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医師・作家の鎌田實さんが75歳での今も活躍できるのは“貯金より貯筋”のおかげ? 地方の赤字病院の再生や紛争地での医療支援活動に取り組んできた理由を直撃

3/8 21:21 配信

ダイヤモンド・ザイ

 赤字病院の再生や「地域包括ケア」の実践、紛争地での医療活動などで注目を集める医師・作家の鎌田實さんにインタビュー! 

●累積赤字が4億円近くに上っていた病院を再生!  
地域のニーズと医療体制のミスマッチを解消したことが奏功! 
 ──医師・作家として、多方面で活躍をされていますね。著作も累計100冊を超え、TVやラジオ出演も多い。注目されるきっかけは何だったのでしょうか? 

鎌田 潰れかけの公立病院の経営を立て直したことや、「地域包括ケア」という言葉を使って医療と介護の連携の先駆けを作ったのがきっかけです。長野県を長寿で医療費の安い地域へと導いたことが注目されたんです。1990年頃のことでした。

 ──当時としては画期的な取り組みですね。すごい実績です。

鎌田 僕が院長に就任した時点で、病院の累積赤字は4億円近くに上っていました。公立病院とはいえ、いつ潰れてもおかしくない状況だった。

 赤字の原因は、医療体制が地域のニーズにマッチしていなかったこと。優秀な外科医は揃っているけど、風邪や頭痛などを治してくれる内科医がいなかったのです。そこで内科の先生を増やし、ミスマッチを解消することで黒字化を果たしました。赤字のままでは市町村の議会などが口を出してきますが、黒字経営であれば、何も言われません。

 僕が院長になってからは、一度も赤字にしたことはなかったから、職員がやりたいことをやれる。だから次に、在宅ケアやデイケアなどに取り組むことができたんです。

 ──要介護者を支える仕組みである、デイケアを日本で初めて実践されたんですよね。

鎌田 ええ。長野県茅野市の諏訪中央病院に赴任したのは1974年です。当時の長野県は全国で2番目に脳卒中が多く、なかでも茅野市は脳卒中による死亡率が県内でもっとも高くて、平均寿命も短かった。そこで僕たち医師や看護師は、ボランティアで健康づくり運動を始めました。

 そうやって地域の人たちの暮らしに飛び込んでみると、寝たきりのお年寄りを数多く目にした。奥さんやお嫁さんが1年365日、1人で面倒を見ていたんです。お年寄りを1日預かる「デイケア」をやれば、「1週間に1日だけは介護から解放される」という発想が始まりでした。

 ──そういった新しい取り組みで注目を集めたんですね。

鎌田 メディアに注目され、厚生労働省のモデル事業に指定されると、国からのおカネも入ってきた。経営を立て直したおかげでおカネが、そしてさらにはヒトまでが流れ込む好循環が生まれたわけです。

 ──地方の医療機関は慢性的に医療者不足と言われていますが、先生の病院にはヒトも集まってきたと。

鎌田「面白い取り組みをしている」とマスコミで何度も取り上げられ「自分もそんな医療に携わってみたい」と、若くて志のある先生や医療従事者たちも大勢集まってくれました。そんな仲間たちの努力によって、いつの間にか稼げるようになり、稼いだおカネを使って、より幅広い取り組みができるようになったのです。

 ただし、病院の先生や職員たちに「もっと稼げよ」などと言ったことは一度もありません。赤字の解消は経営責任を持つ院長が引き受けるので、先生や職員たちには、熱意を持って治療やケアに臨んでもらいたかったんです。

●お金のない幼少期~青年期を経て、独立心が育まれた! 
各地を駆け回るためにも、貯金より”貯筋”を重視! 
 ──先生自身は東京のご出身ですよね。長野での医療を志した理由は何ですか? 

鎌田 同じ年の卒業生で、地方を勤務先に選んだのは僕1人でしたね。それに答えるには、まず僕の生い立ちから話したほうがいいかもしれません。僕は、生みの親に捨てられ、貧しい夫婦に拾われて育った人間なので、生まれた後もおカネにはとても苦労したんです。

 ──どんな経緯があったか、教えていただけますか? 

鎌田 生みの親は僕が生まれて間もなく離婚したようですが、戦後すぐの時期だったので、育てる自信がなかったのでしょう。拾ってくれた親にはとても愛されたけど、あまりにも貧しくて、夏休みも冬休みも、どこにも連れていってもらえなかった。

 おカネがなくても行ける図書館で本を読みあさり、「世界を飛び回ってみたい」と夢見たことが、今の自分を形づくったのだと思います。夢をかなえるには、何としても大学に行かなければならない。「学費はアルバイトで稼ぐから」と親を説き伏せ、医学部に進学したわけです。

 ──大変な幼少期から青年期を過ごされたのですね。

鎌田 でも、貧しかったおかげで、「自分のことは自分で何とかする」という覚悟ができたのは幸いでしたね。恵まれた家庭に育っていたら、親に甘えることを覚えていたかもしれません。実際、後で知ったのですが僕の実の父親は、その後、事業に成功して金持ちになったようです。誰にも邪魔されず、自由に生きられるようになったのは、実の親に捨てられたおかげかもしれません。

 ──その独立心が地方病院勤務を選ぶことにつながったんでしょうね。

鎌田 どうせ行くなら、医者がいなくて困っている地域に行きたいと思ったんです。でも、実際に行ってみると、さっきも言ったように病院は潰れる寸前でした。「これじゃいけない」と、院長になってからは赤字を減らすために奮闘しました。子どものころに貧しい思いをしているので、おカネの大切さはよくわかっていたからね。

 ──現在、75歳だそうですが、今でも紛争地域や支援先の国々に足を運ばれるなど、お元気ですね。

鎌田 やりたいことをやるには、何よりも体が丈夫であることが大切です。僕はスキーが大好きで、冬は50日以上も滑っています。いくつまで続くかわからないけど、長く続けるためにも、足腰はしっかり鍛えておきたい。だから、夫婦で定期的にスポーツジムに通っています。

 最近よく言っているのは、「貯金よりも貯筋が大事」だということ。どんなにおカネがあっても、体が動かなければ、やりたいことはできないですからね。90歳になっても自分の足でレストランや日帰り温泉に行ける筋力を蓄えておくことが、僕の目標です。

●意義あることの発信が人の心を大きく動かすことを実感! 
この先も死ぬまで”面白いこと”に携わっていく
 ──それでも、貯金はしていらっしゃるんですよね。

鎌田 もちろん(笑)。56歳で病院の院長を辞め、今は雑誌連載や本の執筆、講演活動で生計を立てていますが、連載記事は13本あるし、本も年間10冊程度は出しています。おかげでスキーをしたり、おいしいものを食べたりするおカネには困らないし、ある程度は貯まってもいますよ。

 でも、支援活動に身銭を切っているので、そんなにおカネを持っているわけじゃない。そもそも、死ぬときには貯金をゼロにしたいと思っているんです。

 ──そうなんですか? 

鎌田 墓場までおカネを持っていくわけにはいきませんからね。だから、面白く生きるため、死ぬ間際までに上手に使い切ってしまいたい。人間誰しも、生まれたときには“無一文”で産声を上げるわけです。その意味では「ゼロからゼロへ」と、原点に戻るようなものですよ。

 ──だから、鎌田先生は紛争地域や途上国の医療支援にも積極的なんですね。

鎌田 僕の行動原則は非常にシンプルで、とにかく「面白いこと」をやりたい。もちろん、何かをやるためにはおカネが要ります。

 たとえば僕は、チェルノブイリ原発事故で放射能に汚染された地域の医療を支援するJCFや、小児がんや白血病で苦しむイラクの子どもたちなどを救うJIM-NETといった医療支援団体を立ち上げたけれど、新しい活動を始めるときには、自分のおカネを出すことが多い。

 自分が「面白い」と思うことに身銭を切り、汗を流す。それをネットで発信すると、本気度や活動の意義に共感して、手を差し伸べてくださる方々が増える。

 ──一般の方々による支援の輪も広がっているようですね。

鎌田 実は昨年、福島県のある女性の方から、諏訪中央病院に7000万円もの寄附をいただきました。この方は緑内障を患って亡くなられたのですが、生前、僕のラジオ番組をご愛聴いただいていたようです。

 僕が若い先生たちと一緒に奮闘している話を聞いていたので「温かい先生たちを育ててくれてありがとう。先生が育てたお医者さんが、いつか福島にも来てもらえるように」と言葉を添えて、遺産を寄附してくださったのです。

 いつ願いがかなうのかわからないのに、異なる地域の病院のために大金を送ってくださったのです。意義のあることをやって発信することが、人の心をいかに動かすのかということを思い知らされましたね。

 ──鎌田先生がライフワークにされている支援団体も、多くの人々の善意で支えられていると、うかがっています。

鎌田 おかげさまで、JCFとJIM‐NETには、合わせて毎年2億円近い寄附をいただいています。金銭的な支援だけでなく、募金活動への参加など、さまざまな形でサポートしていただけるのがありがたいですね。そうした支えになってくださる方々との出会いや、一緒に活動する経験は、僕にとっておカネ以上に大切な財産です。

 ──支援活動のどのような点に「面白さ」を感じるのでしょうか? 

鎌田 自分の人生を振り返ってみると、いろんな人の助けがあったからこそ今まで生きてこられたと思う。その恩返しをできることが「嬉しさ」であり、「面白さ」なんでしょうね。

 僕は死ぬまで「面白いこと」にかかわっていくつもりです。昨年、JCFとJIM‐NETの代表職を若手に委ね、顧問となりましたが、要望があればいつでも力を貸すつもりです。むしろ、頼まれることが嬉しくて仕方ない。まだまだ、貯金を「ゼロ」にはできませんね(笑)。

ダイヤモンド・ザイ

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最終更新:3/8(金) 21:21

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