日銀がこれほどまで円安を「無視」する3つの理由とは何か

5/4 6:32 配信

東洋経済オンライン

 なぜ日本銀行は為替を「無視」するのだろうか。

 以下の3つの理由がある。
1つは、古い経済学を信じているから。
もう1つは、古い世界に生きているから。
3つ目は、まともすぎる専門家集団だから。

■「期待は正しい」という「古い経済学」が残存? 

 第1に、1970年代から1980年代に一世を風靡した「合理的期待形成理論」を日銀もほとんどの経済学者もいまだに信じているからだ。

 不思議な理論だが、要は、将来予想が自己実現するのだが、ポイントは、すべての人が正しく予想するということは、すべての人の予想が同じであるということで、そして、すべての人がその予想に基づいて実際に行動するわけで、そうすると予想は自己実現する、ということである。

 だから、人々の期待さえ動かせば、世界は思いどおりになるという(傲慢な)政策主体の見込みで(実はただの願望だが)、「期待に働きかける」という、壮大な実験、無駄である実験、無駄であるにもかかわらず大きな副作用を残す異次元緩和に賛成し、日銀はその実行を担ってきたのだ。

 だが、期待は実現しない。なぜなら人々は、日々の生活においては、期待ではなく、しがらみ(現在の制約条件)によって行動するからだ。将来予想よりも、今、財布にある現金(あるいはスマートフォンにチャージされているマネー残高)、今月の給料、次のクレジットカードの支払い見込み額で決まってくる。

 そのため、例えば「政府日銀がインフレにしようとしているらしい、もしかしたらそうなるかも」と思っても、実体経済における実物への消費、投資行動は少しずつ、部分的にしか修正されない。

 結果的に期待は実現しない。理論的には、上述の合理的期待形成ではなく、適合的期待形成となるということだ。

■実物経済と金融資産市場との間に起きる「深刻な問題」

 一方、資産市場においては、将来の期待の変化の修正が行動に大きく影響する。なぜなら、それは資産価値のほとんどが将来のものであり、かつ資産の多くが金融資産であるからだ。つまり、金融資産市場においては、期待は実現する。

 例えば、株が上がると思えば、買う。買うから上がる。上がるから買う。ほかの投資家もそう行動するだろうと予想するから、みんなが買って大幅に上がる前に買う。われ先にと買う。だからあっという間に上がる。

 むしろ、金融資産市場においては、期待が実現しすぎて、オーバーシュートする(行きすぎる)おそれがある。資産市場においては価格がほぼすべてであり、その価格の変化が瞬時に起こるため、期待が実現すると投資家たちは確証を得ることができる。行動経済学でいうところの確証バイアスが現実に存在することを鑑みれば、この行動はさらに加速するからだ。つまり、期待が実現し、期待が期待を呼ぶため、すぐにバブルになってしまうのだ。

 この結果、金融資産市場においては、変化はあっという間に実現する。実物経済(あるいは実体経済)との、変化が実現するスピードの差は、とてつもなく大きくなる。

 そして、この差が問題で、経済に決定的な影響をもたらす。

 金融市場は、実体経済が変化する前に変化してしまう。そして、この変化のスピードが21世紀になってさらに加速しているのだ。この結果、実体経済が中心で、それをサポートする金融市場という本来のあり方から、金融市場の変化が実体経済を振り回し変動させるという状況が定着してしまっている。これが新しい世界だ。

 それにもかかわらず、日銀は(アメリカの中央銀行も)まだ20世紀の経済世界に生きているから、この変化の加速を無視し、実体経済の変化を中心に観察している。この結果、中央銀行が、実体経済の物価だけを注視し、実体経済を調整しようとしても、金融市場を直接にコントロールの対象に入れなくては、うまくいかないことになる。金融市場における最も重要な価格である為替をコントロールの対象外にしていては、経済運営はうまくいかないのだ。これが第2の理由である。

 一方、21世紀は格差拡大が加速すると同時に、金融資産市場の規模が実体経済に比して急速に拡大しているという現実がある。

■新しい現実を直視しない中央銀行

 このような状況において、金融政策における大規模緩和の影響はどこに行くか。もちろん、金融市場である。インフレを起こそうとして金融緩和をすれば、実物経済は動かず、金融資産市場だけがバブルになる。

 このバブルにより、富裕層と呼ばれる新成金資産家たちがぜいたく消費を増やすが、それは広がりを持つはずがない。住宅・土地価格は上昇し、庶民は家が買えなくなるし、高額品、レジャー品は金持ちの独占状態になる。

 彼らのぜいたく消費に企業もターゲットを絞るが、こうした新富裕層は、新製品、画期的なモノ、流行モノなどに夢中になるから、物価指数は上がらない。なぜなら、物価指数に組み入れられないモノだけが高いからだ。例えばトヨタ自動車のレクサスハイブリッドから、テスラに乗り換えたときに、物価指数は上がらない。

 レクサスハイブリッドがテスラに対抗するには、レクサスも全面的にEV(電気自動車)に変更するか、ハイブリッドの値下げあるいはサービスや質の向上で対抗するから、むしろ物価指数は下がる可能性すらある。

 資産市場の影響を受ける物価指数は、住宅部分だけだ。だから近年、物価水準の動向は、世界的に住宅価格の影響が大きくなっているのだ。この結果、金融政策の影響はほとんど資産市場に吸収され、実体経済への影響は資産市場経由のものがほとんどであり、二次的なものであるから小さいうえに資産市場の変動には大きく及ばない。そして、景気が過熱しても、物価はそれほど上がらないことになる。

 これが新しい現実である。この新しい世界を中央銀行、エコノミスト、経済学者たちは見ようとしていない。この結果、21世紀はバブルにあふれるようになったのである。

 物価と実体経済だけを見ていては、バブルは止められないし、結果的に実体経済運営もうまくいかない。物価だけを見ていると、資産市場がバブルになり、実体経済が過熱し、その後、少しだけ物価が上昇し始めたときになってようやく金融政策を調節し始めるから、バブルの影響は悲惨なことになるのである。

 この議論は、実はすでに古くからあるものだ。20世紀においても、いわゆる「BIS(国際決済銀行)ヴュー」と、「FED(アメリカの中央銀行)ヴュー」の対立の話は、この連載でも以前から何度も言及している。

 要は、前者は、バブルは事前の芽を摘み取ることは無理でも、膨らみ始めたら早めに退治してしまうことが必要であるという立場だ。一方、後者は、バブルつぶしが実体経済つぶしになってしまうといけないので、バブルが崩壊してから、迅速に金融政策で対応するのがよい、という考え方だ。

 結局、20世紀の後半は後者が力を持つようになった。そして、それは、1930年代の大恐慌の教訓を「中央銀行の引き締めが早すぎたからだ」と解釈した、経済学者のミルトン・フリードマンや、FRB(連邦準備制度理事会)議長を務めたベン・バーナンキなどの影響によって、より広く行き渡ってしまった。

 それが、21世紀に起きた世界金融危機(リーマンショック)で見方が逆転したと思ったのだが、現在の経済学者、中央銀行の関係者は、依然としてFEDヴューの世界に生きているようである。

■中央銀行の政策ターゲットはどこに向けられるべきか

 この対立は「バブルへの対処法」という狭い観点で見るべきでない。「中央銀行の政策ターゲットは実体経済か金融市場か、どっちなんだ?」という、より大きな問題を提示しているのである。

 現在の経済学と中央銀行の人々の立場は、実体経済がターゲットであり、その価格である物価のコントロールに金融政策は専念するというものである。しかし、このスタンスを取っているとしても、最終目的は、物価の安定を通じた「日本経済の健全な発展」である。その最終目的を達成するために必要であれば、実体経済も金融資産市場もどちらも政策のターゲットになるはずである。

 また、日銀の役割は、金融政策とともに「金融システムの安定」に貢献することであり、この2つの機能は等しく重要である。そうであれば、金融政策においても、金融市場が当然視野に入るべきである。

 ではなぜ、このようにやや柔軟に考えずに、文字どおり、しゃくし定規に物価に専念し、為替相場には関与しないという姿勢をかたくなに守ろうとするのだろうか。それは、冒頭に挙げた第3の理由、すなわち、まじめすぎる専門家集団であるということだ。日銀は専門家集団としてあまりに健全すぎ、同時に謙虚すぎるのだ。

 どういうことか。日銀の考えはおそらく以下のようなものだ。

 自分たちは専門家として政府から独立した。物価に専念できるように組織の法律も改正された。悲願の独立性を得た。1980年代のバブル時の例に代表されるように、つねづね「物価以外の要素を見ろ」という圧力に屈して、金融政策が歪められてきた。だから今後は、物価以外を見ろという要求には応えてはいけない。

 自分たちはあくまで物価の専門家であり、バブルに対処する専門家ではない。実体経済のモデルを前提としており、資産市場、特に株式市場、投資としての不動産市場は二次的な影響しか見ていない。だから、法(のり)を踰(こ)えることはしない。あえて、資産市場、金融市場、そして、たとえ為替市場であっても無視するのが、正しい専門家、政策担当者としてのあり方である。

■日銀の姿勢は正しくて謙虚でも、世界は非合理

 このような専門家としての政策担当者の姿勢は、確かに正しい。謙虚ですばらしい。しかし、現実の世界はそんなきれいな世界ではないのだ。日銀が自分の専門領域を保守的に謙虚に守って専念しても、外の世界では、投機家、政治家、世界中の欲望にまみれた人々、われわれ普通の個人でさえも、金融市場、資産市場において、欲望にまみれて行動している。世界はひずみにあふれている。非合理性にあふれている。

 為替市場は、どう考えても妥当な水準にない。円は安すぎる。「それは日米金利差で説明できる」と言うが、金利差だけでここまで円安になるわけではない。

 しかも、一定の金利差が続いているときは、それは円安の理由にならない。為替が金融市場の変数として動くのであれば、金利差が続くのであれば、金利の低いほうの通貨は直ちに減価して(円安になって)、円の長期金利が低い分を円の将来の増加(円高)期待で、今後は円高が急速に進むという見通しにならなければ、理論上の裁定は成り立たないからだ。

 つまり、現時点の円安、為替の動きは、合理的には決して説明できないのだ。「いやいや、構造的な貿易赤字体質になっている」とも言うかもしれないが、それにしても過度の円安である。投機家が、これらのひずみを生かして、投機的行動によって歪みを増幅させている。

 世の中がノイズと欲望と悪意にまみれているときに、1つの専門組織だけがきれいな世界にとどまっていいのだろうか。世界の人々が全員善意かつ理論的に正しい行動をとるときには、自分の専門だけに邁進すれば世界はうまくいくという理想の世界に生きていていいのか。「日本経済の健全な発展」という最終的な目的のために、自分ができることはすべて行うべきではないか。

 さらに、異常な円安になってしまった最大の原因は、10年以上にわたって続いてきた日銀の異次元緩和にある。この副作用が、貿易赤字やアメリカの金利上昇によるドル高円安の影響を何倍にも増幅して、34年ぶりに1ドル=160円台をつけるまでの円安にしてしまった。

 これは、今の「植田日銀」には直接の責任はない。しかし、過去の金融政策では、たかだかインフレ率を0.5%から2%に上げるために、約10年も無理矢理異次元緩和を続けた。

 しかも、インフレ率は0.5%から1%弱で安定していたものを、この先2%になるのかならないのか、2%を超えたらさらに上がってしまうのか、確証もないまま、物価の不安定性、物価の予測を大幅に増加させ、経済を不安定にした。結果的にインフレ率は上がったが、それは金融政策と無関係に、世界的なサプライ(供給)サイドの制約要因(および円安)で上がっただけだった。

■直接責任はなくても植田日銀はひずみの処理を行うべき

 つまり、無駄でなんの効果もなかった異次元緩和の10年が、過度の円安という大きな副作用を残したのである。たとえ現在の日銀自身には責任はなくても、やはりこの壮大なひずみの処理を行うべきであるし、そもそも日銀は日本経済を健全な状態に保つ責任があるわけだから、その責任を果たすために、金融政策の理想像からの多少のひずみは甘受すべきではないのか。

 もちろん、この10年の金融政策の失敗、異常な副作用の放置の真因は、アベノミクスにある。アベノミクスにおけるキャッチコピーである「デフレ脱却」「日本経済停滞のすべての原因はデフレである」という誤った(政治的には成功した)経済政策戦略を政治が採ったせいで、日本の経済政策はおかしくなってしまった。

 本来、物価と為替と雇用と長期的視野と財政などのバランスを総合的に取って経済政策全体を運営すべきである日本国の司令塔が、すべてを物価のせいにし、物価さえ上がればすべて解決すると問題設定してしまった。そのため、物価の司令塔である日銀がインフレ率2%の達成に向けて、どんなに副作用が大きくなっても、その達成を最優先させたのは、専門家としての政策担当者としては、自然であったともいえる。しかし、今回の議論では、それは置いておくとしよう。

 一方、確かに専門家として与えられた部分的な役割を超えて、日本全体、経済全体について考えることによってひずみが生じるケースもある。典型的な例が、財務省がかつて大蔵省と呼ばれていた当時のことだ。

 彼らは、とにかく日本をよくすること、それが自分たちの責任だという使命感に燃えていた。だから、私に言わせれば、省益や天下りなどを行動のインセンティブにすることは皆無だった。縦割り行政などという言葉も無縁だった。権限争いなどそもそもない。

 「とにかく自分たちこそが、日本を救えるのだ」という使命感に燃えすぎており、日本全体という大きな話をする際には、全部「自分たちこそが正しい」という考えを持っており、かつそれを「自分たちが実現する義務がある」という責任感に燃えすぎていた。

 つまり、狭い専門性に引きこもるというプロの官僚としての弊害はなかった代わりに、「日本の将来は自分たちが仕切るべきだ」というエリートの傲慢性にあふれていたのだ。「財政健全化至上主義に陥っている」などというのはウソで、「将来財政のことを考える人が皆無だから、その役割を果たす使命感があるのは自分たちだけだから、自分たちがなんとかしなければいけない」と思っていただけなのだ。

 財政に限らず、すべての日本の問題について痛みを伴う改革の必要性を主張し、ポピュリズムと戦う日本最後の良心を持っているのはいまや自分たちだけだから、世の中のすべてのポピュリズムと戦わなければいけない。だから、すべての政策決定において、自分たちのアンチポピュリズムの主張を通そうとしたのだ。

 これが大蔵官僚の欠点であり、傲慢さであった。なぜなら、人々がそれを望んでいるとは限らず、またその意思決定を委託されているわけでもなかったから、エリートを自認する人々の独りよがりにすぎなかったからだ。責任感があるのはよいが、結局、責任も取れないし、責任を取ってほしいと誰にも望まれていないから、出しゃばりすぎなのだ。

 いまや大蔵省も財務省となり、このような雰囲気は薄まっているが、いずれにせよ、狭い専門性に逃げ込む欠点と、全体を考えすぎてでしゃばりすぎる傲慢さと、トレードオフ的な組織の欠点が存在することも事実だ。

 では、どうしたらよいのか。

 あまりにつまらない結論だが、現実的に、その中間でバランスを取るしかない。そして、すべての組織、すべての個々人がその立場になり、自分の専門性、個々の役割をまっとうしながら全体のことも考え、自分の領域に励みながら、それが全体に悪影響を及ぼさないか、全体の役に立っているか、つねに考えながら行動する。そういう当たり前のことを全員がやるしかない。

 今回は、つまらないオチになってしまったが、現実における解決策とはそんなものだろう。

 (本編はここで終了です。この後は筆者が週末の競馬などについて語るコーナーです。あらかじめご了承ください)

 競馬である。

この週末は、アメリカで3歳馬のクラシックレースの1つ、ケンタッキーダービー(チャーチルダウンズ競馬場、ダートコース、距離2000メートル、日本時間での発送予定時刻は5日の7時57分)がある。JRA(日本中央競馬会)が施行する、日本ダービー以上の重要性を、アメリカの競馬界では持つ。

■忘れられない2000年のケンタッキーダービーの快挙

 ITバブルが弾けた2000年に日本人の関口房朗オーナーが所有するフサイチペガサスが勝ったとき、私はちょうど留学中であったため、ライブで見ていて(と言ってもテレビのライブ中継だが)、驚きと感動に包まれた。

 ケンタッキーダービーは1番人気が勝てないというジンクスがあり、それをフサイチペガサスが21年ぶりに破ったこと、ミスタープロスペクター産駒で1998年当時、世界史上最高額の400万ドルで購買されたこと、それらも話題であったが、そんなことよりも何よりも、オーナー(馬主)が日本人だということが最大のニュースであり、メディアを覆いつくしていたのである。

 そして、勝利後は、調教師もジョッキーもどうでもよく、長髪でサングラス、不思議な帽子を被った関口房朗氏のアップとインタビューが続いたのである。あのときの感動を、後日、偶然ジムのプールの更衣室で会ったときに房朗氏に伝えたかったのだが、お互いにほぼ全裸であったため、自重した。

 フサイチペガサスは現役中に種牡馬の権利が売却され、これまた当時世界史上最高額である7000万ドルで売却された。アメリカはこういうエリートの、かつ鹿毛(または栗毛)の馬が大好きだというのもあるが、何もかも話題づくめの馬だった。

 アメリカでダービーが重要なのは、同国では2歳戦が重視され、3歳春のダービーのときには、すでにほとんどの馬が完成の域に達しているからだ。ダービー後は、秋の大レースであるブリーダーズカップを勝ったら、さっさと引退して、最大の金稼ぎ(種付け)に励ませられるのがエリート牡馬の運命だからである。その望みがなくなった瞬間に「男」でなくなり、騙馬として賞金稼ぎのドサ回り役になるか、どちらかなのである。

 アメリカの3冠は、この5月第1週のケンタッキーダービーが1冠目だが、その後はなんとたった中1週でほぼ同距離のプリークネスステークスが行われ、さらにそこから中2週でベルモントステークス(距離2400メートル)が行われる。英国や日本と違い、たった約1カ月のうちに3冠レースを行ってしまうのである。

 日本では平成バブル時だった、1989年のサンデーサイレンスとイージーゴアの宿命のライバル対決は見ものだった。だが、こんなタフな日程では、3つのレースに有力馬がそろって参戦するということが実現するのはほぼ不可能である。

 また、2冠を獲ってもあえて回避する場合もあるが、いざ2冠を獲って3冠目に出ないとプレッシャーがきついため、2冠目のプリークネスはパスする陣営も多い。だから、2歳でチャンピオンになって3歳時にダービーを勝てばそれがすべてで、あとのレースはどうでもいいというのがアメリカの競馬なのである。

■ケンタッキーダービーは日本馬応援、「NHKマイル」は一騎打ち

 前置きが少々長くなったが、このケンタッキーダービーに日本のフォーエバーヤングが有力馬として参戦する。こんな日がくるとは感慨深いが、しかし前述のように、アメリカの関係者はとてつもなく全力なので、フランスの凱旋門賞を勝つよりも難しいことだと思う。日本時間の5月5日は彼にとっては非常にタフな日になるだろう。応援したい。

一方、同日の日本では3歳馬が対象のNHKマイルカップ(芝の1600メートル、G1)が東京競馬場で行われる。同歳を対象とするクラシック3冠の1冠目、皐月賞で惜敗したジャンタルマンタル(8枠16番)と、桜花賞で惜敗したアスコピリチェーノ(7枠14番)の一騎打ち。大変興味深い。

 キングカメハメハが2000年に成し遂げたNHKマイル、日本ダービーの「変則2冠」は偉大だ。だが、アメリカ3冠に比べれば、間隔が開いているので、今後も変則などと言わずに、皐月賞、NHKマイル、日本ダービーの3冠を取る馬が出てきても、本当はいい気がする。現在のレース間隔を開ける流れからは、とても実現しそうもないが。

※ 次回の筆者はかんべえ(吉崎達彦)さんで、掲載は5月11日(土)の予定です(当記事は「会社四季報オンライン」にも掲載しています)

東洋経済オンライン

関連ニュース

最終更新:5/4(土) 6:32

東洋経済オンライン

最近見た銘柄

ヘッドラインニュース

マーケット指標

株式ランキング