、そこに問われるのはやはり人の知性や寛容さなのかもしれません。ちなみにリーウィウスは私たち夫婦が暮らしているパドヴァ出身ですが、うちの夫がとても尊敬しています。
■正義を吟味する
ヤマザキ:古代から現代まで、私たちは戦争の時代を生き続けています。私は母が第2次世界大戦の経験者だったので様々な話を聞かされてきましたが、かつて暮らしていたシリアや、度々訪れたり、友人がいたレバノンが爆撃で無惨な状態になってしまった映像を見ると、戦争を体験していなくても、自分の思い出や記憶が粉砕されてしまったような、実に辛い気持ちになります。
これだけたくさんの戦争を揶揄したり平和を求める格言が残り続けているのに、人は相変わらず戦っている。そう考えると問題解決に対するアドヴァイスというより、人間の生き方を短く要約した観察記録と捉えることもできますね。
ラテン語:戦争中の当事者に対して、古代の引用句とともに「戦争反対」と言っても、その効果には限界があると思います。できることは、次の世代に戦争の虚しさを伝え、将来戦争を起こさないようにすること。教育が大事なのかなと思います。
ヤマザキ:何が何でも自分たちの正義や信仰を正当化し、相手に認知させたいというのが戦争の理由なのだとしたら、もとより「正義」という言葉自体がもっと吟味されなくてはいけないように思いますね。国や地域や歴史や宗教が変われば当然“正義”とされるものも変わる。“正義”というのは、世界中の人々が共通の認識で解釈できる言葉ではないということです。
ラテン語:正当防衛にしても、何が「正当」なのか。
ヤマザキ:“正義”も“正当”も実は時代や場所によっていかようにでも変化する、とても曖昧なものなんですよ。
東洋経済オンライン
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最終更新:1/24(金) 13:02