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死を覚悟した伊達政宗、豊臣秀吉との面会で見せた「あざとかわいい」驚愕の行動の中身 直木賞作家が推理する秀吉との知られざる関係

3/24 9:02 配信

東洋経済オンライン

奥州の武将で「独眼竜」としても知られる伊達政宗は、「10年、20年早く生まれていたら、天下を統一できていたかもしれない」と言われるほどの実力者で、天下人となった豊臣秀吉も一目を置いていました。では、政宗と秀吉はどのような関係だったのでしょうか。直木賞作家の今村翔吾氏が解説します。
※本稿は今村氏の新著『戦国武将を推理する』から一部抜粋・再構成したものです。

■22歳で南奥州の覇者に君臨した伊達政宗

 天正17年(1589)6月、伊達政宗は磐梯山麓(福島)の摺上原(すりあげはら)の戦いで宿敵、蘆名義広(あしなよしひろ)を破り、その勢いで蘆名氏の本拠である黒川城に入城します。佐竹方だった石川昭光や岩城常隆らが政宗に服属し、政宗は伊達氏の最大版図を築きました。

 このとき、政宗は満年齢で22歳。現代であれば大学4年生の年齢で、南奥州の覇者に君臨しました。

 しかし、中央では豊臣秀吉が関白に就任し、各地の大名を併呑していました。秀吉が天下人であることは誰の目にも明らかで、秀吉に従わない大勢力は関東の北条氏と政宗だけになっていました。

 天正18年(1590)、北条氏が領地をめぐって真田氏と諍(いさか)いを起こしたのがきっかけで、秀吉は諸大名を動員して北条攻めを敢行します。奥州の大名の対応はまちまちで、すぐに豊臣の陣営に参陣する者もいれば、秀吉を軽んじて参陣しない者もいました。政宗は北条氏と同盟関係にあったので、ひとまず様子を見ることにします。

 このとき、政宗は自分が奥州に生まれたこと、秀吉より遅れて生まれた己の運命を恨んでいたのではないでしょうか。遅れてきた英雄は、生年が遅れたがゆえに覇道を食い止められてしまったのです。

 当時の苦しい胸の内を、政宗は側近の鬼庭綱元に手紙で打ち明けています。

 「関白(秀吉)との事さえ上手くいけば、他には何も心配はない。関白との間に行き違いがあれば、切腹は免れまい。只々、明けても暮れても、このことで頭が一杯だ」

 また、片倉家の歴史をまとめた『片倉代々記』には、政宗が小十郎景綱の屋敷を訪れ、寝所で意見を聞いたという話が記されています。

 このとき、景綱は秀吉の大軍を夏に大量発生する蠅(はえ)にたとえ、「秀吉の勢い莫大なり。譬(たと)えば夏蠅のごとし。一度に二、三百打ち潰し、二度、三度までは相防げども、いや増しに生じ来たり、その時の至らざれば尽きず、今敵対すること、御運の末か」と答え、関白秀吉に降るほかないことを示しています。

 政宗は頭の中で、「北条の本拠である小田原城は天下の堅城なので、もしかしたら北条が粘ってくれるかもしれない」という微かな希望というか願望を抱いていたかもしれません。 

 一方で、政宗は前田利家や浅野長政ら秀吉の側近とも音信を交わしていたので、楽観的な見通しが通用しないこともある程度は察していました。そしてついに、政宗は秀吉がいる小田原への参陣を決意します。

■白装束姿で小田原に参陣した理由

 天正18年(1590)5月、政宗は片倉小十郎景綱ら少数の供を連れて出立し、小田原に向かいました。いざというときの備えとして、本国には戦上手の伊達成実を残しました。そして、要請より遅れて小田原に参陣した政宗は、死を覚悟した白装束姿で秀吉と面会します。

 大名間の私的な領土争いを禁じる惣無事令(そうぶじれい)が出た後に会津の蘆名を滅ぼした政宗は、その場で改易や切腹を命じられてもおかしくない立場にありました。

 一方で、政宗は事前に秀吉の性格や好みを研究して、派手なパフォーマンスが好きなことを把握していたと思われます。そこで、自分が秀吉に臣従するという意味合いを対外的に最も効果的に見せるために、白装束姿で現れたのではないでしょうか。

 秀吉はこの政宗のパフォーマンスをどう感じたのか。

 巷間、秀吉は喜んだとも伝えられていますが、秀吉は内心「ややあざといな」と受け止めたのではないかと思います。

 ただ、決して悪い気はしなかったのでしょう。政宗は会津四郡・岩瀬郡・安積郡の没収にとどまり、取り潰しは免れました。奥州を統治する上で、政宗が必要であると冷静に判断されたとも読めます。

 一方で、葛西氏や大崎氏といった奥州の大名は改易され、最上氏や相馬氏は所領を安堵されました。

 歴史のif(もしかしたら)として、「政宗がもう少し早く生まれていたら、天下を統一できていたか」という話が出てくることがあります。しかし、政宗が仮に20年早く生まれていたとしても、上洛の途上には信玄や謙信、信長など「戦国オールスター」がいたので、おそらく天下に覇を唱えることは厳しかったのではないでしょうか。

■自らが招いた再びの窮地

 若い頃の政宗は、ある種「俺は他の連中とは違う。将来ビッグになる」というような全能感を丸出しにした青年に近いイメージを醸し出しています。しかし、秀吉というとてつもなく巨大な存在を前にして、ヤンチャな面が徐々に削ぎ落とされ成熟していきます。

 政宗の「大人としての振るまい」は、小田原参陣の際に早くも表れています。小田原に到着した政宗は前田利家や浅野長政などから詰問を受けましたが、その際に、千利休から茶道の教授を受ける斡旋を依頼しています。これを聞いた秀吉は、「田舎育ちに似ぬ奇特さと、危機の最中にそのような申し出をするとは」と、政宗の器量を褒めたそうです。

 北条氏滅亡後の奥州仕置では先導を務め、秀吉の接待もしています。とはいえ、当時まだ20代半ばだった政宗のヤンチャの虫が、完全に収まったわけではありません。天正19年(1591)、改易された葛西氏と大崎氏の旧臣が一揆を起こし、政宗は新たに会津の領主となった蒲生氏郷とともに鎮圧にあたります。ところが、一揆を裏で煽動していたのが政宗であることが露見し、政宗は弁明のために上洛します。

 このとき、政宗は白装束に加えて、金箔を貼った磔柱(十字架)を担いで参上したといわれています。今回はさすがに許されないかと思われましたが、秀吉は政宗の命を奪うことはありませんでした。その代わりに米沢から旧葛西・大崎領への転封を命じ、石高も72万石から58万石に減らされました。新たに岩出山城を拠城とし、一揆で荒廃した新領の統治に追われることになったのです。

 政宗は一揆を「煽動していない」と弁明しましたが、私はやっていたと推測します。秀吉に隠れてそのようなことをしたら、それを理由に潰されるのは目に見えており、家康など歴戦の武将はそのような行為を絶対やらないのですが、政宗はまだ「これぐらい大丈夫だろう」という詰めの甘さがあって、やってしまったのではないでしょうか。

■中央では許されない行為だった

 中央には中央、奥州には奥州のやり方があって、政宗は奥州のやり方で一揆を煽動しました。秀吉に歯向かうとか、そういう意識でやったわけではなく、小石を投げるような感覚でやったのだと思います。

 奥州ならどこかのタイミングで幕を引いて終わるところですが、中央では許されない行為でした。

 まだ中央の世界をよく知らないこともありましたが、政宗には旧蘆名領を召し上げられたことに対する不満が燻(くすぶ)っていたのでしょう。「少しでも領地を拡げたい」という欲から一揆を煽動したと考えられますが、損切りできない政宗の若さが招いた失敗でした。

 数々の修羅場をくぐり抜けた秀吉にとって、親子ほど年が離れた政宗は、そこまで脅威には感じなかったのかもしれません。あるいは、この頃の秀吉は朝鮮出兵を間近に控えていたので、政宗を改易するのは得策でないと考えていた可能性もあります。

 いずれにせよ、政宗は再び窮地を脱しました。

 政宗は秀吉の動向に振り回されましたが、二人の関係性は決して悪くなかったと思われます。むしろお互いに気質的に似た面もあり、心情的にも通い合うものがあったように感じます。

 秀吉が政宗を気に入っていた証左として、長船光忠作の名刀「燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)」にまつわるエピソードがあります。

■「政宗に刀を盗まれた。取り返してまいれ」

 慶長元年(1596)、大坂、伏見を行き来する船を献上した政宗は、秀吉から光忠の刀を下賜(かし)されます。

 翌日、政宗が光忠を帯びて普請場に来たところ、秀吉は「政宗に刀を盗まれた。取り返してまいれ」と小姓たちに命じます。これは秀吉の冗談でしたが、小姓たちは政宗から刀を取り返そうとします。すると政宗は城内を逃げ回り、秀吉はその姿を見て大笑い。結局、秀吉は政宗を許し、刀はそのまま政宗のものになりました。

 こうした一連の政宗と秀吉のエピソードをもとに、『戦国武将伝 東日本編』の宮城県では伊達政宗を主人公とした掌編「頂戴致す」を書いています。

 政宗と秀吉の関係性を現代風にいうならば、叩き上げで日本一の大企業に育て上げた経営者(秀吉)と、子会社化した地方の老舗企業の若手経営者(政宗)といった感じです。政宗が母の義姫に宛てた手紙にも、「太閤秀吉様、関白秀次様の覚えめでたく、日々懇(ねんご)ろなお言葉をかけていただき周囲にも鼻が高い」という記述があります。

 以上、政宗と秀吉の関係性をみてきましたが、もちろん私はそう思わないという意見があっても良いと思います。あなただけの人物プロファイルがあって構わないのです。そうしてまた歴史に対する興味を深くしていくものではないでしょうか。

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最終更新:3/24(日) 9:02

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