費用の問題だけじゃない? 東京都は助成金11億「無痛分娩」普及を妨げる“壁” 全国の実施率は1割、乗り越えるべきは課題とは?
東京都は1月末日に2025年予算案を発表し、都民の出産に対して無痛分娩の費用助成に11億円を計上した。案によれば、開始時期は2025年10月で、助成額は最大10万円だ。
昨年7月の東京都知事選で小池百合子知事が公約に掲げていたもので、少子化対策の一環として実施される。
■東京では3人に1人が無痛分娩
無痛分娩は、背中から麻酔薬を注入する。陣痛の痛みを抑える方法には呼吸法、温浴などさまざまな手段がとられてきたが、痛みを取る力は麻酔が最も強い。海外では普及しており、実施率はアメリカで7割、フランスでは8割程度というデータがある。
日本での実施率は11%程度と低いとされてきた。だが、それは全国平均の値だ(日本産婦人科医会調査)。東京都が予算計上に当たって実施した調査では、すでに3人に1人強が無痛分娩で実際に出産しており、希望者も入れると6割を超えていた。
この都民への調査では、希望しても無痛分娩を選ばない理由は「費用が高いから」が多かった。無痛分娩の加算料金は大体10万〜20万円である。
■「特別な産み方」ではない
都内の大学病院で2人の子どもを無痛分娩で出産したAさん(30代)は、今回のこの政策を強く支持する。
「医師不足など、医療現場の問題はあると聞いていますが、出産に対する恐怖心を和らげてくれることにお金を使うのはいいことだと思います」
Aさんは、日本がまだ無痛分娩を選びにくい社会であることには疑問を感じているという。
「『無痛分娩で産んだ』と話したら、ちゃんと産んでいないように言われたこともありました。女性は、もう、産むだけですごいと思うのに。無痛(分娩)がいいと思った人はそうすればいいので、それを特別な産み方をしたように言う風潮は変わってほしい」
この政策に否定的な意見もある。
そもそも子育てには 2000万〜3000万円かかるといわれている。その金額に比べれば10万円はあまりにも小さく、これで都民の出産意欲が高まるとは到底考えられないという意見だ。
無痛分娩の助成を所管する東京都福祉局子供・子育て支援部調整担当課長の谷山倫子氏は、少子化対策は非常に複合的な現象であるため、都は都民の多様な望みに1つひとつ応え、産み育てやすい環境を作ることにより、結果的に出生数が上向くことを期待しているという。
東京都は「チルドレンファースト」を掲げ、今回の予算案にも子育て支援の政策がずらりと並んだ。2023年から始めた18歳までの手当「018サポート」や、所得制限のない高校無償化、保育料無償化の対象拡大などだ。無痛分娩はこうした支援策の一環で、都民がこれを望んでいるという先の調査を根拠として予算が計上された。
筆者は、無痛分娩の支援策は女性たちへの精神的な支援になりうるという点で、大きな意義を持つ可能性があると考えている。
無痛分娩を行う医師たちによると、無痛分娩を希望する妊婦は、家族や知人などに「母親として失格だ」「甘えている」と言われることが少なくないという。
だが、助成金が出れば「自治体が無痛分娩の正当性を認める」という意味合いにもなる。そうなれば社会が無痛分娩に対して理解を示すことにつながるし、女性も気が楽になるだろう。
無痛分娩の妥当性は、国際的にも認められている。WHO(世界保健機関)は、科学的根拠に基づいた出産のガイドライン「ポジティブな出産体験のための分娩期ケア」のなかで、陣痛の痛みを緩和する方法として推奨できるものを挙げており、無痛分娩もそこに入っている。
一方で、日本の無痛分娩には課題が多い。1つが出産施設のあり方だ。
医療の専門家の間では、日本で無痛分娩が普及してこなかったのは、たくさんの小規模な施設が出産を取り扱い、大病院の出産が少ない「分散型」の体制をとってきたためだと考えられている。
日本の出産の約半数は、常勤の麻酔科医がいないクリニックで行われており、そこでも、病院と同じくらいの割合で無痛分娩が行われている。麻酔科医のいない施設の無痛分娩で麻酔を入れるのは、産婦人科医や、外部から短時間だけ来るフリーランスの麻酔科医だ。
日本産科婦人科学会の前理事長で、産科の医療体制に詳しい木村正医師(堺市立病院機構理事長)は、「これは国際的に見て、かなり珍しい」と言う。海外では、出産は年間何千件もの分娩を扱う巨大な病院で行われるのがふつうだ。木村医師が2023年に視察したイギリスの1病院あたりの分娩件数は、日本とまったく違った。
「オックスフォード大学の年間分娩件数は7000件を超え、産科医の数は約50人でした。日本は数百件程度のところが中心で、年間1000件を超す分娩を扱っている病院は、数えるほどしかありません」(木村医師)
産科には専従の麻酔科医が多数いて、24時間体制で待機し、陣痛が始まった希望妊婦に無痛分娩の処置を行っている。無痛分娩が普及している国では、出産にかかわる医療者や装備が集約化されているから、たくさんの無痛分娩を安全に実施できるのである。
欧州ではまた、医療保険が分娩前後の費用全体をカバーし、妊婦の経済的負担はほとんどないのが一般的だ。無痛分娩の費用も保険でカバーされ、たくさんの妊婦が麻酔を使って出産している。
■麻酔科医がいる曜日に合わせて出産
では、日本ではどのように無痛分娩を行っているのだろうか。
最も多いのは「計画無痛分娩」という方法だ。妊婦は無痛分娩をするかどうかをあらかじめ決めておき、麻酔科医が来る日時に合わせて入院、薬で子宮を収縮させ、陣痛を人工的に起こして出産する。
これに対して海外の無痛分娩は、自然な陣痛が起きてから入院し、出産中に麻酔が必要になったら麻酔科医が来てくれる。
全国出産施設情報サイト「出産なび」に掲載された無痛分娩実施施設の情報を厚労省が集計したところ、計画分娩が64%、自然陣痛で麻酔をするところが27%、無回答9%だった。
計画分娩は産む日が決められるので予定が立ちやすく、「夫が仕事を休みやすい」と前向きに捉える妊婦もいる。 しかし、計画分娩でも本当にその日に生まれるかどうかはわからない。
薬を入れれば子宮は収縮するが、薬の効き方は個人差が大きく、その差を客観的に示す指標もない。だから、薬が分娩に必要な本格的な陣痛「有効陣痛」に発展するとは限らない。
閉じた子宮口を開く処置も行われるが効果は限定的で、結局、そうした外部の刺激がうまく本当の陣痛を誘い出せないことには、お産にならない。
子宮は収縮しているのに生まれない日が2日以上にわたることもある。医療者たちが「人工難産」(医療処置が原因で起きる難産)と呼ぶ状態で、妊婦が疲労してしまう。
都内で2人を出産した女性Bさんは、1人目は「夫の有休がとりやすいし、痛みは避けたい」と計画無痛分娩をした。だが、陣痛が進まなかったため、3日がかりの出産になった。Bさんは2人目は計画分娩も無痛分娩も選ばなかった。
こうした例以外にも、入院する前に自然な陣痛が来たため、麻酔科医が対応できず、無痛分娩ができない人もいる。
では、麻酔科医が多数いる大学病院や総合病院では問題がないかというと、そうとは限らない。緊急患者や手術件数が多すぎて麻酔科医が不足していることが多く、院内に麻酔科医がいても対応できないことがあるからだ。
記事のはじめで大学病院の無痛分娩経験を紹介した女性Aさんも、2人目の出産とき、別に緊急手術が入ったため麻酔科医の手があかず、なかなか麻酔を入れてもらえなかったという経験をした。
■無痛分娩と帝王切開の関係
無痛分娩は陣痛微弱になりやすく、さまざまな医療介入が増えるという報告が少なくない。そこに計画分娩が加わると、帝王切開率が増えるというデータもある。
前出の木村医師が、以前勤務していた大阪大学医学部附属病院の産婦人科で3年間のデータを分析したところ、経腟分娩予定の妊婦のうち、計画分娩も無痛分娩もないグループの帝王切開率は3%だった。ところが、計画分娩グループは11%、計画分娩による無痛分娩グループは18%だった。
同院は帝王切開を減らすため、必死の努力を重ねた。木村医師は言う。
「日本のように計画分娩とセットで行うのが当たり前という国は、世界にほとんどありません。それなのに日本は今、それを気にもせず、無痛分娩を美化している気がします。私も無痛分娩をしたいという女性の希望はかなえてほしいですが、日本は特殊な形でやっているということを理解していただく必要はあります」
話を東京都の助成金に戻す。
東京都も医療体制には注意を払っている。それは、今回の新事業が費用の助成だけではなく、医療者の研修や地域連携にも計0.5億円の予算が配分されたことでもうかがわれる。
また、都は助成制度に施設要件を入れ、対象機関で無痛分娩をした都民に助成するという。
しかしそれだけでなく、助成制度が始まったら、東京都は責任をもって無痛分娩施設の実態調査を実施しながら、注意深く制度を運営していくべきだ。無痛分娩の希望者は増加するだろう。そうすると、要件を満たした医療施設に分娩が集中する心配もある。スタッフに過度の負担がかかることも考えられる。
麻酔科医が常駐するなど体制が整った病院は、NICU(新生児集中治療室)もある拠点病院が多い。緊急搬送や、ハイリスク妊娠の母体や新生児の命を守る場であることを忘れてはならない。
麻酔科医不足への対策も必要だろう。これに対しては、国レベルの対策が求められる。
麻酔科医の藤野裕士医師(大阪市立豊中病院総長)は、「麻酔科医の病院勤務は、夜間の緊急手術に対応するケースも多く、若手に敬遠されている」と言う。麻酔科医になっても勤務時間を選べるフリーランス医師になる医師が多く、ますます常勤の麻酔科医が減っているという。
■無痛分娩は支援の1つ
2023年の東京都の出生数は 8万6348 人。前年より5.2%減少し、減り具合が加速している。
少子化対策は、さまざまなニーズに応える数多くの政策が必要である。その1つとして陣痛への恐怖という、これまであまり数値化されず、行政が注目しなかったものに着眼したことは、筆者は評価している。
筆者のところには「どんな出産方法があるのか情報が入りにくい」という声もよく届く。そうした多様なニーズへの対応も含めて、安全な出産支援を打ち出してほしい。
東洋経済オンライン
関連ニュース
- 「妻が夫の子育てにイラつく」のが至極当然の訳
- 体外受精の着床前検査「異常が7割」という衝撃
- 超協力的な「34歳父親」が"産後うつ"になった原因
- 日本人が知らないフランス「少子化対策」真の凄さ
- 出生率0.81の「韓国」で起きている少子化の深刻
最終更新:2/9(日) 13:02