「若貴の影」曙太郎が見つめ続けた、大相撲の栄枯盛衰

4/18 11:32 配信

ダイヤモンド・オンライン

● 日本の「国技」で初の外国人横綱に 曙太郎さんの想像を絶する相撲人生

 日本初の外国出身横綱・曙太郎さんが、心不全のため亡くなりました。7年前、プロレスの試合中に緊急搬送され、リハビリ生活の毎日でしたが、実は本当に「寂しい」晩年だったとのこと。なぜなら、コロナ禍のため、ハワイ生まれの彼の家族は、ほとんど来日できなかったからです。

 1998年に結婚したクリスティーン・麗子・カリーナ夫人との間に2男1女を授かりましたが、2人の愛息は父の出身地ハワイで仕事に就き、愛娘も客室乗務員だったため、入国制限で全く会えなかったそうです。記憶障害にもなっていた彼は「家族に見捨てられた」と本当に落ち込み、長男が緊急帰国して病床に駆けつけるのを待っていたかのように、息を引き取ったそうです。

 今や、ラグビー、バスケなど外国人選手が日本代表として活躍するのが当たり前の時代ですが、「国技相撲」で外国人の曙太郎さんが横綱まで登りつめるには大変な苦労があったと思います。

 実は、私は文春時代、ほとんど相撲の記事を書いたことがありません。いや、当時の大多数の文春記者も同じです。週刊誌の相撲記事といえば、週刊ポストの「八百長キャンペーン」が独壇場でした。その頃の週刊ポストは部数も文春の2倍くらいあり、「文春でも八百長相撲の記事をやらないか」という議論を編集部でしたこともありました。

 しかし、議論は常に「相撲はスポーツというよりショーでしょう。目くじら立てるのは大人気ない」と冷笑的な結論になります。私は文春とポストの差について、当時大阪を中心として関西でポストが圧倒的に強かったことが原因のひとつだと思います。「相撲の八百長は当たり前」と紳士面をしたい東京人。一方、本当は八百長だと知っていながら「どの勝負が八百長か」知りたがる面白がりの関西人。こんな文化の差が、八百長記事の背景にはあったように思います。

 とはいえ、個人的に大相撲と縁がなかったわけではありません。友人の元プロレスコミッションドクターで相撲の世界にも強い富家孝(ふけ・たかし)氏が、場所ごとに枡席に招待してくれ、相撲部屋の朝稽古も目の前で見ました。間近で見る、筋肉と筋肉がぶつかり合う凄い音に圧倒されました。

 昔、相撲ジャーナリストが語っていたことがこのとき、理解できました。

 「本気で15日間、そして1年6場所を戦ったら、全員故障です。どこかで、手を抜くことが絶対必要。注射(八百長の隠語)は、やり方が下手になったからまずいだけで、まあ仕方がない面もあると思います」

● 大人気の貴乃花、悪役の曙 その後「世紀」の兄弟喧嘩が

 そんな文春が相撲記事を書くようになったのは、若貴ブームからです。そして、当時大人気の貴乃花のライバル、つまり悪役が曙でした。文春の特色は人間関係が興味の中心という点です。若貴問題でも、宮沢りえさんと貴乃花の婚約や女将さんとの関係などが主なテーマで、八百長にはあまり踏み込みませんでした。

 思えば、93年名古屋場所での若貴曙3人による優勝決定巴(ともえ)戦が、若貴ブームによって相撲そのものを愉しめる絶頂期だったかもしれません。

 結局、八百長に触れざるを得ない時期がきたのは、若貴兄弟の兄弟喧嘩からでした。貴乃花は1995年、兄に先んじて横綱になりました。横綱になれたのは、曙との千秋楽における大熱戦の末の勝利が最大の理由です。まだ大関だった若乃花は3年後の98年、横綱になりました。

 が、2人に少しずつすきま風が吹くようになったのも、この頃からでした。若貴は同部屋のため、直接対決を見る機会は、2人が優勝決定戦に進出するしかないのですが、95年の九州場所千秋楽でその対戦が実現したのです。12勝3敗同士の横綱貴乃花と、大関若乃花の優勝決定戦。日本中が熱狂した対戦は若乃花が激戦の末、辛勝するという結果になりました。

 しかし、実は貴乃花は「父から暗に負けるよう、ほのめかされた」と恨んでいたという噂が広まり始めました(本人は否定)。その上、2001年には2人の母・藤田紀子さんが親方と離婚します。98年以降、2人とも横綱という「本当の若貴時代」にはなったのですが、若乃花は2000年に早くも引退。貴乃花も03年に引退し、さらに05年に父である11代二子山が亡くなりました。

 ここから、一気に兄弟喧嘩が噴出します。突然、貴乃花がテレビなどで徹底的に若乃花と女将さんを批判し始めました。それまで「理想の家族」だったはずの二子山一家像が、音を立てて崩れた瞬間でした。我々も貴乃花を取材しましたが、彼の兄への攻撃の建前は「兄は相撲への心構えや練習態度がなっていない」でした。しかし本音は、若乃花の横綱昇進に関する疑惑でした。「国技である大相撲の横綱になるにあたって、星を譲ってもらって優勝した」というものです。

 彼自身は、どの取り組みが八百長だったとは口にしませんでしたが、相撲界では公然と「曙と武蔵丸」の名前がささやかれていました。横綱になる以上、横綱との対戦で勝たないと優勝できません。となれば、同部屋の貴乃花とは対戦がないので、他の2人の外国人横綱に頼むしかありません。そして、「裏工作をしていたのが自分の両親だったはず」というのが貴乃花の論理です。

 若貴の人生を振り返ると、常に曙の存在がありました。が、そのことに当時は全然気づいていませんでした。

 兄弟喧嘩は部屋の相続問題にまで発展し、若乃花はすべての相続権を放棄、貴乃花が父親から二子山部屋を継ぐことになりますが、すでにバブルは崩壊していました。部屋の維持は大変で、だから親の遺産総取りをしなければならなかったというのが喧嘩の実相という人もいます。実際、遺産も食いつぶす形で、08年に不動産会社に部屋の土地建物を売却。16年に江東区に部屋を移転するまで、家賃を払い続けながら部屋を運営していたのです。

● 引退後の貴乃花に立ちはだかった 新たな外国人力士たち

 さて、引退してからの貴乃花には、曙とは違う外国人横綱たちが立ちはだかってきました。モンゴル人関取勢です。曙とは違ってモンゴル出身の力士は多く、各部屋に散らばり、にもかかわらず「モンゴル人同士で助け合いをしている」という噂が絶えません。つまり、優勝や負け越しがかかっていると、モンゴル人力士同士で星の貸し借りをやっているという噂です。

 「国技相撲」という純粋さが根底にある貴乃花には、これが許せなかったのでしょう。その対立が爆発したのが、弟子の貴ノ岩(モンゴル出身)への暴行事件でした。

 17年11月、鳥取への巡業中、モンゴル人力士仲間から呼び出された貴ノ岩は、日馬富士を中心とするモンゴル人力士に「右中頭蓋底骨折、髄液漏れの疑い」というかなり酷い暴行を受けます。これは「横綱白鵬から貴ノ岩に負けろと指示があったのに、貴の岩が二子山部屋の真剣勝負の論理によって断ったため、あまり人がいない鳥取巡業で呼び出されて制裁を加えられた」というのが、角界の大体の解釈でした。

 が、貴乃花はこれを機会に、モンゴル勢のふるまいに制約を与えようと生真面目に考えすぎたのでしょうか。弟子を休場させたまま、本人もなかなか協会に報告を上げません。当時は横綱白鵬がいないと大相撲が成立しないほど白鵬に頼っている現状を理解せずに、まっすぐに進みすぎようとしたのが、かえって相撲協会の反発を買い、結局角界からの引退に追い込まれました。

 実は、この時点で文春は極めて説得力のある情報を掴んでいました。本国モンゴルでは日本の大相撲が賭け事の対象となっていて、大金が動くため、貴ノ岩をはじめとした純粋勝負派の二子山一家がいると、胴元が確実に儲かる取り組みが成立しません。だから制裁を下したのだという情報です。しかし、遠くモンゴルまで赴き、モンゴルやくざが絡む賭博の裏が取れるはずもありません。

 いずれにせよ、相撲界での八百長はきちんと立証されることはほとんどなく、噂としてのみ流布し続けました。この疑惑は謎のまま残り、そしてつい最近では、その白鵬率いる宮城野部屋が貴乃花と同じ道をたどります。門下の北青鵬の暴行事件を受け、監督不行き届きで宮城野部屋の力士はすべて伊勢ケ濱部屋に転籍となり、白鵬は二階級降格の処分を受けることになりました。

 以前、Jリーグの産みの親である川淵三郎さんとの席で「Jリーグ設立で一番参考にしたのは大相撲だ」という話を聞いたことがあります。確かに大相撲は、力士として出世できなくとも、国技館の茶店やそこに出入りする「弁当」「お菓子」「土産物」で生活が成り立つなど、アスリートの引退後のキャリアを考えた経営方式になっています(実は、今の大相撲という興業形式が完全に完成したのは戦後のことで、戦前は各部屋がバラバラに、東西対抗など色々な形で興業をしていました)。Jリーグもコーチ資格のテストをしたり、すそ野にサッカースクールやアカデミーを作ったりするなど、セカンドキャリアを考えた構造になっています。

 川淵氏は、「戦後まもない時期にこのシステムを考えた人たちは凄い」と絶賛していましたが、今や相撲は外国人力士が主体となって、そのシステムも壊れつつあります。ドーピング検査が義務付けられていないプロスポーツは世界中にもうほとんどないし、試合をする選手が前日に会食することを許すスポーツもありえません。

● 大相撲の栄枯盛衰を実感した 心優しき名力士の死

 プロスポーツはすべて賭け事の対象となりうるというのが世界の常識。しかも、海外の公的賭博の対象となりえます。さらに、それは反社会勢力の利益になりうるという前提でルールを作るのが世界の趨勢。日本人だけで試合をする前提で作られた大相撲のシステムは完全に時代遅れになっているのですが、それを意識して改革する人物も見当たりません。

 振り返れば、若貴の対立は「相撲=ショー」という考えの若と「相撲=国技・神事」と考える貴の、極端な価値観の対立にあったと思います。実際の大相撲はいかにも日本的な、その中間のスポーツだったのです。

 曙さんは88年にデビューし、相撲は若貴、経済はバブルという時代を横綱として過ごし、その後はプロレス転向と闘病の生活を送りました。大相撲の栄枯盛衰をまさに実感した人生だったのかもしれません。

ダイヤモンド・オンライン

関連ニュース

最終更新:4/18(木) 11:32

ダイヤモンド・オンライン

最近見た銘柄

ヘッドラインニュース

マーケット指標

株式ランキング