“問題作”を描いて処分「山東京伝」の凄い実力 大田南畝も絶賛、のちに小説や歌舞伎の世界にも影響を及ぼす

6/1 16:02 配信

東洋経済オンライン

NHK大河ドラマ「べらぼう」では、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を中心にして江戸時代中期に活躍した人物や、蔦重が手がけた出版物にスポットライトがあたっている。江戸時代後期の戯作者・山東京伝(さんとう・きょうでん)もその一人だ。連載「江戸のプロデューサー蔦屋重三郎と町人文化の担い手たち」の第21回は、蔦重のもとでも数多くのヒット作を飛ばした山東京伝について解説する。

■「手鎖50日」の処分が下された山東京伝

 江戸のクリエーターたちにとって、冬の時代が訪れた。

 天明7(1787)年、11代将軍・徳川家斉のもとで、老中首座に抜擢された松平定信は「寛政の改革」を断行。寛政2(1790)年には「出版統制令」(しゅっぱんとうせいれい)を発布している。

 遊郭での遊びを描いた「好色本」を絶版したり、徳川家に関する記述を禁止したりする動きは、8代将軍の徳川吉宗の頃からあったが、定信はさらに出版規制を強化。幕政を批判したり、風紀を乱したりする書物については、その書き手まで処罰されることとなった。

 ターゲットとなったのは、幕政を揶揄するものが多かった「黄表紙」(きびょうし)や、遊郭を舞台にした「洒落本」(しゃれぼん)である。

 取り締まりが行われて、版元の蔦屋重三郎には、身上に応じた重過料(罰金刑)が科せられることになった。原因となった書物を書いた作者は「手鎖50日」(てじょうごじゅうにち)といって、鉄製の手錠をかけたまま自宅に50日間謹慎するという刑に処されている。

 その作者とは、戯作者・山東京伝である。どんな人物だったのだろうか。

 山東京伝は宝暦11(1761)年、深川木場にて質屋の長男として生まれた。本名を岩瀬醒(さむる)。13歳のときに京橋銀座一丁目に移り住むと、15歳で絵師の北尾重政(しげまさ)に入門したとされている。

 北尾重政といえば、蔦重が初の出版本となる『一目千本』(ひとめせんぼん)で絵を担当した人物である。

 まだ駆け出しの蔦重の依頼を快諾するくらいだから、面倒見のよい男だったのだろう。門下生も多く、「鍬形蕙斎」(くわがた・けいさい)の名でも知られる北尾政美(まさよし)や、全身像の美人画を得意とした窪俊満(くぼ・しゅんまん)などを輩出している。山東京伝と年が近く同門にあたる北尾政美は、京伝の黄表紙に挿絵を描くこともあった。

■絵だけでは満足できず戯作の世界へ

 山東京伝は当初、「北尾政演」の名で画工として世に出ている。安永7(1778)年、18歳で黄表紙『開帳利益札遊合』(かいちょうりやくのめくりあい)の絵を担当した。

 京伝が戯作者としてデビューしたのは、それから2年後のこと。安永9(1780)年、20歳のときに黄表紙『娘敵討古郷錦』(むすめかたきうちこきょうのにしき)で振袖美人の敵討ちを描いて、初めて「京伝戯作」という角印を使用している。

 また同年に『米饅頭始』(よねまんじゅうのはじまり)を版元の鶴屋喜右衛門から出版している。町人の幸吉が腰元のおよねと駆け落ちして、さまざまな苦難を経験しながらも、「鶴屋」の屋号で店を出して、饅頭を売り出すという話だ。

 戯作者・京伝の出発点となった『娘敵討古郷錦』や『米饅頭始』だが、ともに画作は「北尾政演」。つまり、絵も文も自分で書いてしまったのである。

 この頃から吉原にも通い始めたといわれているから、創作も遊びも全力投球だ。ほとばしるエネルギーを、京伝は自分でも抑えることができなかったのではないだろうか。

 人が世に名を成すまでには、いくつかのターニングポイントがある。

 京伝の場合は天明2(1782)年、22歳のときに世に出るきっかけをつかんだ。大手の版元「鶴屋喜右衛門」(つるやきえもん)から 『(手前勝手)御存商売物』(ごぞんじのしょうばいもの)を出版すると、狂歌・戯作・随筆と多彩なジャンルに筆をふるった大田南畝(おおた・なんぽ)から激賞されたのである。

 『御存商売物』は、青本、赤本、黒本、そして人気の黄表紙や洒落本など、当時の江戸で流通していた書籍が擬人化して登場。出版業界の動向を面白おかしく読める本となっている。

 よほど気に入ったのだろう。大田南畝は黄表紙評判記『岡目八目』において、15人の作者のなかで、京伝を4番目に挙げている。上位3人が朋誠堂喜三二、恋川春町、芝全交だったことを思うと、名だたるヒットメーカーに続いて、京伝は有望視されたということになる。

 しかも、南畝は「画工の部」において、鳥居清長に次いで「北尾政演」の名を挙げている。戯作と絵をともに認められた京伝は、天にも昇る気持ちだったに違いない。さらに南畝は『(手前勝手)御存商売物』を戯作の部でランキング最高位につけた。わが世の春、とはこのことだろう。『京伝』の号を使用したのもこの頃のことだ。

 蔦重もその才に注目して動き出す。恋川春町の日記によると、同年の暮れ、天明2(1782)年12月17日に、酒宴の席に京伝を招待している。それから2年後には、蔦重は京伝の作品集を刊行。翌年の天明5(1785)年、24歳のときには『江戸生艶気樺焼』(えどうまれうわきのかばやき)を発表し、大ヒットを飛ばした。

■後世に影響を与えた数々の作品

 『江戸生艶気樺焼』の内容は、ルックスはイマイチなのに自惚れだけはやたらと強い金持ちのボンボンが、遊び仲間たちに相談しながら、イケてる男になるべく、バカバカしい努力を重ねるというものだ。

 井上ひさしが1972年に直木賞をとった小説『手鎖心中』は江戸時代を舞台にしており、蔦重や山東京伝も登場。ストーリーは、絵草子の作者にどうしてもなりたい若旦那が、自分から父親に勘当を申し出たり、心中騒動を巻き起こしたりするというもので、『江戸生艶気樺焼』のパロディだと作者自身が語っている。

 その後も京伝は数多くの作品を蔦重のもとで出版する。寛政2(1790)年に出した『心学早染草』(しんがくはやそめぐさ)では、人間の行いはすべて心の内にある「善魂(ぜんだましい)」と「悪魂(あくだましい)」によるものだとしている。

 『心学早染草』では、心の中の葛藤をふんどしや袴姿で、顔に「善」「悪」の文字を描いた特徴的なキャラクターで表現。これが「善玉」「悪玉」として大人気になり、その後の戯作や浮世絵、そして歌舞伎の世界にも影響を与えることなった。

 後世の創作においても発想の源泉となった山東京伝の実力には驚かされるばかりだが、遊郭での振る舞いも粋なものだったようだ。生涯で2度の結婚をしたが、妻になったのは2人とも吉原の遊女である。吉原に生まれ育った蔦重とは、バカ話をしているうちに、自然と創作物が湧いてくる。そんな関係だったのではないだろうか。

■問題作でも蔦重が発刊に踏み切ったワケ

 それだけに、蔦重と山東京伝の名コンビを取り締まれば、見せしめとしても大きな意味を持つ。何とか風紀を引き締めたい老中の松平定信は、そう考えたのだろう。

 京伝が遊郭の風俗を描いた、洒落本『仕懸文庫』(しかけぶんこ)、『青楼昼之世界錦之裏』(せいろうひるのせかいにしきのうら)、『娼妓絹篩』(しょうぎきぬぶるい)の3冊が、出版取締令に触れるとして、絶版を命じられることになった。

 版元の蔦重からすれば、このときすでに「寛政の改革」の影響で、大田南畝や朋誠堂喜三二、恋川春町らの筆には頼れない状態だった。たとえ物議を醸しても、状況的にこの3作を刊行しないわけにはいかなかったのかもしれない。

 その結果、作品が絶版に至っただけではなく、前述したように、京伝や蔦重自身も処分が下されることになった。

 だが、たとえ一時的に気持ちがふさぎ込むことはあっても、転んでもただでは起きないのが、クリエーターというものだ。事件をきっかけに広く名を知られた京伝は、長編小説の道へ。そして、蔦重は役者絵を売り出すべく、また新たに動き出すことになる。

 【参考文献】
松木寛『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』(講談社学術文庫)
鈴木俊幸『蔦屋重三郎』 (平凡社新書)
鈴木俊幸監修『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(平凡社)
倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(れんが書房新社)
洲脇朝佳「寛政期の歌麿と蔦屋重三郎」(『國學院大學大学院紀要』文学研究科 2019年 第50号)
小沢詠美子監修、小林明「蔦重が育てた「文人墨客」たち」(『歴史人』ABCアーク 2023年12月号)

山本ゆかり監修「蔦屋重三郎と35人の文化人 喜多川歌麿」(『歴史人』ABCアーク 2025年2月号)

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最終更新:6/1(日) 16:02

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