なぜ藤原道長の兄・道隆の独裁政権はあっけなく終了したのか…強引すぎる人事に反感を持った女性皇族の逆襲

4/21 8:17 配信

プレジデントオンライン

藤原道長の兄・道隆はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「関白だった父・兼家の後を継ぎ、権力の頂点に立った。だが、早々に病死。強引な身内びいきの人事に対する反発もあって、一族は没落させられた」という――。

■藤原道長の兄・道隆が行った強引な人事

 藤原道長(柄本佑)の父で、年月を費やして虎視眈々と飛躍する機会をねらいながら、突破口をこじ開け、摂政、関白にまで上り詰めた藤原兼家(段田安則)が、62歳で死んだ。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第14回「星落ちてなお」(4月7日放送)。

 兼家はまだ意志を示せるうちに、正妻に産ませた3人の息子、道隆(井浦新)、道兼(玉置玲央)、道長を呼びつけ、後継者は長男の道隆にする旨を告げた。

 時は正暦元年(990)。ここから道隆を祖とする中関白家の絶頂期がはじまる。すでに第13回「進むべき道」(3月31日放送)で、長女の定子(高畑充希)を一条天皇(柊木陽太)に入内させていた道隆だが、第14回ではその定子を、前例を破って強引に「中宮」(天皇の正妻、皇后のこと)の座に据えてしまった。

 当時の天皇には複数の妻がいたが、「女御」や「更衣」は側室で、国家が正妻であると認めた「中宮」とでは格段の差があった。天皇の妻が中宮になることを「立后」といい、当時の上級貴族は権力基盤を固めるために、入内した娘の「立后」を望んだ。

 では、なぜ定子を中宮に据えるのが強引なことだったのか。第15回「おごれる者たち」(4月14日放送)でも解説はなかったので、少し説明したほうがいいだろう。

 当時、后位には「皇后」「皇太后」「太皇太后」の3つがあり、「三后」と呼ばれた。単純にいうと、順に今上天皇の正妻、前の天皇の正妻、その前の天皇の正妻、ということになる。

 ただし、天皇が代わると后が代わるという決まりはなく、基本的には亡くなるなどしないかぎり、空席が生じることはなかった。だから、この時点では一条天皇にはまだ正妻がいなかったが、先々代の天皇、円融院の后だった遵子が、まだ皇后の座にとどまっていて、三后に空席がなかったのである。

■娘も息子も異常なまでに昇進する

 そこで道隆は「三后」を退位させる代わりに、奇策に打って出た。先述の「中宮」は「皇后」、または「三后」全体の別称だったのだが、別称があるのをいいことに、「中宮」というあたらしい后の枠を創って、その座に定子を就けることに思い至り、それを強引に推し進めたのだ。

 山本淳子氏はこれを現代日本に置き換え、「『総理大臣』に『首相』という異名があることを使用して、現総理とは別にもう一人首相が立つ」とたとえている(『道長ものがたり』朝日選書)。

 また、長徳元年(995)正月、次女の原子も皇太子の居貞親王(のちの三条天皇)に入内させたが、道隆が地位を引き上げたのは娘だけではなかった。いうまでもなく、息子の地位も飛躍的に上昇させた。

 すでに第14回で、長男の伊周(三浦翔平)が弱冠17歳にして、天皇の秘書官長である蔵人頭に抜擢されたことが描かれた。伊周はその4カ月後の正暦2年(991)1月には、大臣とともに政に参画する参議に就任して、太政官の高官である公卿に列し、その年のうちに従三位権中納言、翌年には正三位権大納言になった。

 そして正暦5年(994)、道長の舅である左大臣の源雅信(益岡徹)が没すると、叔父の道長らの頭越しに内大臣に昇進。このとき伊周はまだ21歳で、権大納言に据え置かれた道長は、8歳年下の甥に官職で追い越されてしまった。

 また、伊周の5歳年下の弟であった隆家もまた、若すぎる昇進を遂げていった。正暦5年(994)8月には、16歳で従三位になって公卿に列した。記録されているかぎり、平安時代になってから最年少の公卿だった。翌長徳元年(995)5月には権中納言に任ぜられている。

■権力の絶頂期に患ったふたつの病

 しかし、道隆のあまりに強引な身内びいきは、周囲の不満を募らせることになった。なかでも一条天皇の生母であった東三条院、すなわち、ドラマでは吉田羊が演じている道隆の同母妹、詮子の反発を買い、そのことが中関白家のその後に、大きな負の影響をおよぼすことになった。

 伊周が21歳で内大臣になり、隆家が16歳で公卿になった正暦5年(994)には、すでに疫病が都に蔓延していた。『栄華物語』は「いかなるにか今年世の中騒がしう、春よりわづらふ人々多く、道大路にもゆゆしき物ども多かり〔どうしたことか、この年は世の中が騒然とし、春から病にかかる人が多く、都の大路にも忌まわしいもの(遺体のこと)がたくさんある〕」と書かれている。

 このときの疫病は疱瘡、現代でいう天然痘で、『日本紀略』の正暦5年「七月条」には「京師の死者半ばに過ぐる。五位以上六十七人なり」と記されている。都では人口の半分が死亡し、五位以上の貴族だけでも67人が死んだというのだ。これが道隆を襲うことになる。

 だが、大の酒好きだったと伝わる道隆は、もともと飲水病、つまり現代の糖尿病も患っていた。前出の山本氏は、「本人にはしばらく前から自覚症状があったのではないか。その焦りがあからさまな人事に直結したと思えてならない」と書いている(前掲書)。

 疱瘡と飲水病のどちらが致命傷だったかはわからないが、長徳元年(995)4月10日、道隆は死去してしまう。

■死の間際に願ったことはすべて却下された

 死を意識した道隆は手を打とうとした。3月5日には、伊周を内覧(天皇が裁可する役割で、職務は関白に近い)に就けて政務を譲ろうとしたが、一条天皇は、道隆の病中の内覧しか許さなかった。死の1週間前の4月3日には、関白職を辞して、それを伊周に譲ろうとしたが、やはり却下された。

 結局、4月27日に、道隆の弟の道兼を関白にする詔が下ったが、これについて倉本一宏氏は、「世代交代を阻止し、同母兄弟間の権力継承を望んだ詮子の意向がはたらいたのであろう」と記す(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。道隆の強引すぎた人事に対する、妹の詮子の逆襲とみることもできるだろう。

 しかし、その道兼にも疫病の魔の手が迫っていた。5月2日、天皇に関白就任の御礼を言上するとそのまま倒れ、8日には死去してしまう。内覧の宣旨が道長に下ったのはその3日後だった。道長は藤原氏一門を統括する氏長者にもなり、6月19日には右大臣に就任して、彼の時代の幕開けとなった。

 その際、内大臣に据え置かれた道隆の長男、伊周は、それまで身びいきされてきただけに受け入れがたかったようだ。

 藤原実資の『小右記』によれば、7月24日には、伊周が公卿会議で道長に「闘乱」するように激しく楯突き、8月2日には、弟の隆家の家人が道長の家人と七条大路で乱闘におよび、道長側に犠牲者が出たという。

■法皇を襲撃、天皇の女御を呪殺未遂

 だが、翌長徳2年(996)正月14日、伊周と隆家の兄弟は自滅してしまう。『三条西家重書古文書』によれば、この日、花山院が太政大臣だった故藤原為光の家ですごした際、内大臣の伊周と中納言の隆家と遭遇し、闘乱の結果、花山院側の童子2人が殺され、首が持ち去られたとのこと。首を持ち去ったのは、隆家の従者だったようだ。

 事件の背景について『栄華物語』で補えば、伊周は為光の三女を恋人にして密かに通っており、一方、花山院は四女に言い寄っていた(それは花山院がかつて溺愛した女御、忯子の妹だった)。ところが伊周は、花山院が自分の女である三女に手を出したと勘違いし、弟とともに従者を連れて花山院を待ち伏せし、院に射掛けて袖を矢で貫通させてしまった、というのだ。

 こうして2人には、法皇を襲撃した嫌疑をかけられたが、それだけでは済まなかった。詮子が重病に陥ったので御在所の床下を探ると、呪詛の道具が掘り出され、伊周の仕業だとされた。加えて伊周は、天皇家にしか許されない「太元帥法」を行うように僧に命じ、天皇の権威を侵害したと告発されてしまった。

 その結果、一条天皇は4月24日、内大臣の伊周は太宰権帥、中納言の隆家は出雲権守へと降格のうえ、即刻配流するように命じることになった。だが、さらに見苦しかったのはその後である。

 伊周と隆家は出頭を拒否して、伊周の同母妹である中宮定子の御所に立てこもり、検非違使に乗り込まれると、隆家は捕らえられたが伊周は逃亡。

 その後、出家姿で出頭した伊周だったが、太宰府に送られる途中に病気と偽って播磨(兵庫県南西部)にとどまり、ひそかに上京して定子にかくまわれているのが発覚。出家もウソだったと発覚し、太宰府に送られている。

 若いうちから甘やかされ、実績がないのに分を超えた出世を遂げたことで、世の中の理不尽を乗り越える耐性が身につかなかったのではないだろうか。

■没落後はだれも浮上しなかった

 この「長徳の政変」の最中、兄弟をかくまった定子も髪を下ろして出家。それでも一条天皇の定子への寵愛はやむことなく、長保元年(999)11月、皇子を出産したが、一度は出家した身であるため「尼のくせに」という非難を浴びている。そして、翌長保2年(1000)暮れ、第2皇女を出産した直後に亡くなった。享年、わずかに24だった。

 一方、伊周と隆家の兄弟は、配流された翌年の長徳3年(997)の夏、赦免されて上京を許された。母である東三条院詮子の病気が平癒するようにと、一条天皇が大規模な恩赦を実施したのだった。

 その後、伊周は、寛弘2年(1005)に昇殿を許されるまでに立場を回復するが、かつての勢いとはくらべるべくもない。寛弘7年(1010)、失意のうちに37歳で世を去った。隆家は66歳まで生きて長久5年(1044)に没したが、大臣や大納言になることはなかった。

 藤原道隆の中関白家の栄華は、頂点をきわめながらも、わずか5年しか続かず、その間に行われた道隆の強引な身びいきは、その後、後継にとってはそのままツケとなって回ったのである。



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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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最終更新:4/22(月) 11:11

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