「将軍の命日」に吉原遊郭で豪遊、参勤交代も遊女同伴!?闇落ちしたエリート大名の末路

4/19 20:02 配信

ダイヤモンド・オンライン

 江戸時代には、10代の若さで藩主に就任したにもかかわらず「闇落ち」した大名がいる。その人物とは本多利長(ほんだ・としなが)だ。戦国時代から徳川家康に仕えた名家の子孫だが、圧政や女性問題が取り沙汰され、最終的には領地を取り上げられた。真偽は定かではないが、「参勤交代に吉原の遊女を同伴させた」などの疑惑もある。エリートから転落した利長は、いったいどういう男だったのかを追ってみた。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

● 地味ながら徳川家康を 支えた譜代大名の子孫

 「本多」の姓を持つ武将・大名といえば、忠勝(ただかつ)と正信(まさのぶ)が有名だ。二人は徳川家康に長年仕え、昨年のNHK大河ドラマ『どうする家康』でも主要人物だった。

 だが、同じく「本多」の姓を名乗っている大名の中から、のちに“問題児”が出た。それが本多利長だ。

 利長は遠江国(静岡県西部)の横須賀藩を治めていたが、1682(天和2)年に改易処分(=領地を取り上げられること)を受けた。理由は「不行跡」(ふぎょうせき)、すなわち武士としての品性に欠けた行いが目立ったからだった。

 不行跡は13カ条とも23カ条とも諸説あるが、いずれにしても数が多い。文献に共通して見られるのは「圧政」と「女性関係」である。

 利長の系図をたどると、先祖は本多広孝(ひろたか/1528・大永8年~1597・慶長元年)に行き着く。広孝は正信の分家筋にあたり、家康の父・広忠(ひろただ)に仕え、その後は家康に忠節を尽くした。忠勝・正信と比べ地味な存在だったが、三河一向一揆の鎮圧や三方ヶ原の戦いなどに出陣した記録もある。

 広孝の4代あとに生まれたのが、“問題児”の利長である。「エリート」と言える家柄の大名は、どのようにして転落していったのか? 次ページ以降で詳しく解説する。

● 重税による領民の苦しみを 理解できなかった若き殿様

 江戸時代に入ると、広孝の本多家は岡崎藩主を務めるようになった。

 岡崎は家康の生誕地である。徳川からの信任が篤い者でなければ入部(=治めるために入ること)する権利さえない重要な地だ。そこに1601(慶長6)年に赴くよう命じられたのが、利長の高祖父だった。石高は5万石だった。

 44年後の1645(正保2)年、利長は数え年11歳で家督を継ぎ、岡崎藩主となった。

 だが、わずか1年後に遠江国横須賀藩への転封(=配置換え)を命じられる。転封の理由を記す文献はないが、おそらく下記のような理由だと筆者は考える。

 ・本多家の後任として岡崎に入った水野家が「家康のいとこ」(母方)の末裔だったため、岡崎藩主としてはより適任だったから

 ・前横須賀藩主だった井上正利の妻が利長の父ときょうだいで、正利と利長は叔父と甥の関係にあり、横須賀藩主には適任だったから

 つまり、利長に落ち度があったわけではない。事実、横須賀藩も岡崎藩と同じ5万石であり、石高は維持されていた。
 
 まだ幼かった利長はその後数年、江戸にいた。横須賀に国入りしたのは1653(承応2)年、19歳のときが初めてだった。ここから異変が生じ始めた。

 名門の本多家は家臣が多かった。そこで利長は新たに武家地を造成し、同時に城の大々的な改造を断行した。書物『横須賀三社縁起私記』には、近世城郭としての横須賀城は利長の時代に整えられたと記されている(※)。

 ※『横須賀城学術調査研究報告書』(平成2年)を参照。

 だが、こうした「領地の整備」には負の側面があった。

● 「自分は何も悪くない!」 幕府の追及に徹底抗弁

 当然、費用は莫大だった。領民が労働に駆り出され、かつ重税を課せられたのは想像にかたくない。

 また、領内が水害に悩まされていたため、利長は大規模な堤防工事も行ったのだが、これも領民の負担になっていたと思われる。この工事に関しては防災上、評価する意見もあるが(※)、民にとっては労役と徴税を意味し、過酷だったはずだ。

 ※静岡県掛川市が2017(平成29)年に策定し、翌年に国土交通大臣などから認定された「掛川市歴史的風致維持向上計画」の資料には、この工事を高評価する旨が記されている。

 そんな折、幕府の巡検使が横須賀にやって来た。『寛政重修諸家譜』(寛政年間/1789~1801年に江戸幕府が編纂した大名・旗本の記録)は、「さきに巡見使封地に至るのときも其はからひ御むねに違ひし」と記している。利長の巡検使への対応が適切ではなかったという意味である。

 巡検使とは、当時の5代将軍・徳川綱吉が、大名を監視するため諸国に派遣した役人である。そして不適切な対応とは、領民が利長の強引な政策を巡検使に訴え出たのを、「自分は何も悪くない」と抗弁したことを指していると考えられる。

 領民が「苦しい」と訴えているのに、利長は「そんなことはない」と突っぱねたのである。民の苦痛が、名門の若き殿様には見えていなかった。これが後々、改易のかっこうの口実を幕府に与えることになる。

● 参勤交代にまで 吉原の遊女を同伴!?

 加えて、利長自身の素行も問題視された。女性問題である。

 年齢を重ねて壮年期を迎えても不行状は治らず、特に吉原の遊女との醜聞が幕府の耳に入り、「武士にあるまじき」人物と警戒されていたようだ。

 利長の吉原遊びを記す文献は少なくない。

 「先祖の功をもって栄華に暮らすが、苛法を出して民を苦しめ、かつその性は淫胤にして、吉原の遊女に精出し、帰国の時は家来の妻と称し、参勤(交代)のときも連れてくる」(古今武家盛衰記)

 「陰で色町へ通い、そのうえ遊女を受け出した(身請けした)」(信陽城主得替記)

 「成長のあと行い正しからず」(西頚城郡[にしきびきぐん]郷土史料)

 遊女を身請けし、参勤交代だろうが帰国のときだろうが、つねに帯同させていたというのである。

 さらにはこんな一文もある。

 「延宝八年(1680)五月八日、家臣二人を連れ吉原に遊び、家綱公の薨去(こうきょ/死去)も知らず日を暮らし、夜になって知ったが登城もならず」(古今武家盛衰記)

 4代将軍・徳川家綱が亡くなった日、その死は在府(江戸にいた)の譜代大名に伝えられ、江戸城への登城令が発せられた。

 しかし、吉原で遊びほうけていた利長には、訃報が届かなかった。ようやく夜になって知ったが、もはや登城するには遅かったという。事実なら、すでに若くもない、40歳を超えた大名にあるまじき失態だった。

 なお、この登城しなかった件をはじめとした吉原の問題は、最も古い史料である『寛政重修諸家譜』には載っていない。ということは、後世に話を盛った可能性もある点に注意する必要があるだろう。

● 利長が最後に移封された 「ナゾの藩」とは?

 いずれにせよ、前述の圧政と巡検使の一件だけでも処分に値する。1682(天和2)年2月、ついに改易が言い渡され、横須賀の領地は召し上げとなった。
 
 ただし、そうはいっても家康に功のあった譜代の子孫である。お家お取り潰しは免れ、出羽国(山形県)村山藩に移封(=他の領地へ移されること)となった。石高は5万石から1万石に減らされた。

 一方、移封された村山藩は、詳細が不明な藩だ。利長が改易された1682(天和2)年から1699(元禄12)年までのわずか17年間だけ存在し、消滅している。城もない。陣屋(=城を持たない大名の省庁)が実在したとしても、どこにあったかさえ分からない。利長が、本当にその地にいたかも定かではない。

 1690(元禄3)年頃に大名の評価を記した『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)には、村山藩主・本多利長の名があり、横須賀藩主時代と違って民にも心を寄せたと記している。だが村山藩は、本多家の面目に鑑みて、幕府が「便宜上」立てた可能性がある。藩としての実態はなかったのではなかろうか。

 それゆえ利長死去(1692/元禄5年)の7年後、あっけなく消滅した――最初からそうした目的の藩だったと考えた方が理屈に合う。

 ●参考文献
『本多越前守利長家之覚書(書籍集覧第二百二十九)』国立国会図書館
『古今武家盛衰記(国史叢書)』/国立国会図書館
『信陽城主得替記』/国立国会図書館
『寛政重修諸家譜』/国立国会図書館
『掛川市歴史的風致維持向上計画』/掛川市
『横須賀城学術調査研究報告書』/大須賀町教育委員会

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最終更新:4/19(金) 21:51

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