「ライバル自滅」絶頂期でも道長の不安尽きない訳 娘の彰子も入内する中、道長は次の一手を模索

4/14 5:41 配信

東洋経済オンライン

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第14回は兄の道隆などライバルたちが亡くなっても、道長の不安が尽きなかった理由を解説する。

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■「将来の后に」と期待された彰子

 藤原道長が妻の倫子との間に、女児をもうけたときには、大変な騒ぎとなった。懐妊がわかった時点で、大々的に安産祈願の祈祷が行われている。いざ生まれるとなれば、周囲のざわめきはなお一層、大きいものとなった。

 倫子が産気づくや否や、多くの僧がやってきて読経を始めるわ、道長の父である兼家や、姉である詮子からは「どんな様子なのか」とひっきりなしに問い合わせはあるわで、バタバタだったらしい。

 いかに道長と倫子の子が、周囲の期待を背負っていたかがわかる。出産する倫子の父である左大臣の源雅信も、さぞ心配したことだろう。

 そんな祈りのお陰もあってか、倫子は激しい痛みに悩まされることもなく、女児を出産することとなった。『栄花物語』には、次のようにある。

 「この御一家は、はじめて女生れたまふをかならず后がねといみじきことに思したれば、大殿よりも御よろこびたびたび聞えさせたまふ」

 まだ生まれたばかりだが、「将来の后に」と期待して育てられた。それが、藤原彰子である。

■イベントに藤原実資が現れず物議をかもす

 正暦元(990)年12月には、3歳になった彰子の「着袴の儀」(ちゃっこのぎ)が行われた。「着袴の儀」とは、天皇から贈られた袴を初めて着る儀式のことで、現在の「七五三」の源流となっている。

 政治的にも重要なイベントだったが、『小右記』を残したことで知られる藤原実資は、この「着袴の儀」を欠席。どうも連絡に行き違いがあったらしい。翌日に「雅信や道長が不快感を持っていた」と聞き、驚いて謝罪に行ったという。

 だが、前月の11月には、実資はこんな日記を書いている。左大臣とは、源雅信のことである。

 「今日、 左大臣が審議される事が有った。その告げが有ったとはいっても、昨夜の深酔いの残った気分が堪え難く、参ることができなかった」

 (「今日、左府、定め申さるる事等有り。其の告げ有りと雖も、去ぬる夜の淵酔の余気、堪へ難く、参入することを得ず」)

 なんと二日酔いで、公卿が行う審議に参加できなかったというのだ。このとき実資は34歳である。いい年をして、何をやっているんだ……これでは「着袴の儀」の欠席で不審に思われたのも無理はないだろう。

 その後、時は過ぎて長保元(999)年、彰子は12歳になると、裳着を行って入内するが、このときも、実資は道長から不興を買いかねない行動をとっている。

 というのも、彰子の入内にあたって、道長は和歌を集めた高さ4尺の屏風を作り、彰子に持たせようと考えたらしい。道長の日記に「四尺屛風和歌令人々読」とある。

 屏風絵は人気絵師の飛鳥部常則(あすかべのつねのり)、屏風歌を書き込むのは名書家の藤原行成(ゆきなり)という豪華な布陣だ。歌人も選りすぐりで、藤原公任、藤原高遠、藤原斉信、源俊賢などが和歌を献上することとなった。「詠み人知らず」というかたちで、花山法皇の和歌まで加わっている。

 そんななか、実資だけは献上しなかった。今度は二日酔いでもなければ、連絡の行き違いでもなかった。道長から再三、催促されても「大臣の命で歌を作るなど前代未聞」と拒否し続けたという。

 権力者からすれば、何とも扱いづらい実資。だが、道長はそれだからこそ、実資のことを信用したようだ。実務能力に長けた実資の協力を得ながら、道長は政権を運営していく。のちに、道長の嫡男である藤原頼通も実資を頼ることとなった。

■短かった兄・道隆の絶頂

 そんなふうに、彰子が3歳で「着袴の儀」を迎えてから(990年)、12歳で入内に至るまで(999年)の10年足らずで、政治の情勢は大きく変わった。

 彰子の着袴の年に、一条天皇が11歳で元服すると、道長の兄で摂政の藤原道隆は娘の定子を15歳で入内させて、女御としている。まもなくして父の兼家が亡くなると、道隆は娘の定子を「中宮」にすると言い出した。

 当時、天皇の祖母である「太皇太后」、天皇の母である「皇太后」、そして天皇の妻である「皇后」が「中宮」と呼ばれており、このときすでに3人の中宮がいた。加えて、定子が中宮になれば、4人も皇后がいることになる。

 前代未聞のことで、公卿の多くは「ありえない」と反対。実資ももちろん、「皇后4人の例は今まで聞いたことがない」(「皇后四人の例、往古聞かざる事也」)と批判している。

 それにもかかわらず、道隆は強権を発動して、定子を中宮にしている。今や亡き父の兼家のやり方にならって、一条天皇とわが子の間に子を産ませて、その子を天皇にすることで、外祖父として、権力を掌握しようと目論んだのだ。

 その一方で、道隆は、長男の伊周をどんどん引き上げていき、21歳の若さで内大臣にまで出世させている。これも父の兼家のやり方を踏襲したもので、自分にしてくれたことを我が子にも行い、権力基盤を確かなものにしようとしたのだ。

 ところが、それから5年後の長徳元(995)年に、病によって道隆は命を落とす。ちょうど「赤斑瘡(あかもがさ)」という今でいう「はしか」が大流行していた時期だったが、道隆の場合は、飲み過ぎによる糖尿病が原因だったとされている。

 その後は、道隆の弟で、右大臣だった道兼が代わって関白となる。花山天皇を出家までさせた労が報われたかに見えたが、数日後に病死。「7日関白」に終わった。

 道兼の死によって、道隆の長男である伊周と、道隆の弟である道長が、後継者争いを繰り広げる。強敵に見えた伊周だったが、長徳2(996)年の「長徳の変」によって、自滅している。

■目まぐるしく変わる情勢に道長の一手

 道長からすれば、自分より前を走っていた兄の道隆と道兼、そして甥の伊周が勝手に転んで、気づけば先頭を走っていた……。長保元(999)年、12歳になった彰子が入内したのは、まさにそんな状態のときだった。豪華な屏風和歌にこだわったのも、自身の権勢を打ち出すためにほかならなかった。

 とはいえ、まだまだ先はわからない。彰子の入内とちょうど同時期に、中宮の定子が、長保元(999)年11月7日に、一条天皇の第一皇子となる敦康親王を出産する。天皇は大喜びしたというが、道長はその日の日記で「彰子に女御宣旨が下った」と娘のことを書くだけで、第一皇子の誕生については触れていない。

 目まぐるしく変わる政局のなか、道長が放った次の一手――。それが、「定子を皇后とし、彰子を中宮にする」という、亡き兄の道隆をも上回る強引な人事だった。

 【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)

繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
服藤早苗 『藤原彰子』(吉川弘文館)
朧谷寿『藤原彰子  天下第一の母』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

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最終更新:4/14(日) 5:41

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