「早大1浪2留中退」名家の母を嘆かせた彼の後悔 早稲田行きたい一心で浪人を決意、彼のその後

3/31 5:02 配信

東洋経済オンライン

現在、浪人という選択を取る人が20年前の半分になっている。「浪人してでもこういう大学に行きたい!」という人が激減している中で、浪人はどう人を変えるのか。また、浪人したことで何が起きるのか。 自身も9年間にわたる浪人生活を経て早稲田大学の合格を勝ち取った濱井正吾氏が、さまざまな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張ることができた理由などを追求していきます。
今回は福岡県立筑紫丘高等学校から1浪して、早稲田大学に進学後、2留して中退。その後、家電量販店の仕事、印刷会社の営業、デイトレーダーや世論調査など、さまざまな仕事を経て、現在はIT通信関連会社の経営メンバーに加わっている西さん(仮名)に話を伺いました。

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■母親が望んでいない姿になってしまった

 今回お話を聞いた西さん(仮名)は、九州有数の進学校である福岡県立筑紫丘高等学校の出身です。名家の父母のもと、熱心な教育を受けて、名門校に進みました。

 しかし、彼は現役の受験で失敗し、浪人を決意します。「初めて母親が望んでない姿になった」と語るこの1年は、「人生で初めて落ちこぼれだと思えた」そうです。

 西さんは1浪の末、早稲田大学に進学。大学を中退しましたが、職業を転々としながらも、現在はIT通信関連会社の経営メンバーとして活躍しています。

 彼は、浪人の1年をとても前向きに捉えていました。「これからの時代こそ、キャリアに浪人が必要です」と。

 浪人の挫折を経て、彼がそう語れるようになった理由とは。西さんの波瀾万丈の半生を探ってみました。

 西さんは、福岡県の大野城市に生まれました。両親ともに名家の生まれでしたが、2人ともそうした生活を嫌い、結婚してからは実家に帰らない暮らしを選んだそうです。

 「父は博多織の製造元、母は地主である黒田藩の上級武士の家に生まれましたが、どちらも家を出ていたので、収入はあまりありませんでした」

 父親は優しい人でしたが、お金を稼ぐことに罪悪感を覚える性格だったそうです。そのため、女子大を出てから公文式の先生をしていた母親が、家事をしながら家計を支えました。そうした家庭だからこそ、教育に関心が高く、家には子育てに関する本が大量に置いてありました。

 「子どもの教育にものすごく熱心な家で、小学生のときがいちばん忙しかったですね。毎日公文式の宿題をこなしながら、バイオリンを週2回、サッカーを週5回練習する生活をすごしていました」

 休みのない生活を送っていたためか、小学校のときの成績はとてもよかったそうです。通知表の評価は高い順に「とてもよくできました」「よくできました」「頑張りましょう」の3つでしたが、「『頑張りましょう』が1個でもあったら、親に心配されて指摘されました」と、彼は当時を振り返ります。

 優等生だった西さんは、そのまま地元の公立中学校に進学します。

 中学ではバスケ部に入ったそうですが、小学生のときと同様に勉強にも力を入れていたため、部活のみに集中することはできなかったそうです。

 「180~200人くらいいた学年で10番以内の成績だったのですが、親は満足しておらず、2年生から地元の塾の英進館に通いました。バスケはレギュラーだったのですが、塾に行かないといけなかったので、毎日大変でしたね」

■高校に合格したことに満足してしまった

 漫画やテレビゲームを買ってもらえず、見てもいいテレビ番組に制限がある中、受験勉強をひたすら頑張った西さん。その努力の甲斐あって、高校受験で見事、福岡の名門、筑紫丘高等学校に合格します。

 英進館では「通い出してから、3カ月後に表彰をもらった」と語るほど、集中的に勉強し、成績を伸ばした西さん。

 しかし、「高校に合格したことに満足した」彼はすぐに遊び始めたそうです。

 「もともと自分は、やさしく楽しい道をすぐに選びたがる人間なんです。入ったときは学年523人中で200番以内の成績だったと思うのですが、Jリーグが始まってから(テレビで)サッカーが見たくなって、勉強をしなくなりました。その結果、480番くらいまで成績が下がり、それからもずっと400番台が定位置でしたね」

 高校3年生になった彼は、私立文系コースに進み、早稲田大学に進もうと勉強を頑張ります。彼はもともと、中学のときにはすでに「早稲田しか行かない!」と志望校を心に決めていました。

 「家族がラグビー好きで、早稲田のえんじ色のユニフォームがかっこいいと思っていましたし、早稲田と同じくバンカラな校風の高校も好きだったので、高校に入ってからは、よりいっそう早稲田しかないと思っていました」

 一方で、現役で合格できる気はまったくしなかったそうです。

 「高校2年生まで模試をまったく受けていないので、偏差値は不明でしたし、指定校推薦をもらおうともしたのですが、評定平均4以上ないとダメだったので、3.2だった自分は論外でした。

 ここで下手に勉強をして、早稲田以外の大学に受かったら、そこに入れさせられると思いました。そこで、6月から3カ月間は忙しくなる、高校の大事な行事であった体育祭のリーダーに立候補して、浪人できる口実を作りました。結局、体育祭が終わったあとの9月には見事に燃え尽き症候群になってしまったので、もうこの時点で親に浪人する宣言をしました」

■早稲田しかないと思い込んでいた

 受験までに「やるべきことはやった」そうですが、本気で受かることは難しいと半ば諦めていたそうです。

 こうして現役での受験は、早稲田大学の政治経済学部と法学部のみを受けたものの、「ほぼ記念受験」と語るようにあっさり不合格に終わってしまい、全落ちで浪人が確定しました。

 西さんが浪人を決断した理由はやはり、「早稲田しかないと思い込んでいたから」でした。

 こうして彼は代々木ゼミナールの福岡校に通うことを決めます。この決断は、彼の人生にとっても初めて、「自分で人生の進路を決めた」感じがあったそうです。

 「教育熱心な母親の言うことを素直に信じていました。それに加えて、3学年上の姉が同じ小中高で、3年先を進んでいたので、その背中を自然と追いかけて、高校まで進んだ感じがあったのです。

 でも、浪人して、初めて母親が望んでない姿になってしまいました。とはいえ、自分で人生の進路を決められたことが、当時の自分はちょっと嬉しくて。

 親に負担をかけるのが悪いと思っていたので、授業料を割引してもらえるシステムがあった代ゼミを選んで入ったのはよかったのですが、結局楽しいほうに流れる性格なので、『自分で決めた選択だから、いろいろやらなきゃ!』と思い、免許を取りに行ったり、授業料を稼ぐために、ポプラというコンビニで昼から夜までアルバイトをしていました。今思えば、もうこの時点でだいぶ勉強する気がないですよね……(笑)」

 バイト先で7歳年上の彼女ができたこともあり、夏までは勉強に力が入らなかった西さん。しかし、そのような状況を見るに見かねて、8月ごろに母親から大目玉を喰らいます。

■母親からの置き手紙で目が覚める

 フラフラしていた彼は、夏期講習を迎えた8月のある日、帰宅したときに1枚の置き手紙を見つけました。

 そこには、母親からの怒りの言葉がつらつらと書かれていたのです。その中に書いてあった「あなたは地に足がついていません!」との一言がきっかけで、西さんは次の日から別人のように勉強に集中するようになりました。

 「この言葉を受けて猛省し、バイトを辞めて、彼女とも別れました。(手紙を読んだ)次の日からは、朝6時に起きて誰よりも早く予備校に行き、7時に勉強開始してから、帰宅して12時に寝るまで、食事や風呂の時間以外は1日15時間ほどひたすら勉強する日々を続けました。遅いときは夜の2時まで勉強していましたね。一気に熱が入るタイプなので、父親も『こんなに頑張ると思わんかった』と驚いてくれました。やばい、このままじゃ早稲田に行けない、という一心でしたね」

 こうして猛勉強を重ねた西さんは、成績を一気にジャンプアップさせます。8月は模試の偏差値も60で、早稲田のすべての学部でE判定でしたが、10月には偏差値68まで上昇してA判定も出るようになったそうです。一緒に代ゼミに通っていた5人の友達の中で、最初は最下位の成績でしたが、わずか2カ月でトップになりました。

 予備校のチューターからも驚かれたこの大変身には、勉強法を変えたことも大きかったようです。

 「対面の授業のほうがいいと思っていたのですが、夏が明けてから、代ゼミのサテライト校のほうに変えて、東京の講師の授業を受けるようにしました。そうすると授業の効率がよくなり、テキストも早稲田に特化したものになったので、勉強が楽しくてしょうがなくなりました」

■東大でまさかのA判定が出る

 充実した日々を送る中で入試本番に突入した西さんは、現役時に受験していなかったセンター試験を受験しました。かなりいい手応えだったそうですが、その判定結果を見てさらに驚いたようです。

 「当時のセンター試験は3科目で、東大の後期試験を受けることができました。代ゼミに持ち帰って自己採点をしたところ、90%以上取れていて、東大の判定もAが出たんです。でも、僕は早稲田しか興味がなかったので、受けませんでした」

 こうして早稲田の受験本番に臨んだ西さんは、政治経済学部、法学部、社会科学部を受けます。「これ以上の浪人は許さないから」という母親の意向もあり、同志社大学、立命館大学、青山学院大学も受験し、同志社はダメだったものの、立命館と青山学院は合格しました。

 しかし、早稲田の受験はまったく手応えがなく、全滅したと思ったそうです。

 「東京のホテルに泊まっていて、2月21日の政治経済学部と22日の法学部の合格発表を見に行ったのですが、どちらも落ちていました。もうダメだ、終わったと思って、親にお願いして、2浪する覚悟で『青学の入学金まだ払わないで』と伝えました。そう思って最後に24日、社会科学部の発表を見に行ったら……、受かっていました。とても嬉しかったですね」

 こうして西さんの激動の1年間は終わりを告げます。短くも激しい浪人生活を経験してよかったことを聞いてみると、「初めて自分で自分の人生を考えて頑張れた」こと、頑張れた理由は、「早稲田に行ったら、楽しいと思い込んでいたから」と答えてくれました。

 「早稲田のすべてが美しいと思っていました。早稲田大学のサークルが発行している雑誌『早稲田魂』を買い集めたり、大隈講堂の写真を机の前の壁に貼ったりして、その前でハチマキをして勉強をしていましたからね。早稲田に行きたいと本気で思って、受験勉強をする日々はとても楽しかったです」

 恋い焦がれて入った念願の早稲田での生活は、楽しくて仕方がなかったそうです。

 塾や家庭教師・引っ越しのアルバイトをしたり、入ったサークルの人たちと自分の下宿先に入り浸って、お酒や麻雀をして交流をしたりする日々を送った西さん。だんだんと学校に行かなくなり、1年目に36単位を取ったものの、2年目には8単位、3年目には0単位になり、6年生で学校を中退して地元に戻ることになります。

■浪人・留年・中退を経て多様な職業を経験

 しかし、彼は持ち前の明るさとプラス思考で、家電量販店の仕事に就き、そこから飲み屋で知り合った人のつてで印刷会社の正社員になります。その後、イベント企画やデイトレーダーなど、さまざまな仕事を経験する中で、世論調査の仕事をした際に、その調査を運営していた大手企業グループの人事にスカウトされました。それがきっかけとなって管理部門のキャリアを歩み始めます。その後、2社の転職を経て、現在はIT通信関連スタートアップ企業の経営メンバーになりました。

 浪人・留年・中退のあとにも、多様な職業を経験して、現在経営メンバーとして働く西さん。「異業種交流会で会う50~60代の方に自分の経歴を話すとウケます (笑)」とはにかみながら語る彼は、誰の懐にも入り込める天性の人当たりのよさと、ずば抜けた集中力で、大学中退後のキャリアを築いていました。

 今の人生に生きる能力の数々は、浪人時の経験で身についたものでもあったそうです。彼は、自身が「落ちこぼれだと思えた」ことが精神面にも大きな影響を与えたと語ってくれました。

■浪人こそ必要なキャリアだ

 「浪人当時、自分がちゃんとやらなかったから大学に落ちてしまったと思います。あのとき自分のことを落ちこぼれだと感じられたことが、のちの自分の人生にとっていいほうに作用していると思います。

 今までの人生で、とても優秀な会社員の方々にもお会いしてきましたが、『勝手に会社の指示を外れるようなことはできない』と思ってしまい、その人が本当に好きなこと、やりたいことができていないと感じました。本人はやりたいことをやっているつもりでも、今まで人に指示された道を歩いてきたから、完全に自由になれていないんだと思うのです。

 もし自分が現役で大学に入って、4年で卒業して、新卒で大手企業に入っていたら、人を肩書きで見てしまい、自由に好きなことができない人間になったかもしれません。だからいま僕は、企業経営をする立場になったので、社員にも率先して、『せっかくベンチャーにいるんだから好きなことをやりなよ!』と言うようにしています。今からの時代は、人と違う選択ができるようになる浪人こそ必要なキャリアだと思うんです」

 「能天気な人生で大勢の人に助けてもらっていますが、その経験があったからこそ今、楽しく生きられています」と語る彼の人間性は、間違いなく浪人生活の1年が作り上げたのだと思いました。

西さんの浪人生活の教訓:人に指示された道を離れてはじめて、本当にやりたいことができるようになる

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最終更新:3/31(日) 5:02

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