度肝を抜かれた「小学校の怪授業」から得た人生の教訓 なぜ人は文章を書くのか、なぜうまく書けないのか

5/1 16:02 配信

東洋経済オンライン

 文章を書いていて、通りが悪かったり、支離滅裂だったり、意味不明になったりすることはないでしょうか。これはだめだな、と途中で書くのをやめてしまうこともあります。そういうとき、人は自分に文章力がないから上手く書けないと感じたりします。けれどもそうではないと、テキストサイト「Numeri」管理人・ライターのpato(ぱと)さんは言います。

3月末に上梓した『文章で伝えるときいちばん大切なものは、感情である。 読みたくなる文章の書き方29の掟』の原稿を執筆しながらpato(ぱと)さんが思い出した、奇妙な授業とは?  そしてその授業を通して教師が伝えたかったことと「文章を書くこと」の驚きの関連性とは――。

■迷い込んだ野良犬より、もっと重大な“なにか”

 いまでも印象に残っている授業がある。

 小学校高学年の時だった。少しだけ強い風が吹いてグラウンドに砂煙が舞ったのが見えた。それと同時に野良犬が入り込んできたみたいで、「犬が来たぞ!」という大声とワッと盛り上がる隣のクラスの歓声が聞こえた。

 なぜか知らないけどグラウンドに野良犬が迷い込むイベントは定期的に発生していて、そのたびに異常な盛り上がりを見せていた。まるでヒーローが降臨したかのような熱狂が始まる。各クラスの歓声に気を良くしたのかどうかは分からないけど、野良犬はさらに発奮し、縦横無尽にグラウンドを駆け巡る。そしてまた皆のボルテージが高まりオーディエンスの熱狂がひとつになるのだ。

 けれども、我がクラスだけは歓声ひとつ上げなかった。というか、窓際のいちばん後ろに座っていた僕を除いて、ほぼ全員がその野良犬の存在にすら気付いていないようだった。そう、いまこの教室では迷い込んだ野良犬より、もっと重大な“なにか”が起こっていたのだ。

 我々のクラスの担任は怖かった。とにかく怖い教師だった。当時は現代では考えられないほど体罰などの暴力的な指導が色濃く残っている時代で、担任となったその先生はかなり暴力的な教師だった。

 暴力支配というと言い過ぎかもしれないが、その教師は明らかに「恐怖」というエッセンスで児童を支配しようとする狙いがあった。一度も笑顔を見せないし、僕らがルールを守れなかったり忘れ物をしたりすると容赦なく鉄拳制裁が飛んできた。

 それまでは自由奔放に日々を過ごしていて学校とは楽しいものだった。それが急に恐怖の対象となったのだ。その担任はいつもウロコみたいな模様がサイドに入ったジャージを着ていて、多くの児童がそのウロコ模様を見るだけで震え上がってしまうほどだった。

■算数の時間に国語の教科書を朗読する担任

 さて、このように担任が怖いから野良犬イベントに熱狂しなかったわけではない。やはりこのイベントは別格なので担任が怖かろうが怒られようが盛り上がるものだった。ただ、そのときだけは違った。明らかに教室の雰囲気がおかしかったのだ。

 時間割によると、その時間は算数の時間だった。ウロコのようなジャージを身に纏った恐怖の担任もデカい三角定規を持ってきていたので、やはり算数の時間だったと思う。けれども、担任は平然と国語の教科書を朗読し始めたのだ。

 僕らは狼狽した。やばい俺たちが間違えたんだと国語の教科書を出そうとしたけれども、そもそも、今日は国語の時間が設定されていなかった。だから誰も国語の教科書を準備できなかった。すべての教科書を置いて帰っているワンパクグループの男子だけが満面の笑みで教科書を取り出していた。

 狼狽する多くの児童を他所に、担任教師の朗読が続く。時には黒板にオオサンショウウオのイラストを描いて理解を促すなど熱のこもった授業だった。ただ、やはりなんど時間割表を見てもこの時間は算数の時間なのだ。

 児童たちは少しだけざわついたけれども、すぐに静かになっていた。先生が間違えるはずがないので、おそらく僕らが時間割変更を聞き漏らしていたのだろう、そんな雰囲気が蔓延していた。

 そうなると事態はロシアンルーレットの様相を呈してくる。普段は先生がしばらく朗読を続け、区切りがつくと、誰かが指名され続きを読むように言われるのだ。そこで「教科書を忘れました」となると鉄拳制裁となるわけだ。そしていまはほとんどの児童が教科書を持たない状態なので、指名される=死なのである。

 いつ指名が飛んでくるか、だれがその餌食になるのか、明らかに教室の空気が張り詰めていた。明らかに僕らはいま大きな危機に直面している。野良犬がグラウンドに入ってきた程度で盛り上がれる他のクラスの連中があまりに平和ボケしているように思えたし、幼稚に感じた。

 段落が切れるたびに緊張が走る。多くの場合、今日は10日か、じゃあ10番、と当てられる。ということは10番のヤツが桁違いに危ない。出席番号10番ってだれだっけと思ったら僕だった。明らかにいまこの教室でもっとも死に近いのが僕だった。

 しかしながら、そういった予想に反して担任は朗読をやめなかった。延々と朗読を続けていて、それもまた怖かった。算数だと思ったら国語だった。終わらない朗読。なんだかいつもと違う恐ろしさみたいなものがあった。

■先生が狂った? 

 淡々と続く恐怖の朗読を聞きながら、僕はさらに恐ろしい事実に気が付いた。ほとんどの児童が教科書を持っていなかったので疑問にも思わなかっただろうけど、たまたま僕は暇すぎて死にそうなときに娯楽として教科書を読むことがあったので、その話を何度か読んだことがあって気付いたのだ。

 漢字の読み方が間違っているのだ。ところどころ変な読み方をするし、主人公の名前すら間違って呼んでいた。

 最初はその話を知っている僕と、すべての教科書を学校に常設しているワンパク小僧だけが気が付いていたけど、先生の朗読は次第に文法すらおかしくなっていき、最終的には支離滅裂になっていった。さすがにそうなると多くの児童がその異様さに気付いていた。

 「先生が狂ったんじゃ」

 なんだか漠然とそう思った。そして怖いと思った。ここまでくるとさすがに教室がざわつき始める。そして僕は、さらに恐ろしいことに気が付いた。

 先生のトレードマークともいえるウロコジャージ、明らかにそれの前後が逆なのだ。

 間違いない。あのちょっと気味悪いウロコみたいな模様が前後逆に広がっている。科目や読み方の間違いどころか、ジャージまで間違っている。

 「もしかしてこの先生は偽物なんじゃ?」

 姿形だけ先生に近づけているけど、中身がまったく異なる“なにか”ではないか。そう考えるとさらに恐怖が増した。いつもの教室で感じる圧政の恐怖とは種類が異なる恐怖があった。

 「テイレシテンクルサ」

 担任の朗読は完全に支離滅裂になっていて宇宙人の言葉のようだ。そこでいよいよ、たまりかねた一人の児童が声を上げた。

 「先生、間違ってます」

 その言葉に朗読が止まる。そして静寂。得体のしれない緊張感みたいなものが教室を満たしていた。

 「なにが?」

 本物の先生かも疑わしい存在は、いつのまにか支離滅裂な言語から普通の日本語に戻って答えた。

 「ぜんぶです」

 かなりの勇気が必要だっただろう。その児童は少し震えた声でそう答えた。

 すべて間違っていると指摘された担任はさぞかし怒り狂うだろうと思われた。けれども、予想に反して、彼はただニカッと僕らには見せたことのないような笑顔を見せただけだった。

■思い出されるあの日の授業

 この原稿を執筆しながら、あの日の緊張した教室のことを思い出していた。担任の先生が異世界の言葉を話し始めたときは本当にただただ恐怖でしかなかった。なぜか、執筆を進めるとあの日の授業ばかりが思い出されるのだ。

 なぜあの日の記憶ばかりが蘇るのか不思議で仕方がなかった。なぜなら、あの日の記憶と、執筆内容には一見するとほとんど関係がないからだ。

 執筆していた原稿は、よく伝わる文章の書き方といったところから、なぜ伝えなきゃならないのか、なぜ文章を書かねばならないのか、そんな根源的な部分に差し掛かっていた。22年間もインターネットで文章を書いてきた僕が文章に対して主張したいなにかを書き殴っていた。

 それと同時に、またあの日の担任の言葉が思い出された。

 すべてが間違っていると指摘された担任は、これまで見せたことのない笑顔を見せてこう言った。

 「今日の先生はすべてを間違えました。算数は国語になったし、漢字の読み方も違います。言葉も間違えました。あとジャージを着る方向も間違えています。ぜんぶ間違えました」

 一呼吸おいて続ける。

 「先生が間違わないと思ったら大間違いです。先生も間違えます」

 そういった時代だったとはいえ、体罰も辞さず恐怖で支配していた先生は絶対的な存在だった。そんな先生が間違えるはずがないと思っていた。現に、算数の時間なのに国語の朗読を始める先生を見て、僕たちは自分たちが時間割変更を聞き漏らしたに違いないと考えていたのだ。間違えるのは僕たちであり、大人であり、先生であり、恐怖の対象である担任が間違えるとは思っていなかったのだ。だから僕らはそれを指摘できなかった。

 「絶対に間違えるはずがない人が間違えたとき、それを指摘するのは難しいです」

 むしろ、わかりやすいように支離滅裂に間違えて謎言語を発してくれたからこそ勇気のある児童が声を上げることができた。ただ算数と国語を間違えた程度だったら誰も指摘できなかったと思う。先生は間違えないからだ。

■先生より間違いを指摘するのが難しい存在

 「でも、それ以上に間違いを指摘するのが難しい存在がいます」

 先生の言葉にまた教室がざわついた。この恐怖の担任より指摘しにくい相手がいるのか。にわかには信じられない言説だった。

 そして先生が指摘したその対象は意外な人物だった。

 「それは自分です」

 僕たちは未熟だ。小学生なのだから当たり前だ。僕らはそれを心のどこかで分かっていて、大人は正しく、自分たちは間違っていると理解できる部分がある。大人は間違えないという信頼だってある。けれども、自分が大人になったとき、様々な経験を経て得た意見や思考や行動、それらを間違っていると感じることはなかなか難しい。大人になって自分は間違っていると指摘することは怖い人に指摘する以上に勇気が必要だ。

 そう主張した先生だったが、はっきり言って僕らはピンときていなかった。

 あれからかなりの年月が経った。なぜかこうして著書の原稿を書いて、やっとあの日の先生の言葉の意味がわかったような気がする。

■自分の間違いを自覚できる機会が減った

 そう、自分は間違っているのだ。自分は正しくないのだ。それを普段から意識することはとにかく難しい。人はどこかで自分の正しさを自覚しないと真っ当には生きていけないからだ。けれども、概ね人は間違っている。では、どこでそれを自覚するのか。するべきなのか。それは本来、文章を書くときに起こるべきなのだ。

 文章を書いていて、どうしても通りが悪かったり、支離滅裂だったり、なんか意味不明になったりする。これはだめだな、と途中で書くのをやめてしまうこともある。そういうとき、人は自分に文章力がないから上手く書けないと感じたりする。けれどもそうではないのだ。

 それらは文章力がまずいわけではない。ただ、自分が間違っているのだ。だからどう書いてもしっくりいかないなんて現象が起こる。

 著書の執筆において、何度もこれはおかしい、これは間違っていると書き直しをし、最初に主張したかった内容とまったく異なるものができあがってしまった。書く前と書いた後で、特に文章に関する考え方が大きく変わったように思う。

 文章を書きながら、それらの間違いを自覚し自分の考えをブラッシュアップしていく、文章にはそんな力があると思う。文章とは他人に影響を与えるものではない。自分自身に影響を与えるものだ。

 インターネットの発達により、文章を書く機会が増えた。けれどもその反面、自分の間違いを自覚できる機会は減ってきた。

 日々、SNSで交わされる議論という名の“なにか”は、自分の間違いを認めたら負けという暗黙のルールができあがってしまった。相手の意見を受けて自分の意見を変えたら負け、自分の意見を変えずに相手を論破したら勝ちというルール、けれども、本来は意見をぶつけることによってお互いが意見を変えて妥協点を探る、そういった議論だってあるんじゃないだろうか。むしろ本来はそのために行われるものではないだろうか。

 人はなぜ文章を書くのだろう。

 この原稿だってそうだ。そして、執筆していた著書の原稿もそうだ。何度も何度も上手く書けず、その度に「自分は間違っているな」と自覚する。なんとか自分なりに考えをブラッシュアップする。文章を書くことで初めて自分の考えが可視化され、おかしさに気が付く。そこでなんとか、世に出してもあまりおかしくないように自身の考えをブラッシュアップする。そのために僕は文章を書いているのだ。

■間違っているから、文章を書く

 僕は間違っているから、少しでもおかしくないように文章を書く。

 この年齢になって、自分の著書の原稿を書くときになってやっとあの日の先生の授業の意味がわかったような気がする。自分の間違いを自覚することも指摘することもなかなか難しく勇気がいることだ。

 あの日、グラウンドに迷い込み、学校を沸かせていた野良犬。その野良犬たちは必ずグラウンド端にあった野球クラブの用具に小便をひっかけて立ち去っていた。たぶん用具から犬の縄張り的な臭いがしていたんだと思う。

 そうなると野球クラブの監督が怒り狂ってバットを持って追いかけてくる。そこがいちばん盛り上がるシーンなのだけど、どうやら野良犬は学習したようで、その日、野球クラブの用具には小便をしなかった。たぶんきっと、野良犬も野球用具に小便をするのってどうなのよと自分の間違いに気づいたのだろう。文章を書かなくてもそうやって自分の間違いに気付けるのだから、犬ってやつはたいしたものだ。

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最終更新:5/1(水) 16:02

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