大崎駅、ビジネス拠点に変貌した「鉄道の町」の今 再開発で利用者急増、山手線の車両基地もある

3/14 4:32 配信

東洋経済オンライン

 目黒駅の所在地が品川区上大崎であり、五反田駅に近接して大崎広小路駅や大崎橋が存在するなど、大崎との地名はもともと、かなり広い地域を指していた。

 1889年には上大崎村、下大崎村などが合併して大崎村が成立。1908年には町制を施行し、1932年に東京市品川区に編入されるまでは荏原郡大崎町であった。

 その範囲からすると、山手線の大崎駅はかなり南に偏った場所にある。大崎町役場は五反田にあったが、それもまったく関係なく、目黒川沿いの田圃の中に設けられたのだった。

■大きな岬が地名の由来? 

 地名の由来には諸説ある。江戸湾(東京湾)に突き出るような大きな岬(崎)ではないかとも言われている。俯瞰してみると、高輪台地から御殿山、さらには品川神社付近を先端として延びる丘陵地は大きく、細く、岬のように見える。

 山手線は御殿山を切り崩して堀割で抜けるように建設されており、品川―大崎間でほぼ南から北へと進行方向を変えるような急カーブを線路をきしませながら走る。駅間距離は2.0kmあり、これは山手線で最長だ。

 前身の日本鉄道品川線(品川―赤羽間)が1885年に開業したとき、駅は渋谷、新宿、板橋しかなく、すぐに目黒、目白が設けられたものの、しばらくはそのままで推移した。

 この鉄道は群馬県の生糸を輸出港である横浜まで運ぶことを主目的としていたが、新橋への乗り入れを考慮し、横浜へは品川駅での折り返し運転とされた。それゆえ、横浜へ直進できるような連絡線も1894年に建設された。東海道本線との合流点は現在の大井町駅付近であった。

■鉄道の分岐点に旅客駅を設置

 その連絡線が分岐する地点に設けられたのが大崎駅だ。1901年2月25日の開業で、品川線の旅客駅としては目黒、目白に次いで古い。ただ、周囲の集落もさほど大きくはなく、当初の乗降人数は極めて少なかった。

 江戸時代からの大集落であった品川宿から品川駅が離れていたため、若干近い大崎駅へ出る利用客はあったかもしれない。しかし、当初は分岐点の信号場のような役割が主だったのではないかとも思われる。

 1915年、各種車両の検査、修繕を主な目的とした大井工場が開設された。従来は新橋駅構内にあったものだが、車両数が大幅に増えて手狭になったため、大崎駅にほど近い土地に移転したのである。

 そして、この工場への出入場のために先述の連絡線が転用され、営業列車が通らなくなった。前年には東京駅が開業しており、旧新橋駅が貨物専用の汐留駅になっていたため、貨物列車の運転に大きな支障がなくなっていたものと思われる。

■大井工場開設後ジャンクションへと進化

 その後、東海道本線そのものの列車本数増加に伴い、1929年には品川―新鶴見操車場―鶴見間に貨物専用の別線「品鶴線」が開通。山手貨物線とは目黒川を渡る地点付近で分岐した。

 さらにこの貨物線へ大崎駅側から貨物列車が直通できる、通称「大崎支線」も建設され、1934年に開通している。両線の分岐点(東急大井町線下神明駅付近)には蛇窪信号場が設けられた。この両貨物線は途中で立体交差しており、品鶴線の南側から大崎支線が合流する。

 その後、両線とも旅客線化されて、品鶴線は1980年から横須賀線、大崎支線は2001年から湘南新宿ラインの経路となった。今は頻繁に通勤電車が走る。信号上、今は旧蛇窪信号場も大崎駅の構内の一部として扱われている。品鶴線にほぼ並行している東海道新幹線を含め、一大ジャンクションの様相を呈しているのが、今の大崎駅付近だ。

 品川宿から分岐して多摩方面へ向かう、現在の山手通りに相当する道が整えられたとき、目黒川を渡る地点に居木橋(いるきばし)が架けられた。

 「ゆるぎの松」という古い松の木があり、そこから居木に変化したとも言われる。この橋の近くにあったのが居木神社だが、江戸時代の初めに水害のため、現在の大崎駅の西側にある丘陵地に村ごと移転。以後、そこも居木橋と呼ばれ、大崎村合併までの村名にもなった。

 現在の品川区大崎は、その居木橋と呼ばれた地域をほぼ受け継いでおり、目黒川、東急池上線、百反通りに囲まれた、それほど広くないエリアだ。

 高台は閑静な住宅地であるのに対し、駅周辺は、開業翌年に貨物取り扱いが開始されて以後、工業地帯として発展してゆく。商業的な集積は隣の五反田、大崎広小路駅周辺に起こり、大崎は通勤客が乗り降りする駅として終始していた。

■再開発により駅周辺は大きく変貌

 それが大きく変わったのが、1980年代に、工場が移転した跡地の再開発が始まってから。東京都が大崎地区を副都心として整備する計画を策定したためだ。

 まず、東口側に1987年に店舗、オフィス、ホテルなどの複合施設、大崎ニューシティが開業。1999年のゲートシティ大崎などが続いた。21世紀に入ると西口側でも再開発が進行。超高層ビルが林立するビジネスエリアが現れ、日本を代表する先端企業が集まり、かつての大崎のイメージは一掃された。

 コロナ禍により成田空港へのリムジンバスが運休するなど苦戦は続いているが、中・長距離バスが発着する大崎駅西口バスターミナルも2015年に開業している。

 車両基地があるため山手線には「大崎止まり」の列車もあって、駅名は知られていても、毎日決まった通勤客しか乗り降りしない。山手線だけの駅で乗り入れるほかの鉄道もない。

■埼京線・湘南新宿ラインのホームも新設

 そんな大崎駅も、2002年12月1日にりんかい線が開業して大崎支線との分岐点となってホームが新設され、埼京線との相互直通運転が始まってから変わった。

 同時に、前年に運転を開始していた湘南新宿ラインも大崎に停まるようになって乗換駅としての重要性が増し、再開発にも弾みがついた。2022年3月のダイヤ改正では、通勤客向け特急「湘南」のうち、新宿―小田原間運転の列車がすべて大崎に停まるようになっている。

 駅周辺の再開発の進捗もあいまって、乗車人員も1980年代後半から急増。それまで2万人台後半程度だったのが、すぐ4万人、5万人と伸び、コロナ禍前の2019年には17万7000人あまりとなったのだから、まさに激変である。この数字は、JR東日本の各駅の中では、上野に次ぐ14位に当たる。「鉄道の町」「工業の町」から「副都心」への発展ぶりがわかる。

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最終更新:3/14(木) 4:32

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