麻痺で感覚がないはずなのに絶え間ない痛みが襲う…俳優・塩見三省が脳出血の後遺症と闘った壮絶な逆転劇
脳出血の後遺症とはどのようなものなのか。60代後半で突然この病に見舞われた俳優の塩見三省さんは「脳のことは誰にもわからない。退院してからも医者にも説明のつかない痛みが左半身にずっと続いたので、自分なりに原始的な手段を試みた」という――。
※本稿は、塩見三省『歌うように伝えたい』(ちくま文庫)の一部を再編集したものです。
■左半身を襲う絶え間のない痛み
発症してからは必死になって病と闘い、戻るべき現実生活に分け入り、無我夢中で階段を駆け上がってきたが、もう二度と回復の見込みのない身体、左半身不随の後遺症の上に、痛みが容赦なく私を襲う。
恐らくこの半身麻痺は身体が動かないだけでなく、各部の筋肉の緊張が高まり痛みが出ているのだろう。私の場合は足がつった時に出るような痛みが肩から足先までずっと左半身にあるのだ。
回復期のリハビリ病院に入院している時、担当医から身体に痛みが出ているかを執拗(しつよう)に聞かれた。その時は痛みは無かったので聞き流していたが、あの忠告は退院してからのことだったのか。そういえばあの頃は医者の判断に反発していたが、生活のスタイル、左半身の手足の具合、杖と装具、全てがその通りになった。
もう決して治ることのない障害者に、麻痺して感覚のないはずの左の手から足先までの半身には「絶え間のない痛み」が襲ってくる。リハビリを頑張るのと比例するように痛みは増す。
感覚がないのだ、なのになぜ痛い。
絶え間のないこの肉体的な痺(しび)れと苦痛が、私の生きていく気力と精神力をじわじわと萎(な)えさせる。
■壊れた脳を自分は騙しているのか…
医者にも説明がつかないこの痛み。これからも果てしなく続くであろうこの痛みを伴う身体がもたらす、得体の知れない不安と恐怖。私はあまりの辛さに何度も屈み込んだ。しかしこれだけは誰にも助けてはもらえない。ここはいくら苦しくともこの病の後遺症を持つ者として、この社会に紛れ込んで生きていくためには、自分自身で乗り越えなければならない。
私は苦しくとも負けるわけにはいかないのだ。
この絶え間のないジンジンと感じる痛みは生きていることの実感なのであろう。そう思ってジッとその状態で自分の身体と向き合ってみる。もう元のように戻るのではなく、この身体に合わせた精神力を付けなければと考えるようになった。そんなことを考える私は「病と闘ってきた」段階から進み、なんとかして「病と共に生きようとしている」のではないかと思うようになってきた。そういえば撮影に集中している時は痛みを感じていない。どうやら脳の発する痛みが緩む時があるようなのだ。
この日常の苦しい時間に対処する中で、またこうして何かを書いている時も気がつくと痛みが少し緩んでいるのだ。気をそらし、何かに夢中になると痛みから解放される。
「壊れた脳を騙(だま)している」のか、ヨシ! 私は色んな対処の仕方を時々に応じて考え、すり抜け、受け入れ生きようとしている。
■自力で脳のコントロールを試みる
私は右脳が壊れて左側に運動と感覚機能障害が残った。しかし言語を司(つかさど)る左脳が言葉を編み出し、健常である右手で、このようなことも書き記すことができている。
左の手足が不具合になり、初めは歩行するのも難しい状態であった。
それからのリハビリが、まずは歩くことに傾注したのは当然だろう、しかし、脳を傷つけ臆病になっていた私がずっと恐れていたのは、かろうじて繋ぎとめた「意識」がいつかどこかに持っていかれてしまうのではという不安であった。意識を失うこと、自分がわからない状態になること、認知症など大仰なことでなく、ただただ日常でうっかりしたり、思わず失態したりする意識のことである。
緊急入院時、病院で薬のせいもあったのか途切れ途切れに意識が飛ぶことがあり、怖い思いをしたのである。
左半身の痛みを和らげるためにどの医師も強い痛み止めの薬を薦めた。薬は脳に刺激を与えるので通常の意識レベルを下げる処置になるのではと思って、痛みが少しは和らぐとしても、私は薬は使わないで脳の現状を保とうとした。
無謀(むぼう)にも痛みを感じていないと脳に言い聞かせることで自分の力で脳をコントロールしようとしているのである。「痛いの、痛いの飛んでいけー」現代医学を無視した原始的な無茶な世界であるのはわかっている……。
■脳科学者も解明できない幻肢痛
何かを感じたり、思ったりすることは全ては脳からの発信なのである。
この左半身の痛みはおそらくファントム・ペイン(幻肢痛(げんしつう))のたぐいのものであろう。例えば、足を失っていても、無いはずの足のつま先に痛みを感じる症状である。ただ脳が感じているだけなのであるが、この痛みは脳科学者でもまだ解明できていないという。脳を騙して痛みを和らげるくらいの研究が精一杯なのである。
脳のことは誰にもわからない。笑われるかもしれないが、私が自分なりに原始的な取り組みでこの痛みに対処しようとしているのは、あながち間違いではないように思うのだ。
倒れてから今まで、私は健常な右半身だけを頼りに生きてきたので、どうしても感覚のない左半身に関心が及ばず、脳がその左半身の存在を忘れてしまうことがあるのだ。しかし身体全体で生きていくわけだから生活の中で左半身を置き去りにしたら命にも関わる危険な状態に陥ることになる。
健常者なら無意識でする何気ない動作も、私は自分が社会に馴染むにつれて脳が忘れがちになる左半身を意識して行動するようになっていった。
■ギクシャクした身体全てが自分である
左手はどこにあるのか、テーブルの上か、膝の上にか、またポケットか、その位置を常に逐一確認する、歩きもまず感覚のない左足をどこに置くか、例えば、マンホールの上は滑るし、道に傾斜があるかどうかなど、一つひとつ確認して左足を踏みだし、そして健常な右足を一歩前に出し進む。健常者にとっては気の遠くなるような手順を踏んで生活者として生きている。必ず左を意識しないと危険なのである。
人よりも超スローだけど、置き去りにしていた感覚のない左半身を常に意識することで自分の危険とか事故を未然に防いで避けてきたのだろう。
日常生活を営む中で、脳に、ただ無意識で反射に任せる部分(右半身)と徹底的に意識して行う動作(左半身)を交互にコントロールすることで、壊れた脳を整理して身体全体を秩序あるものにしようとしているのだろうか。
そうか、そうだったのか、このギクシャクした身体全てが私であり、それでなんとかここまで生きてこられたのだ。
この「半身不具合の身体であることが、私は私なのである」と、つまりこの身体でなければ私ではなく、思考、行動、表現、発信の全てがこの半身不具合の身体から生まれていることを確認できたのである。
■新しい生命の誕生ともいえる感覚
退院してからは家に引き籠もりたくなるくらいの現実であった。
イクジナシの私はそんな社会に押しつぶされて負けそうになったが、思い切って病の前の健康だった六六年の健常生活の全てと決別する決意で、足を引きずりながらこの身体を恥ずかしがることなく突っぱって、笑われながらも積極的に街に世に出ていこうとしたのだった。
そのお陰だったのかもしれない。
極めて狭められた生活圏で生きている中であったが、この不具合な左半身が脳を通して私に教えてくれる。
「日常生活のリズムのスピードを落とせ、周りの人と同じようなリズムに合わせてボンヤリ生活していると、君は危ないよ。辛くても落とすんだ」
脳はシグナルを発し、休むことなく働き続け、そして指示を出しているのだ。
こうして生きて日常生活を営むかぎり、私の意識は常に途切れることがないのだと確認して、やっと意識が飛ぶという不安から解放されたのであった。この不具合の身体が脳を目覚めさせ、自分の欠落した部分、弱いところを意識することで全身が一体のものになったのだ。
この新しい生命の誕生ともいえる感覚が日常に入り込み、日々を生きる推進力になったことで、極めて自然に私はこういう運命だったのだと思うのであった。
「この身体であることが、私は私なのである」、この気持ちを基軸にしてもう一度人生を歩むこと。私が受け入れたのではない、この身体で、もう一度生きてみようと思ったのだ。
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塩見 三省(しおみ・さんせい)
俳優
1948年京都府生まれ。演劇を志し、中村伸郎、岸田今日子らと伴に別役実や太田省吾の舞台作品、つかこうへい作・演出の「熱海殺人事件」他に出演。その後、映画「12人の優しい日本人」「Love Letter」「ユリイカ」「血と骨」「アウトレイジビヨンド」、NHK連続テレビ小説「あまちゃん」「パンとスープとネコ日和」他、多数の映像作品に出演。2014年に病に倒れるが、2017年、北野武監督の映画「アウトレイジ最終章」(第39回ヨコハマ映画祭助演男優受賞)で復帰。「劇映画孤独のグルメ」など。近年は、エッセイや脚本、書評も執筆し、著書に『歌うように伝えたい』がある。
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プレジデントオンライン
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最終更新:2/5(水) 17:17