「国を富まし、そして窮民を救済せよ」田沼意次の北海道開拓に立ちはだかる障壁と”随一の蝦夷通”に引き継がれた野望

6/15 15:02 配信

東洋経済オンライン

NHK大河ドラマ「べらぼう」では、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を中心にして江戸時代中期に活躍した人物や、蔦重が手がけた出版物にスポットライトがあたっている。連載「江戸のプロデューサー蔦屋重三郎と町人文化の担い手たち」の第24回は、田沼意次に蝦夷地の開拓を提案した工藤平助や、実際に蝦夷地で調査を行った最上徳内について解説する。
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■変わり者の医師が田沼意次に進言

 「この際、ロシアと堂々と交易をすれば、日本の国力は増すことになるでしょう」

 老中の田沼意次にそんな大胆な提言を行ったのは、工藤平助(くどう・へいすけ)である。江戸詰めの仙台藩医だったが、なかなかの変わり者だったようだ。

 医師は剃髪するのが当然とされた時代に、平助は髪の毛を伸ばして、自分流を貫いた。そんな平助を面白がってか、訪れてくる者も病人のみならず、多種多様だった。

 平助の娘で国学者の只野真葛(ただの・まくず)が書いた『むかしばなし』という随筆によると、平助の魅力に引き寄せられるかのように、学問に傾倒する者や蝦夷地から上京してきた者、さらに賭博者までもが、訪ねてきたという。

 そんなある日、平助のもとに田沼意次の用人が訪ねてきた。主人の意次について「富にも禄にも官位にも不足なし」としながら、こんなことを言い出した。

 「この上の願望としては、老中の実績として、永続的に人々の役に立つことを成し遂げておきたい。どんなものがよいだろうか」

 財も地位も申し分ないので、あとはさらなる名誉を、といったところだろうか。これを聞いた平助は「それそれ!  そのことよ!」と前のめりになり、こうぶち上げたという。

 「蝦夷地まで全域の開拓を広げ、国を富まし、そして窮民を救済せよ」

 それこそが田沼老中が永遠に敬慕される大事業となるだろう――。それを聞いた用人は大いに感銘を受けて、「主人に申し上げるがゆえに文章にまとめてほしい」と伝えると、平助はロシアの研究書『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)』を書き上げたという。

 どこまで真実に即した記述なのかはともかく、意次は『赤蝦夷風説考』を受け取ると、内容の検討を勘定奉行の松本秀持に命じた。意次による、蝦夷地の開発プロジェクトの始まりである。

■幕府による蝦夷地支配の障壁は松前藩

 『赤蝦夷風説考』の「赤蝦夷」というのは、カムチャツカ地方の住民のことをいう。

 本書では、ロシア人が東方に進出してきた歴史に触れながら、これから南下してくることを警告。であるならば、幕府が蝦夷地を支配し、いっそのことロシアと交易すべきだと説いた。ロシアが実は日本と交易をしたがっているという情報も、平助はキャッチしていた。

 「蝦夷地を幕府の直轄として金銀銅山を開発し、それを交易にあてれば、ほかの出産物も増し、日本の国力も増すことだろう」

 『赤蝦夷風説考』で、そんな提言までなされれば、意次も「すぐにでも着手せねば」と前のめりになったことだろう。

 だが、当時、蝦夷地の支配は松前藩に任されていた。松前藩から上知(あげち)、つまり、領地を取り上げなければ、幕府の直轄地にできない、という事情があった。

 松前藩が蝦夷地を支配するようになったきっかけは、文禄2(1593)年にまでさかのぼる。3年前に豊臣秀吉が小田原城の北条氏を滅ぼすと、蠣崎氏第5代当主・蠣崎慶広(かきざき・よしひろ)は前田利家らに取りいって、秀吉に謁見。蝦夷地の支配権を認める朱印状を下賜されている。

 その後、徳川幕府を開いた徳川家康からも蝦夷地の支配権を認められると、慶長4(1599)年に蠣崎氏の名を「松前氏」と改めている。以後、松前藩は本州との産物の交易において税を課しながら、アイヌとの交易からも収益を得て、財政基盤を固めていく。

 渡島半島の南部を「和人地」、それ以外を「蝦夷地」と明確に区分しながら、蝦夷地に和人が住むことを制限。また、アイヌ側は松前藩以外の和人と交易ができないように取り決めがなされていたという。

 このまま松前藩に蝦夷地を支配させるわけにはいかない――。意次は平助の献策を受け入れて、蝦夷地の調査に乗り出すことになった。

 天明5(1785)年2月に調査隊は江戸を出発して松前へ。松前から目的地を東蝦夷地とするチームと、西蝦夷地とするチームで分かれた。このとき、東蝦夷地探検隊に加わったのが、江戸時代後期の北方探検家・最上徳内(もがみ・とくない)である。

■蝦夷地調査で知られる最上徳内、はじめは"代わり”だった? 

 最上徳内は宝暦5(1755)年、出羽国村山郡楯岡村(現:山形県村山市)に生まれた。

 幼少期から勉学への関心が高かったが、弟や妹の面倒を見なければならず、独学するほかなかった。塾に通う同年輩から話を聞いたり、書物を読んでもらったりしながら、読み書きと算術を会得してしまったという。

 家業は農業のかたわら、タバコの栽培を営んでおり、徳内も10歳頃からタバコの行商に出かけて、仙台や津軽まで足を伸ばすこともあったという。そんなときも懐には必ず、漢籍や算術の書物を携えていた。

 父が病没すると、当時25歳だった徳内は「江戸に出て身を立てよう」と決意。一周忌を待ってから江戸の地へ飛び込んでいった。

 江戸では、医官・山田宗俊のもとでは医学を、永井正峯の塾では和算を学びながら、生涯の師となる数学者の本多利明(ほんだ・としあき)に入門を果たす。天明4(1784)年、徳内が29歳のときのことである。

 本多利明のもとで腰を落ちつけた徳内は、天文学や測量・航海術などを学んだほか、蝦夷地についても知見を得ることになる。

 なにしろ、師である本多利明は自ら「北蝦斎」と称したほどに、北方の開拓を持論としていたくらいだ。弟子である徳内もまた大いに刺激を受けることとなった。

意次が天明5(1785)年に蝦夷地に探検隊を派遣することを発表したときに、 利明は「幸甚なるかな、このときに逢うことを!」と快哉を叫んだという。探検隊隊員の青島俊蔵と仲が良かったため、自らも参加させてもらえるように願い出て、採用されている。

 だが、出発前に利明は体調を崩してしまう。そこで利明が自身の代わりにと推薦したのが、最上徳内であった。東蝦夷地探検隊の一員として、徳内は大いに張り切ったことだろう。

 こうして始まった幕府による蝦夷地の調査は、最終的に千島、カラフトまでに及ぶなど、大きな成果を上げることになる。だが、天明6(1786)年に10代将軍の家治が亡くなり、11代将軍・家斉の治世となると、意次は罷免。このプロジェクトは打ち切られてしまう。新たに老中となった松平定信は、松前藩に再び蝦夷地の政策を任せる方針を打ち出した。徳内としても無念だったに違いない。

■計9回も蝦夷地に渡り、”随一の蝦夷通”に

 だが、その後も徳内は何度となく、蝦夷の地に入っている。計9回も蝦夷地に渡った随一の蝦夷通として、最上徳内の名は知られていくことになった。

 こうして工藤平助の発案が意次を動かして始まった蝦夷地の調査および開拓は、中断を余儀なくされながらも、徳内をはじめとした後世に引き継がれていく。

 【参考文献】
賀川隆行『崩れゆく鎖国』(集英社)
島谷良吉『最上徳内』(吉川弘文館)
後藤一朗『田沼意次 その虚実』(清水書院)

藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『なにかと人間くさい徳川将軍』(彩図社)

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最終更新:6/15(日) 15:02

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