道長支えた「4人の公卿」道長と最も親しいある男 源俊賢・藤原公任・藤原斉信・藤原行成の半生

5/19 5:51 配信

東洋経済オンライン

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第19回は、道長を支えた四納言と道長のエピソードを紹介する。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

■父の仇である「藤原氏」に近づく源俊賢

 一条天皇の治世で活躍し、藤原道長の全盛期を支えた4人の公卿のことを「四納言」(しなごん)と呼ぶ。源俊賢(としかた)、藤原公任(きんとう)、藤原斉信(ただのぶ)、藤原行成(ゆきなり)の4人のことだ。それぞれどんな人物だったのか。

 4人のなかで最年長が、左大臣・源高明の3男にあたる源俊賢だ。「安和の変」によって、陰謀の疑いをかけられた父が失脚。二人の兄が出家するなか、11歳の俊賢は父の高明について太宰府へ。2年後に許されるも、父が政界に復帰することはなかった。俊賢は自身で道を切り開くべく、大学寮で学んでいる。

 「安和の変」で父を失脚させた藤原氏を恨むのではなく、その権勢に近づくべく、俊賢は藤原兼家や息子の藤原道隆に仕えて、出世していく。正暦3(992)年には、道隆に自ら働きかけて、34歳で蔵人頭に就任。父の失脚劇を目の当たりにしているだけに、出世を果たして、その地位を守ることの大切さを痛感したのかもしれない。

 また、父の高明は、平安中期の儀式書である『西宮記』を書き残している。そのため、俊賢も儀式のことには詳しかった。文才もあったために重宝されたのだろう。長徳元(995)年には参議、長和6(1017)年には権大納言に昇進する。

 道隆の没後は、長男・伊周が後継者として有力視されるも政争に敗れて、道長が政務を牛耳っていく。そんななか、俊賢は道隆一族とのつながりを保ち続けながら、妹の明子が道長と結婚していることもあり、道長にも協力している。

■源俊賢が推薦! 「書の達人」藤原行成

 誰が出世競争に勝ち残ってもいいように、慎重かつ、巧みに立ち振る舞う俊賢の姿を見て、藤原実資はこう非難している。

 「貪欲、謀略その聞こえ高き人」(貪欲謀略其聞共高之人也)

 権力者におもねることを嫌った実資らしい手厳しさだが、どうも道長の長女・彰子が一条天皇の女御となり入内するときに、一悶着あったらしい。

 道長は娘の入内に際して、和歌を集めた高さ4尺の屏風を持たせようと考えた。藤原公任、藤原高遠、藤原斉信、源俊賢などが和歌を献上するなか、実資だけは道長からの依頼を断っている。

 このときに公卿らに和歌を依頼して回ったのが、自身も和歌を献上した、俊賢だった。どれだけ催促しても「大臣の命で歌を作るなど前代未聞」と拒否し続けた実資のガンコさを、俊賢は批判。実資のほうも「寄らば大樹の陰」のスタンスを隠さない俊賢に、失望したという。

 だが、もともとは実資もその実力を評価しており、俊賢はただの策略家ではなかった。自身の昇進によって、蔵人頭を辞任するときのことである。一条天皇から後任の人選について相談されたとき、俊賢は24歳の藤原行成を、後任の蔵人頭として推挙。 『大鏡』によると、行成が昇殿を許されない地下人だったので、一条天皇は蔵人頭への抜擢をためらったものの、 俊賢が強く推したらしい。

 行成は、右少将・藤原義孝の長男として生まれた。祖父は右大臣の藤原伊尹と、血筋に恵まれたが、早くに父や祖父が亡くなり、一族は没落。それでも学識に優れた行成は、母方の祖父・源保光(やすみつ)の庇護を受けながら、高い教養を身につけていく。

 不遇の時代を過ごすなかで、俊賢の推挙によって蔵人頭へと抜擢されると、持ち前の実直さが評価されて、出世の道が開けた。「四納言」の一人として道長を支えたばかりか、道長の長男・藤原頼通が摂政となってからも、行成は側近として活躍する。

 躍進のきっかけをくれた俊賢への感謝を、行成はいつまでも忘れることはなかった。位階で俊賢を超えたあとも、決して上座には座らなかったという。

 「書の達人」としても知られた行成。彼が書き残した日記『権記(ごんき)』は当時の人々の生活を知る貴重な史料となっている。

 そんな行成の活躍を思うと、俊賢の眼は確かだったのだろう。いろんな権力者への気配りを行いながら、情勢を見極めるなかで、人の才を見抜く力が培われたのではないだろうか。

■芸術の才能あふれる藤原公任

 「四納言」には、道長のかつてのライバルもいた。藤原公任と藤原斉信である。

 公任は、関白の藤原頼忠を父に、醍醐天皇の孫の厳子を母に持つ、将来を約束されたサラブレッドだった。

 そのうえ、天元5(982)年に姉の藤原遵子が円融天皇の皇后となったため、公任は皇后の弟となり、その3年後の寛和元(985)年には、正四位下となった。

 ただ血筋が良かっただけではなく、和歌・漢詩・管弦において優れた才能を発揮。その有能ぶりに、道長の父の兼家が「どうしてあんなに優れているのだろうか。うらやましい限りだ」と嘆いた逸話が有名である。

 兼家が「私の子どもたちが、その影さえ踏むことができないのが、残念だ」と嘆くと、ほかの兄弟がうつむくなか、「影を踏むことはできないでしょうが、その面を踏んでやりましょう」と強気に出たのが、道長であった。

 だが、それだけ有望視された公任も、兼家が企てた「寛和の変」によって、花山天皇が出家し、一条天皇が即位すると状況が一変する。父の藤原頼忠は関白を辞任。姉の藤原遵子も皇子を産めないまま、皇太后の地位には、兼家の娘で一条天皇の生母となる藤原詮子が就くことになった。父も姉も失脚した公任は、道長に追い抜かれることになる。

 とはいえ、公任にわだかまりはなかったようだ。道長邸の改築を伴う祝宴に参加したり、一緒に紅葉を観にいったりして、その後も交流を深めている。

 一方の道長も、かつては「その顔を踏んでやる」とまでいった公任を重用。公任の優れた芸術的才能を高く評価しながら、権大納言に昇進させている。

 ちなみに、四納言のなかで、最も長生きしたのは公任で、76歳まで生きた。

■道長に常に寄り添った藤原斉信

 自ら関白になることは諦めて、道長を支えた公任だったが、1歳年下の親しい友人だった藤原斉信には負けたくなかったようだ。斉信に出世で抜かれると、一時期は参内を辞めてしまっている。

 そんな斉信は、太政大臣の藤原為光(ためみつ)の次男として、道長と同じく名門・藤原北家に生まれた。頭脳明晰で、立ち居振る舞いも洗練されていたとされる斉信。清少納言は『枕草子』でこう評している。

 「物語に登場するような、麗しい貴公子のようだった」

 長徳2(996)年には参議に任命され、道長が政権を握ってしばらくすると、権中納言へと昇進を果たす。だが、そのときに兄の藤原誠信を抜いてしまったことで、一悶着あったらしい。

 『大鏡』によると、誠信は弟の斉信に「今回は昇進を希望する申請をするな。私が昇進を希望するから」となんとも情けない命令をしたらしい。斉信がそれに従うと、道長から「昇進を希望しないのか」と言われたので、斉信は「兄が申請するのですから、どうして私が希望を申し上げることができましょうか」と返答。すると、道長は次のように伝えている。

 「誠信が中納言になることはないだろう。斉信が辞退するなら、ほかの人に話がいくことになる」

 誠信では、とても中納言は務まらなかったのだろう。それならばと、斉信は態度を一転させて昇進を希望し、中納言になっている。これに怒ったのが誠信で「斉信と道長に、私は阻まれたぞ!」と騒ぎ、食事もとらなくなった。除目から7日目に亡くなったという。情けない兄だが、優秀な弟を持つ苦しさもあったのかもしれない。

 昼の政務に夜の詩会と、道長とともに多くの時間をともにした斉信。四納言のなかでも、道長と最も親しかったといわれている。

■唯我独尊のイメージとは違う道長の姿

 源俊賢、藤原公任、藤原斉信、藤原行成――。

 大河「光る君へ」で従来とは違うイメージが打ち出されるまで、道長といえば「唯我独尊の権力者」というイメージが強かった。だが、実際は、才能ある公卿たちの力を引き出しながら、政権運営を行ったのである。

 
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)

今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

東洋経済オンライン

関連ニュース

最終更新:5/19(日) 5:51

東洋経済オンライン

最近見た銘柄

ヘッドラインニュース

マーケット指標

株式ランキング