兄弟3人がそれぞれ「セコム」「オーケー」「天狗」の創業者、「飯田兄弟」を育てた父親は何を教えたのか

4/11 6:02 配信

東洋経済オンライン

 「難兄難弟(なんけいなんてい)」なる言葉がある。兄弟がともに優れていて甲乙つけがたいという意味だが、兄弟揃って経営トップとして活躍した事例はそれほど多くない。

 経済界でよく知られている「難兄難弟」としては、河島喜好氏(ホンダ)と河島博氏(ヤマハ、ダイエー)の河島兄弟や、「産業界の勝俣三兄弟」と呼ばれた勝俣恒久氏(東京電力)、勝俣孝雄氏(九州石油=現ENEOS)、勝俣宣夫氏(丸紅)がいる。

■兄弟3人が起業家「飯田兄弟」

 さらに、兄弟それぞれが一代で大きな成功を遂げた「起業家兄弟」となれば稀有な存在だ。それを象徴するのが、警備保障業界最大手セコムの飯田亮氏(五男)、首都圏1都3県に152店舗を展開するスーパー「オーケー」を創業した飯田勧氏(三男)、居酒屋チェーンの走りとなった「天狗」などを運営する「テンアライド」の飯田保氏(次男)といった創業者が顔を並べる「飯田兄弟」である。

 各氏とも独自のビジネスモデルを構築したイノベーターだった。家業の酒問屋「岡永」(東京・日本橋)を承継した長男の飯田博氏も、全国約120社の蔵元が丹精こめて造った良質の日本酒を、全国1500店あまりの酒販店を通して流通させるボランタリー組織「日本名門酒会」を発足した。

 難兄難弟な飯田兄弟も相次いでこの世を去った。この2023年1月7日に亡くなった飯田亮氏の後を追うようにして2024年4月2日、飯田勧氏(享年96歳)が逝去した。

 勧氏は1928年3月23日に実家の日本橋で生まれた。1945年に戦前のエリート軍人を育成する海軍兵学校を卒業したものの、終戦を迎え行き場を失っていた。そこで、家業の岡永商店(現岡永)に入社する。

 1958年に岡永商店の小売部門として、東京・上板橋に食品スーパーマーケット「オーケー」1号店を開店。1967年、岡永商店から独立してオーケーを設立し、代表取締役社長に就任した。

 「高品質・Everyday Low Price」を掲げ、地域一番の安値を目指すと同時に「Everyday Low Cost」を推進した。そのため、スーパーとしてはいち早くコンピューターを活用し、自動発注システムを導入。品質・鮮度にもこだわり、できるだけ正確で、正直な商品情報を顧客に知らせる「オネスト(正直)カード」を表示した。

 2023年10月には銀座にも進出。ここでも「銀座価格」にはせず、 「高品質・Everyday Low Price」を貫き話題を呼んでいる。2024年11月には関西地方の1号店を大阪府東大阪市に出店する。晩年までイノベーターとしての意欲は衰えなかった。

■取材者が感じた飯田兄弟の「共通点」

 筆者は「兄弟」という切り口で、飯田兄弟各氏にインタビューした経験がある。

 兄弟だから似ていると言えば当たり前だが、江戸っ子の粋が伝わってくる雰囲気があった。偉そうにしている感じはまったくない、かといって、へりくだっているわけでもない。人を包み込むような何かがある。筆者も多くの経営者に会って来たが、最近、こういうタイプの経営者がいるようでいない。

 当然、社内では厳しい一面を見せることもあるだろうが、筆者も含めて社外の人を迎えた時の飯田兄弟各氏の印象は、頭の回転が速く、ホスピタリティに富んでいた。そして、商人道を言葉にする表現力に長けていた。

 飯田兄弟の優れた思考力と表現力、そして、商人(企業家)として必須の構想力と実践力を磨く上で、父・飯田紋治郎氏から受けた影響が大きかったようである。

 岡永は1884年(明治17年)に「岡本屋」として創業。初代の飯田永吉氏が味噌・醤油・酒の小売業を日本橋馬喰町で始め、2代目の紋治郎氏が屋号を「岡永商店」に変え卸売業に転業した。飯田兄弟の父もたんに親の事業を後継するだけの世襲経営者ではないイノベーターだったが、日本橋商人の心構えは死守した。息子たちにも口を酸っぱくしてそれを教え込んだ。

 亮氏から聞いた話だが、毎日夕食時、父は5人の兄弟を長男から五男まで順番に正座させ、食事に口をつける前に訓示を行った。子供たちを大人として扱った。話を終えた後、5人兄弟全員に意見(コメント)を求めたそうだ。亮氏に順番が回ってきたとき、最後なので「兄さんたちと同じです」と言ったところ、父は突然、亮氏の前に来て大きな声で諭した。

 「兄さんたちと同じとは何事か。お前の考えがあるはずだ。よく考えて、お前だけしか思いつかない意見を言え」

 そして、訓示の最後に締めくくる言葉は毎回同じだった。

 「人に雇われる身にはなるな」

 つまり、経営者になれ、ということである。

■熱烈なファンができて初めて利益を得られる

 経営者(商人)になったからには、「忘れてはならない心得がある」と言いながら書をしたためた。

 「至誠天に通ず」

 勧氏はこの言葉をオーケーの経営に当てはめて、次のように解釈していた。

 「お客様に信用してもらわないと、熱烈なオーケーファンになってくれない。金儲けだけではなく、熱烈なファンができて初めて利益をもたらしてもらえる」

 「オネスト(正直)カード」はこの考えを具体化したツールと言えよう。

 紋治郎氏は商売熱心だったが、株式投資にも熱をあげていた。その影響もあったのだろうか。亮氏はセコムを創業する前、証券会社設立を考えていたという。勧氏も岡永に入社したての頃、日本橋からさほど遠くないこともあり、兜町の証券取引所に毎日、「父のつかい」で兜町に通っていた。そして、電話で売り買いの注文を受けていたのだった。

 しかし、それは、株式投資に力を入れろ、というサインを紋治郎氏が送ったわけではなかった。損得勘定すれば、株はたいして儲からないことを気づかせ、商売に一生懸命取り組む重要性を説いたのだった。

■「優れた商人とは何か」を問い続け実践する姿勢

 飯田家には家柄のいい家から賢明な子弟が出ることを例えた「藍田生玉 (らんでんしょうぎょく)」という表現が当てはまるのではないか。ここでいう「家柄」とは、単に資産家や名誉ある家系のみを指していない。

 飯田家には、「優れた商人(経営者)とは何か」を問い続け実践する姿勢がうかがえた。それを琴線に触れる言葉で説き、自ら考えさせ、気の利いた言葉にして答えるように毎日、教育した。

 細かな行動、姿勢にも厳しかった。父・紋治郎氏は息子がしゃがんでいると「人前でしゃがむな」と大きな声で注意し、すぐに立たせた。

 父の厳しさを優しさで中和していた母(なつ氏)も気の緩みを許さなかった。不意に「アー」とため息をつこうものなら、「男がため息なんかつくもんじゃないよ」と。

 いまどき、「男が」という表現を使うと「ふとどきにもほどがある」と言われそうだが、母なつ氏は、後ろ向きになるな、簡単にあきらめるな、ということが言いたかったのだろう。「男が」をつけることで、くどくど説明しなくても済んだ。「しっかりした男」の社会的規範が現在よりもシンプルで明確だったと考えられる。

 戦前型父性を全面的に打ち出した飯田家の商人(起業家)教育が奏功した背景には5つ要因がある。①商家という家庭環境、②革新型リーダーシップのロールモデルとなった紋治郎氏の存在、③戦前型父性を家庭内外ともが肯定する社会的規範、④息子たちが聞く耳を持っていた、⑤息子たちに命令するだけではなく常に考えさせる機会を与えた――ことなどだ。

 飯田兄弟は全員、第2次世界大戦(太平洋戦争)と戦後をたくましく生き抜いてきた。

 戦時中、神奈川県の湘南に疎開したものの、日本橋に帰ってみると東京大空襲で焼け野原になっていた。あれほど強気だった父が焼け失せてしまった岡永を見て肩を落とした。飯田兄弟は、その姿を目の当たりにしている。

 寂しい「おやじの背中」を見た長男の博氏は弟たちに呼びかけた。

 「進駐軍の兵隊がチューインガムなるものを噛んでいる。あれをつくれば売れるぞ」

■創造性に富んだ起業家精神の萌芽

 ところが、製造方法がまったくわからなかった。兄弟で話し合っているうちに「あれはゴムだから、ゴム長(靴)でも溶かせばいいんじゃないか」という結論に達した。実際に試してみた。言うまでもなく大失敗。しかし、この幼稚なドタバタ劇には、創造性に富んだ起業家精神の萌芽が見られる。

 紋治郎氏のような父親はいまでは絶滅危惧種だろう。家庭では、ものわかりのよい「友達のようなパパ・ママ」がデファクト・スタンダードになっている。少子化が進む中、受験生確保に躍起になっている大学や人材不足で売り手市場に転じた企業でも、あまり厳しいことを言わない先生や上司が好まれる。一般社員が、管理職や社長を捕まえて「上から目線だ」と非難するようになってきた。

 誰も厳しい指摘はしない、言葉に気を付けるばかりに言葉数が減り、遠慮だらけの「やさしき時代」が続けば、日本の未来はどうなっているのだろうか。筆者はたんに昔がよかったとは言っていない。「心理的安全性」「人的資本経営」を否定しているわけでもない。だが、温故知新も悪くないのではないか。

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最終更新:4/11(木) 8:52

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