なぜ若者は怒られると過剰に反応してしまうのか 上司にとって「怒らない=最適解」になる病理

5/15 4:51 配信

東洋経済オンライン

過酷な労働環境を生み出す企業に対して、ブラック企業という言葉が使われ始めて久しい。しかし、近年は脱ブラック化が進んでおり、労働時間の減少や主観的な仕事の負荷感の軽減も確認されている。加えて、脱ブラック化の1つの象徴として「職場で怒られない」若者の割合が急増していることが挙げられる。
企業組織を研究する東京大学の舟津昌平氏は、経営学における「組織人格」という概念を用いて、なぜ若者たちを怒れなくなったのかを指摘し、怒られない職場では2つの問題が生じると述べる。

本記事では、舟津氏の著書『Z世代化する社会』より一部抜粋・再構成のうえ、怒られない職場の病理を明らかにする。

■「怒られない若者たち」の裏にある事情

 当たり前だが怒る(怒られる)というのは古今東西世にあふれる普遍的な現象だ。そして誰しも、怒られるのはイヤだ。だが現代の若者は、怒られなくなっている。リクルートワークス研究所の調査によると、「新入社員期に上司・先輩から一度も叱責されなかった」割合は、約20年で9.6%から25.2%まで上昇している。

 なぜだろうか。普通に考えたら、優等生は怒られないし、悪ガキは怒られる。世の若者は良いヤツばっかになったのだろうか。

 違う。明らかに、オトナが怒らなくなったのだ。つまり怒られなくなったのはZ世代のせいではなく、オトナの事情なのである。

 怒るということが社会規範として否定されつつある、という流れは見逃せない。アンガーマネジメントという概念が流行るように、怒る人はそもそも間違っていて、なんかの病気かもしれなくて、人前で怒ること自体が恥ずかしいし避けられるべきだ、という志向がますます定着している。

 これは、怒ることには教育効果がないから止めようというより、怒ること自体を絶対的に否定する時代の流れである。

 よく出るのが、怒るのではなく叱るべきだ、みたいな話。アンガーマネジメントの講習でも、頭ごなしに感情に任せて怒るのでなく、相手を否定せず改善点を丁寧に伝え同意を確かめながら諭す、これが叱るである、みたいなのはよく聞く。言いたいことはわかるけども、暴論を承知で、そんなのは言葉をいじっただけの唯言の産物であり、実践的にはほとんど意味を持たない。

 実際、現場はもっとシビアに振り切っている。「怒るということ」について雑談していたところ、とある大企業の管理職の方が言い放った。

 「いやもうね、怒ると叱るとは違うとか、もはやそういう問題じゃないんだよね。会社の研修でも、もう絶対怒らないでください、叱るとか諭すとか関係なく、それに類すると思われるようなことは一切止めてください、って言われるよ」

 一度も怒られたことのない割合が近年急増している一因は、管理職研修にもあるだろう。怒る/叱る問題は、実は怒る側の方便にもなってしまう。ハラスメントに類する問題が浮上したとき「怒ったんじゃなくて叱ったんだ」という唯言的な言い訳を許してしまうことにもつながる。だから「疑わしきは禁止せよ」で、一切怒るな、と指導されるそうなのだ。

■上司は「会社の代理人」として振る舞っている

 みんな上司をやり玉に挙げるのだけど、見過ごされている事実がある。上司は会社の代理人として振る舞っているにすぎないという点だ。チェスター・バーナードという著名な経営学者は「組織人格」という概念を提唱している。組織における人格が、個人の人格とは別に存在するというのだ。

 多くの上司は、個人的にどう思うかにかかわらず、会社に命じられて、怒るかどうかを決めている。個人的にはどうでもいいけど組織人として対処することもあるし、個人的には注意すべきだと思ったけど組織人としてスルーした、ということも起きうる。

 ちなみに、いわゆる大企業ほどこの傾向は強まるだろう。大企業ほど管理職向けには丁寧に研修をするし(一般論としては、研修など社員教育にリソースを割く企業はよい企業である)、コンプライアンスを気にして強い統制を行っている。

 つまり結論としてはにべもないものだけども、会社として揉め事にならないように怒らなくなった、というだけといえばだけなのだ。ところがこうした構造は、上司側からは当然見えているだろうけども、当の若者はそんなことは知るよしもない。

■「怒るなんてありえない」という観念の広まり

 最近の若者を見ていると、冗談ではなく、怒った人を見たことがないのではないかと思うことがある。怒るのは教育として間違いだという観念が浸透し、ご家庭の方針として怒らないと決めているケースもあるだろう。先生や上司はさらに(組織の事情で)怒らなくなっている。

 この経験のなさは危険でもある。「怒り」への免疫がなさすぎるからだ。いくら間違ってるとか悪だとかラベリングしたところで、喜怒哀楽というように「怒」は人間のきわめて基本的な感情である。怒る・怒られることから逃れて生きることは珍しいし難しい。

 怒りを排除した教育は、車の一切通らない道で交通マナーを学ぶようなものだ。実際の道路には車がバンバン通るし、車は重大な交通事故の主要因なわけだから、車を排除して交通マナーを学んでも、実践的意味は薄い。

 結果として、驚きあきれるようなことが、教育現場では起きがちだ。ちょっと怒るとこの世の終わりみたいな顔をする学生は、けっこういる。めちゃくちゃ楽しそうに笑顔でおしゃべりしていて、うるさいよ静かにして、と言うと一瞬でこの世の終わりのようなツラに変わる。

 この人ら、私語をしたら怒られるって知らないのか?  って思ったりする。たぶん知らないのだ、怒られてこなかったから。怒ることを、オトナが放棄してきたから。私語をする若者に怒ると、逆にオトナが怒られる。若者が萎縮してしまったらどうする。トラウマになったらどうする。前向きにしゃべっているだけだ。自分で考えて更生する機会を奪うのか。お前が不機嫌なだけではないのか……。

 何の中身もない言葉で怒りを排除してきたのは若者ではなく、オトナである。

 このような背景を経て、怒られたときの若者のリアクションは2パターンある。まずはこの世の終わりのような顔をする。次に、徹底して「自分が悪くて怒られたわけではない」と抗弁するパターンである。言葉は悪いが、怒った学生から粘着質に絡まれることは、教育現場では珍しくない。

 たとえば、授業アンケートで私語への苦情があったので、私語は止めてねって怒ると、怒られた学生からこういう反応が来る。

 「授業アンケートへの返答は時間がもったいないので止めてほしい」

 「私たちは授業を受けに来ているので、苦情対応のために来ているのではない」

 自分たちが怒られたという事実からは論点をそらしつつ、怒られる背景となった要因(たとえばアンケートへの返答)について苦情を述べる。「私たち怒られましたけど、あれ、私たちは悪くないんですよ。あなたの授業の構造の問題なんです」と言いたいかのようだ。

 なんでここまでしつこく絡むのだろう。なんでそんなに怒られたくないのだろう。よほど自意識が強いのだろうか。たぶん違う。怒るというのはありえないことで、だから怒られるのはよほど恥ずかしいことをした証明だ、と教わってきたからだ。

 怒ることを世の中から排除した結果、よっぽどのことをしないと怒られないので、怒られるヤツというのは相当恥ずかしい、ヤバいヤツだということになる。こう認識した結果、怒られるお前は最低だ、社会の底辺だ、みたいに感じてしまうのだろう。とんでもない勘違いである。私語に怒っている先生は別に個人の人格を攻撃しているわけでもないし、それは取り返しのつかない失敗でもなんでもない。

 怒りという基本的感情を排除した余波は、こんな意外なところにも及んでいるのだ。

■いい感じに怒ってほしい

 ただし、ほとんどの若者は必ずしも怒る・怒られること自体を否定してはいない(怒ることを忌避して排除しているのはオトナである)。怒られることに異常ともいえる反応を示すのも、ごく一部である(が、たしかに存在しているし、増えていくだろう)。

 実際、学生に「自分が部下だとして、遅刻してしまったら怒られるべきだと思いますか?」と訊いても、案外「怒られるのが当然」と言う人は少なくない。ざっくり半数くらいは、まあそれは怒られるべきじゃないの、と思っている。

 理由として多いのは「怒られないのは逆に、見捨てられているような気がする」という意見だ。怒ることを正当化するわけじゃないけど、愛情ゆえの怒りというものも当然存在する。若者は過度なくらい感情の世界で生きていて、だからこそ愛してほしいのだ。

 ただまあ、ちょっと都合が良い。「メンタルにくるようなのは止めてほしい」「諭すように怒ってほしい」「頭ごなしに……」「感情的に……」。非常に細かい注文がつく。お金払ってるお客さんにだったら細かいニーズでも応えようとするのだけど、相手は部下だ。お金もらうんじゃなくて払っている相手だ。

 一番選ばれやすい答えはきっと、こうだ。

 「めんどくさいから怒らないで、放っておく」だ。

■怒られない社会の病理

 2023年の11月に元プロ野球選手のイチローさんが、高校生らに向けて話す動画が話題になった。北海道の旭川東高校野球部に招待され色々話をする中で、次のようにグラウンドで語りかける(書き起こし・句読点は著者加筆)。

 「指導者がね、監督・コーチ、どこ行ってもそうなんだけど、厳しくできないって。厳しくできないんですよ。時代がそうなっちゃっているから。導いてくれる人がいないと、楽な方に行くでしょ。自分に甘えが出て、結局苦労するのは自分。厳しくできる人間と自分に甘い人間、どんどん差が出てくるよ。できるだけ自分を律して厳しくする」

 いいことおっしゃる。本当に、現代にこそ必要な至言だ。大学でも職場でも、厳しくすることがほんとにできなくなっている。オトナは若者を怒らないし、怒れなくなっている。結果的に若者の機会を少なからず奪っているとすら思うけど、でもこの流れは止められない。それが「時代」なのだ。

 時代って何なのか誰もよくわかってないけど、そうなっていったらもう抗えない、あまりに強い濁流。この令和の新しい時代に、若者はとても「むごい教育」を、残酷なことをされているのかもしれない。

 怒られない社会・怒られない職場の病理は2つある。まず、若者の免疫があまりにも弱体化して、かえって怒(られ)ることを過大視しすぎてしまっていること。私語を注意するなんて何の気なしにされるようなことなのに、された方が人格否定のように、取り返しのつかない過ちを犯したかのように感じてしまう。

 もう1つは、怒ることをネガティブに捉えすぎるがゆえに、もし若者が怒ってほしい・怒られるべきだと思っているときでさえも、上司は怒らないことを選択してしまうという問題である。それはもはや上司個人の問題ではなく、社会や組織の力学がもたらした「最適解」なのだ。

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最終更新:5/15(水) 4:51

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