「医師の定員増」に韓国の医師が強く反発するワケ

3/29 6:32 配信

東洋経済オンライン

 韓国で、医師たちが職務を投げ出して病院から姿を消す動きが止まらない。手術は次々と延期され、救急医療の担当医がいなくなったために病院をたらい回しにされた高齢者が命を落としたという痛ましいニュースまで伝えられている。

 それでも、大勢の医師が白衣を着直すのを拒む。この明らかに異常な状況については、韓国のみならず日本や欧米メディアも驚きをもって伝えている。

■世界を驚かせた職場放棄の波

 これまでの展開をざっと振り返ると、まず2024年に入って尹錫悦政権が大学医学部の総定員を増やす方向だと伝えられると、これに反対する医師たちの抗議活動が起き始めた。しかし政権側は、2月6日に医学部の総定員を現在の3058人から2000人増やし、5058人にする方針を発表した。

 これに医師たちが猛反発、職場放棄も辞さない強硬姿勢を打ち出した。実際にストの先陣を切ったのは研修医たちだ。2月半ばから各地の病院で出勤を拒む研修医たちが出るようになり、同月下旬にはその数が9000人にも膨れ上がった。

 それでも政権側が医学部の定員拡大という方針を崩さないと、職場放棄の波は医師たちにも広がり、そして3月25日には医学部教授たちが一斉行動で辞表提出……とエスカレートしてきた。

 教授たちの場合、正確な辞職の数を把握するのは難しいものの、例えば韓国中部・忠清南道天安市にある大学病院では、勤務する233人の教授のうち93人が辞表を出したというので、やはり尋常ではない。

 尹政権は医療界(大韓医師協会や全国医科大学教授協議会など)と話し合いを重ねてはいるが、「2000人増員」という看板を下ろす考えはないとしており、医師たちと真っ向から対立したままだ。病人やけが人がいわば人質となったような形で政権と医療界のチキンレースが続いている。

■都市部と「ピ・アン・ソン」に医師が集中

 尹政権が医学部の定員拡大を掲げたのは、韓国の医師不足、とりわけ地方での医師不足に対応するためだと説明している。確かに、2021年のデータで人口1000人あたりの医師の人数は2.6人で、OECD(経済協力開発機構)加盟国の平均3.7人をだいぶ下回り、加盟国の中で下から3番目となっている。

 韓国全体で医師が少ないところに、大きなアンバランスも加わり、状況を悪化させている。それは、医師たちが、①都市部と、②皮膚科・眼科・整形外科に偏っていて、地方の医療機関での勤務医や、救急医療・産婦人科・小児科といった緊急性の高い部門を志願する医師が大きく不足するようになっているのだ。

 ① でいうと、実は首都ソウルの人口1000人あたりの医師は3.9人でOECD平均を上回っている。しかし、これが例えば忠清北道になると1000人あたりの医師は1.9人。地域間で大きな格差が露呈する。

 ② は、「皮・眼・整」のハングル表記をとって「ピ・アン・ソン/피안성」という呼び方があると今回知ったのだが、要するに、その3つの科の医師になれば高収入が得られるので人気が高いというわけだ。眼科はともかく、皮膚科と整形外科が儲かるのは、外見を大事にする現代の韓国ならではといえる。

 こうした現状で手をこまねいていては地方の医療が破綻する公算が大なので、尹政権としては医師の数を増やすことが必要だと主張する。それは、定員拡大の2000人分を地域別に振り分ける計画にも表れている。

 ソウルにある医学部は、定員増加なし。ソウルに近い京畿道と仁川市は合計361人。残る1639人(全体の80%強)はそれ以外の地方大学が対象となる。つまり、地方の医学生を増やすことが地方での勤務医増加につながることを期待しているというわけだ。

 世論調査を見ると、概ね7割くらいの人が現時点では政府の方針を支持している。医師の不足は数字で示されており、地方在住者はソウルや釜山などとの医療格差を実感することが珍しくないのであろう。

 それに対して、医学部の定員拡大に強硬に反対して職場を放棄した医師や教授たちへの共感が広がらないのは、「医師が増える→競争が激しくなる→収入が減る」という展開を避けたいだけだろうと、冷ややかに見られているためだ。

 実際、各種の統計で、医師の収入水準が韓国では最も高いという結果が出ている。例えば、OECDの調査で韓国の開業医の収入は労働者の平均の6.8倍で、これは加盟国で最大の格差。病院の勤務医でも平均の4.4倍とのこと。開業医がとりわけ高収入なのは、やはり「ピ・アン・ソン」が多いためであろう。

■「問題は医療行政」と医師側は反論

 これに対して、医師の側は「そのような利己的な話ではない」と声高に反論する。地方医療機関や緊急性の高い科で医師が不足しているのは、現行の国民健康保険での診療では小児科医などの報酬が少ないという制度面の問題があるため、皮膚科や整形外科などに医師が偏ってしまうのだと主張。見直すべきは医学部の定員ではなく、医療行政だとして、尹政権を糾弾している。

 また、急に2000人も医学部生が増えても、教える側の教授らがすぐに増えるわけではないので、指導の質が落ちるとも話す。確かに、定員を拡大した結果として腕の悪い医師が増えてしまうようでは困る。

 そして、医師たちが最も憤慨しているように映るのは、尹錫悦政権がこの2月というタイミングで医学部の定員拡大を掲げたことだ。

 これは、4月10日投開票の総選挙を意識した人気取りであり、自分たち医師が政治の打算に利用されるのは許せない、と反発する。実際、この問題が広がって尹政権の支持率はアップした。

 尹政権は、そうした政治的な計算を否定するが、額面通りに受け止めるのは難しい。選挙が近づいたら国民にウケのいい政策を打ち出すのは、どこの国でもある。

 そうした動きが「国民のため」なのか「票欲しさのポピュリズム」なのかは、有権者が判断すべきこと。医師の側はポピュリズムだと声を荒げているわけだが、あまり響いていない。

 一方で、医師側の「選挙目当て」という主張が(事実だとしても)説得力に欠けるのは、前の文在寅政権も医学部の定員を拡大しようとしたものの、医師たちがやはりストを構えて断念させたという経緯があるためだ。

 しかも、文政権時の攻防はコロナ禍の最中。パンデミックにもかかわらず、職場を放棄するとぶち上げたのだ。「選挙が近いから定員拡大は許されない」と言っても、ではいつならいいのだ?  となってしまう。

 こうした情勢を踏まえて、尹政権は強気の構えを崩していない。職場放棄の先陣を切った研修医たちに対しては、「病院に戻らなければ医師免許を停止する」と警告し、警察は医療法違反などの疑いで告発された大韓医師協会の事務所などを家宅捜索した。ストを打ち切るよう圧力を強める一手であろう。

■強気の構えを崩さない尹政権

 そして、医学部の「定員2000人増」を撤回する考えもないと繰り返し表明している。

 一方、医療現場の混乱が総選挙の投票日まで続くようでは、逆に政権への逆風が吹く可能性もある。このチキンレースは政権側にとっても危険だ。

 ただ、尹錫悦大統領はもともと政治的な計算よりも保守派のイデオロギーを重視しているように思える。

 徴用工訴訟をめぐる日本との対立も、野党やメディアからどう叩かれようと日本に譲歩する解決策を打ち出したこと1つをとっても、「支持率よりも日本そしてアメリカとの関係を固めて北朝鮮への圧力強化」という保守派スタンス全開の結果だ。

 また、歴代の保守派政権と同様、労働組合や今回のような「組合的な動き」は力で抑える傾向が強い。尹大統領は就任1年目に韓国で最も戦闘的な組合として名を轟かせる民主労総と全面対決し、運送業界の組合のストを北朝鮮の核開発に例えるような発言をして物議を醸した。

 尹大統領に対する批判としてよく聞くのが、進歩派の人たちを北朝鮮に盲目的に従う「従北派」とみなして国民の分断を煽っている、ということ。今回の医療界との対立でも北朝鮮を引き合いに出すことを述べれば、その影響はどう転ぶかわからない。

 このように、韓国中の病院から医師たちが消えている背景には医学部定員「2000人増」をめぐる立場の鮮明な違いがあるわけだが、その「2000人」には早くも熱い視線が注がれている。

■それでも消えない「わが子は医学部に」

 2024年3月22日付の全国紙『ハンギョレ』によれば、尹政権が「2000人」の大部分を地方大学に割り当てようとしていると知り、小学生の親から学習塾に「今のうちから子どもを地方に『留学』させたほうがいいでしょうか」という問い合わせが相次いでいるとのことだ。

 あまりに気が早いのでは、と笑ってしまったが、医師たちの職場放棄を「無責任だ」と批判しつつ、わが子は医師にしたい親がいかに多いかを物語っている。「医学部信仰」とでもいえる風潮だが、これは日本でも見られる。そういう観点からも、韓国で続く医療現場の混乱をウォッチする価値はありそうだ。

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最終更新:3/29(金) 6:32

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