「老いて荒野で農に帰る」。福島原発事故から13年、福島・浪江の避難指示が解除された地区で暮らす人々

4/6 14:02 配信

東洋経済オンライン

福島県浪江町。東京電力・福島第一原子力発電所の事故によって住民が避難した地域の中で、放射線量が高く避難解除のメドが立たない帰還困難区域の面積が町全体の8割に及ぶ。
2023年3月末、特定復興再生拠点区域と呼ばれる浪江町内の3つの地区で、避難指示が解除された。面積は帰還困難区域全体のわずか3.6%に過ぎないが、住民の帰還と生業の再生により今後のさらなる避難指示解除につながることが期待されている。
2023年7月と11月、その中の1つ、室原地区を訪ねた。請戸川の中流域で、浪江と福島を結ぶ国道114号線に沿って集落が点在していた土地である。帰還した人たちの暮らし向きを知ることで、原発事故からの復興のあり方を検証する。

 かつて室原地区で暮らしていた住民で、私が以前から知っていたのは、吉田稔(81歳)・ゆり子(78歳)夫妻。二人はこの地区に自宅を持ち、2011年3月の原発事故の後、浪江町の山間部、津島地区の公民館や二本松市の避難所、仮設住宅、県営住宅などを転々とした。

 避難先では、病院に行けば地元の人から何度も、「お前ら治療費ゼロだろう。金がたまっていいな」と嫌味を言われたという。

 ストレスからか健康だった稔さんが大腸がんに罹り、手術のため入院、ゆり子さんは持病のリウマチが悪化した。そして子どものいない二人には家族同然だった猫のチー坊が、目の上にできた腫瘍が原因で死んだ。

 二人の帰郷への願いは日増しに強まった。2017年に浪江町の中心部の避難指示が解除されると、役場に近い町営の復興住宅に入居。故郷の室原地区が解除されるのを待った。

■ポツンといるのが怖くて自宅を解体した夫婦

 ところが室原の避難指示解除まであと2年と迫った2021年2月、夫妻はまだまだ居住可能と思われた自宅を解体してしまった。

 「どうして?」との問いに稔さんは、「17軒ある集落(大字室原・字馬場内)の人たちはみんなもう避難先に定着して帰ってこない。自分たちだけ帰っても話し相手もいないから」といい、ゆり子さんは「うちだけポツンといてもイノシシが怖くて外に出られない」と答えた。

 そして国と町から「除染事業中の今なら400万円はかかる解体費用を肩代わりする」と言われたことで、解体を決心したようだった。国にしてみれば家を壊してからの除染の方が楽で費用もかさまないからだが、これが圧力となって解体を受け入れ、帰還を諦めた家も多かったという。

 そうしたことから、「避難指示が解除されても室原には誰も帰らないだろう」と思っていたが、2023年になって吉田夫妻の自宅跡の目と鼻の先に新居を建て、ハウス園芸を始めた夫妻がいると聞いた。

 国道114号線から脇に少し入った平屋の家はモダンで、近くには真新しい4棟のビニールハウスが並んでいた。2023年7月に訪ねた時、 家主の高田秀光さん(72歳)は3日前に始まったばかりのトルコギキョウの出荷で忙しそうだった。

 震災前、農家の3代目で長男だった高田さんは銀行に勤めながら、ここでネギや大根など路地もの野菜などを中心に農業を営んでいた。しかし原発事故により、嫁いでいた長女を頼って妻と長男を連れて広島県に避難。農作業をしようと土地を借りたが、耕作放棄地だったので開墾に苦労した。方言がわからず、地元の人との付き合いにも苦労したという。

 その後、福島に戻り、南相馬にアパートを借りて暮らしながら細々と野菜作りをしていた。そして避難指示が解除された直後の2023年5月、旧居を建て換えた新築の家に妻と二人で戻ってきた。「やっぱりいいですよ。育ったところは。よく眠れるし」(高田さん)。

■トルコギキョウの栽培で大忙し

 この日は猛暑だったが、川から吹く風の匂いを嗅ぐようにしながら、高田さんは帰郷後の心境を語った。避難先の広島や、南相馬のアパートでは味わえない落ち着きを手に入れたようだ。

 高田さんの農業は震災前に比べ面積は変わらないが、設備面で大きく変わった。以前作っていた路地もの野菜は風評被害に遭いそうだし、人口が少ない今は需要も少ないと考え、浪江町が推奨するトルコギキョウの栽培を始めた。

 試験栽培として補助金が出る。コンピュータを使ったスマート農業を推進する国の研究機関や、農業普及所のアドバイスも受けることができる。おかげで太陽光発電のキットも備え付けられ、ハウスは温度調整や水の散布もスマホで操作できるなど近代的だ。

 しかし花を仕上げるまでの工程は複雑でとても手がかかるという。また2023年は気温が高い日が続いたので花が一斉に咲いてしまい、収穫期は忙しすぎて人手が足りなかったという。周辺の草抜きも妻と二人だけでは大変だ。

 高田さんは腰に手を当てながら、つぶやいた。

 「仕事の合間にはこうして背中を伸ばして、なるべく腰が曲がらないようにしているんです」

 この時、室原では帰還した家はほかになかった。子どもたちは長女だけでなく、長男も仕事を得て広島に定着し、神奈川にいる次男を含め、誰も帰る気配はない。孫が8人いるが、みな県外だ。農業を再興しても収穫や草抜きを手伝ってくれる仲間がいないのだ。

 向こう3年は避難指示解除後にできた農事復興組合が作業を肩代わりしてくれるが、その先は自分でしなくてはならない。72歳の今でこそ体が動くが、いつまでも自分一人で農作業できるかと問われれば、不安になる。周囲には店も病院もないので車での遠出が必要だ。

 「寂しいという思いはあるけれど、それが現実だし、(子どもたちに)来いと言いたくてもそれぞれ生活があります。都会に行けば生活は快適かもしれないけど、私なんかはこういう田舎で育ったから、こういう風景が性にあっているもんね。誰にも気兼ねがないし」

 一番好きな場所に戻った喜びと、これからへの不安が入り混じった言葉だった。

■98歳の母の夢を叶え、自分で家を建てた74歳

 浪江町の計画では、室原地区は営農再開と並んで、防災拠点となることが期待されている。常磐自動車道のインターチェンジがあり、国道が通る地の利を生かしてのことだ。

 その一環として広い駐車場と非常食・飲料水などの備蓄倉庫が併設された避難所の建設が進んでいた。500人収容というその施設は大きく堅固そうだが、それに負けない勢いで、向かい側に2階建ての大きな日本家屋が作られていた。

 出来上がり間近の家の中では、家主の金沢政喜さん(74歳)が内装工事をしていた。金沢さんは大工仕事もする兼業農家だったが、事故後は室原から130キロ離れた県南の白河市に家族4人で避難。12年間にわたって室原の避難指示解除を待ち続けた。解除後は片道2時間かけて車で毎日通い、自分の手で家を建てているという。

 「おふくろを連れてきたいから。おふくろは、いつ帰る、いつ帰る、って毎日言ってんだ。避難先だと惨めだもん」

 「この家に誰が住むのですか」と問うと、小柄な政喜さんは「おふくろと女房、俺。あと息子が1人入るから4人。あと猫1匹。犬も飼わないとダメだな、猟犬。そこまで猿が来るから」と笑顔で話した。

 息子というのは次男の政幸さん(41歳)。独身で、富岡町に住み、楢葉町の老人介護施設で働いている。浪江からでも通勤可能なので、「自分の部屋も作って」と名乗り出たという。

 2023年11月初旬に再訪すると、新居の玄関に奥さんの美江子さん(70歳)が出てきた。1週間前に家族3人で引っ越してきたばかりだという。この日はまだ本式の合流ではないが、政幸さんも来ていた。

 政喜さんの98歳の母親・イチさんもいたが、真新しい畳の座敷に置かれたベッドで寝ていた。室原に帰る2週間前に体調を崩し、腸のヘルニアと診断されて手術を受けたが、その後に歩行ができなくなったという。

 昼になると政喜さんが帰って来たので、家族4人で神棚の前に座ってもらい、記念写真を撮った。家族3代での帰郷だった。

 事故前は大家族での暮らしが当たり前だったこの地域では、事故後は家族バラバラの避難が普通になっていた。二重に嬉しい帰還ですね、と言葉をかけると、政喜さんは「できれば4世代同居になって欲しいけど」と政幸さんの顔を見ながら小声で言った。結婚して孫の顔を見させて欲しいという、今時は大声では口にしにくい注文だった。

 98歳で念願の帰郷を果たした母のイチさんが亡くなったのは、この日からひと月とたたない11月末のことだった。

■賠償金で買ったトラクターで水田を起こす

 政喜さんは農業高校を卒業後、大工だった叔父さんに弟子入りし、一時は東京で建築の仕事をした。その後は福島に帰り、原発建設で好景気にわく故郷で仕事を続けた。隣の地区の美江子さんと結婚したのは1980年代に入った時分 。リーマンショック後は農業用ビニールハウスの建設が主となったが、原発事故までは兼業農家を貫いた。

 政喜さんにこれから何をやりたいですか、と問うと、迷わず「農業」と答えた。

 しかも田んぼを起こし、コメを作りたいという。農家の長男に生まれた政喜さんにとって、水田作りこそが本来の仕事なのだという。畑も含めると7町歩ほどの農地を所有しているが、その中には原発事故後に近所の人が手放した農地も含まれる。さらに町からは、補助金を出すから他の耕作放棄地も管理耕作することを要請されているという。

 コメを作って売れますか、と聞くと、「まあ飼料米だね、家畜に食べさせる」と答えた。しかし本気であることは、東電からの賠償金を注ぎ込んで1台600万円もする新しいトラクターを購入したことでわかる。

 実際11月いっぱいで田んぼにうねを作るために、朝6時からトラクターに乗って荒れた農地を耕している。

 「この先、決して明るくない農業にどうしてこだわるのですか」と尋ねると、「俺は昔からずっと農家で生きてきたから。土地は大事じゃないか、って思うんだ」との答えが返ってきた。先祖から受け継いだ土地を荒地から農地に復興することに政喜さんは残りの人生を捧げたいようだ。

 しかしこうも言った。

 「ほっとした。張り詰めていたものが切れたみたいだ」

 家族を連れ、念願の帰郷を果たしたことで疲れがどっと出たようだ。12年間の避難の後の帰還は、74歳の政喜さんにそれほどまでにエネルギーを費やさせた。コメ作りは補助金をもらえば規模の拡大を約束させられ、借入金の返済などの足枷をはめられるので、もらわずに自分の土地に限ってぼちぼち始めたい、と言う。

 「原発誘致して40、50年でしょう 。だから元に戻るのも40、50年、孫の代になるんじゃないか」

 独特の勘定ぶりだが、孫の代の故郷を口にしたところに、未来を諦めない気持ちを感じた。

■帰還困難区域の行方

 帰還困難区域の未来は見えない。

 今回、特定復興再生拠点区域として避難指示解除された浪江町の帰還困難区域の3地区のうち、室原では7世帯10人が居住を始めている。 隣接する末森地区では5世帯9人の高齢の農家などが、阿武隈高地にある津島地区では役場支所の隣にできた町営住宅中心に外来者も含む8世帯13人が戻ってきた(2024年2月末時点)。

 原発事故以前、177世帯605人、178世帯302人、95世帯284人が住んでいたことを思えば、微々たる数字だ。

 それでも町はスーパーのイオンと共同で日用品を運ぶ移動販売車による巡回サービスを行い、秋の連休には各地の避難先から元の住民を招いてバーべキュー大会を開くなど、住民の帰還促進を図っている。

 そして2025年からは、帰還を希望する住民の住居周辺に限って除染する「特定帰還居住区域」の募集が始まる。

 しかしこれまでに避難指示が解除された区域がそうであったように、子どもを抱える若い世代が積極的に戻ることは考えにくい。まして津島のように屋内でも通常の値の10倍近い空間放射線量の土地であればなおさらである。

 戻るのは室原で会った二人の比較的年齢の若い高齢者とその家族のように、強烈に先祖伝来の土地と農のある暮らしに惹き寄せられた人々であろう。

 ポツンと一軒家に暮らす老いた農民たちが再び大地に根付くために、国や社会はいかなる責任を果たすべきか。難問が残された。

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最終更新:4/6(土) 14:02

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