「松平定信の批判本」を続々刊行 大儲けした蔦屋重三郎が食らった “しっぺ返しと悲劇”
今年の大河ドラマ『べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜』は横浜流星さんが主演を務めます。今回は松平定信政権を批判した書籍と、それらの本を刊行した蔦屋重三郎を襲った悲劇を解説します。
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■松平定信の政策を本で批判
天明8年(1788)、戯作者・朋誠堂喜三二は、蔦屋(重三郎)から『文武二道万石通』という黄表紙を刊行します。時は、11代将軍・徳川家斉(1773〜1841)の頃でした(家斉は、父・家治の病死により、1787年に将軍就任)。
同書は、老中・松平定信が行う政策を批判したものですが、その筆法は鋭く、それが、同書をヒットさせた要因とも言われています。
定信は、田沼意次が失脚した後の天明7年(1787)、老中首座になります。彼は幕府の実権を握ると、学問(文)と武芸(武)を奨励する指令を武士に出しました。さらには、文武の功績者を調べるよう命令します。朋誠堂喜三二の『文武二道万石通』の「文武」とは、そこに由来するのです。
では、「万石通」とは何でしょうか。「万石通」とは「玄米の中に混じっているもみやくず米をより分ける農具」のことです。
当時、大名のことを「万石以上」、旗本を「万石以下」とも称していました(一般的に石高1万石以上の藩主が大名。1万石以下の幕臣は旗本や御家人)。書名の「万石通」には、大名や旗本たちを文武どちらかにより分けるという皮肉が込められているのです。
さて、同書はどのような内容の書物なのでしょうか。
まず、同書も恋川春町の『悦贔屓蝦夷押領』と同じく、舞台は鎌倉時代です。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝や、坂東武者の鑑と言われた武将・畠山重忠らが登場します。
頼朝は、鎌倉において文武に励む者(大小名)がそれぞれどのくらいいるかを調べよと命じます。それに対し、畠山重忠は「文武の何れでもない、ぬらくら(はっきりしない)武士が多いので、その者らを、文武二道のどちらかに分けて、お目にかけましょう」と答えます。これは、文武の功績者を調べるよう命令した松平定信の行為を皮肉ったものでしょう。
「ぬらくら武士」を識別し、箱根七湯でさらして、文武いずれかの士たらしめようとし、惰弱を戒めるというのが『文武二道万石通』の構想です。
ちなみに、同書の絵は、喜多川歌麿の門人・喜多川行麿が描いています。頼朝の衣服には「頼」という文字が入れられていますし、畠山重忠は梅鉢紋の裃を着ています。松平定信は、梅鉢紋が家紋ですので、重忠は松平定信を指していることがわかります。
描かれた頼朝の顔を見ると、髭も生えておらず、まだ少年のよう。ここから、頼朝は、若くして将軍位に就いた徳川家斉を表していることが理解できるでしょう。
このことは、松平定信の家臣・服部正札も承知していて「公方様を頼朝公、此方様(定信)を重忠」(随筆『世々之姿』)と記しています。
■またもや定信の政策を批判する本を刊行
『文武二道万石通』が刊行された翌年(1789年)には、恋川春町の『鸚鵡返文武二道』や唐来参和『天下一面鏡梅鉢』といった黄表紙が蔦屋から刊行されます。春町の『鸚鵡返文武二道』は、その書名からもわかるように、これまた定信の文武奨励策を皮肉ったものでした。
『鸚鵡返』は作者は異なりますが、『文武二道万石通』の続編とも評され、話題となりました。
『天下一面』は「醍醐天皇というのは、聖徳著しい君主であり、御年十三にして、天皇位を受け継ぎ、右大臣・菅原道真公が師範として、その政治を補佐された。仁(慈しみ)を持って、民衆に施したので、天下は一層治まる」という出だしですが、醍醐天皇(平安時代前期の天皇)は、徳川家斉を指します。
そして、菅原道真は、松平定信を表しています。道真の仁政により、世はよく治り、火山灰の代わりに小判が降り、米は豊作で、年貢も順調という幸福な社会が『天下一面』で描かれるのです。
しかし、現実の社会(江戸時代、天明年間)は、これとは真逆でした。天明3年(1783)には浅間山が噴火し、天明の大飢饉も発生し、農民は困窮していました。
そのような状況の中、松平定信は老中に就任し、儒教思想を尊重する政策を打ち出します。が、それでは、貧苦にあえぐ農民を救うことはできません。
『天下一面』は、現実とは真逆の世界を作り出すことにより「現実」政策を批判したのです。
『天下一面』は、刊行に際して、作者名や版元名も隠したままだったと言われていますが、それは、蔦屋重三郎が幕府の目を恐れたことが大きいでしょう。
■幕府から下った命令と悲劇
慎重に刊行事業を進めた重三郎でしたが、『天下一面』を絶版にするよう幕府から命が下ります。重三郎と著者の参和に、追放処分などが下ることはありませんでしたが、危険を身近に感じた参和は、戯作を書くことを2年間は断念せざるをえませんでした。『文武二道万石通』を著した喜三二も、主君の佐竹氏から、威圧を受けたといいます。
喜三二も秋田藩留守居役という立場もあり、これ以降は、戯作の筆を折ることになりました。『鸚鵡返』を刊行した恋川春町は、幕府から呼び出しを受けますが、それに応じず、しばらくして、病没します(1789年7月)。
余りにも突然の死に自殺説もあるほどです。政治批評の黄表紙を刊行し、利益を得た蔦屋重三郎でしたが、思わぬしっぺ返しを食らったと言えるでしょう。挽回の方策は何かあるのでしょうか。
(主要参考引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)
東洋経済オンライン
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最終更新:4/19(土) 15:02