本田宗一郎氏に学ぶ、逆境の中で夢を叶える方法 経営危機の中で世界一のバイクレースに挑戦

4/6 14:02 配信

東洋経済オンライン

偉人の伝記を読むと、最悪な日は、不幸な日ではなく、新しい自分が始まる日であることがわかる。本稿は、『今日は人生最悪で最高の日』から、本田宗一郎氏の偉人伝を抜粋・再構成のうえ、本田氏の挫折と“なぜ彼が復活できたのか”をご紹介します。

■「機械が空を飛んでるうぅぅ!」

 1903年は、ライト兄弟が世界で初めて空を飛んだ年。

 その3年後の1906年に生まれた本田宗一郎。

 実は、飛行機が宗一郎少年のハートに火をつけたのです。

 宗一郎、小学校5年のときです。静岡県の和地山練兵場で、飛行機の曲芸飛行のイベントがあることを聞きつけます。

 宗一郎の自宅から片道20キロ以上の距離があります。だけど宗一郎は、どうしても飛行機を見てみたい。その一心で、親にも内緒で、大人サイズの自転車に無理やりまたがり、凹凸のジャリ道をフラフラになりながらもひとりで向かったのです。

 なんとか辿り着いたものの、入り口で大問題が勃発。「ええええ。入場料払うの!?」。

 親に黙ってきた宗一郎少年に入場料を払うだけのお金などありません。そこで、宗一郎は大きな木を見つけ、その木によじ登った。すると、ちょっとだけ見えた……。

 「おおおおおおおおおおおおおおおお。飛行機だ。機械が空を飛んでるぅぅぅ!」

 宗一郎は、生涯、その感動が忘れられなかったといいます。

 これが、後に、世界のHONDA(本田技研工業)を生み出すことになる、ミスターHONDAの少年時代です。

 1954年。好景気が続いていた日本に不景気の波が押し寄せていました。

 そんな中、「世界一でなければ日本一じゃない」と、本田宗一郎率いるHONDAは世界をめざすのです。まだたった1種類のバイクをちょろちょろと輸出しはじめたばかりのHONDAが、世界一のバイクレース、イギリスのマン島TT(ツーリスト・トロフィ)レースに出場すると宣言。

 宗一郎47歳。本田技術研究所として創業して8年目のことでした。

 このレースに出場するのは世界のトップメーカーばかり。ですから、ここでの優勝は、世界一のバイクメーカーであることの証明になります。しかし、まだ町工場が一皮むけたに過ぎなかったHONDAには無茶な挑戦でした。

 しかし、ミスターHONDAの頭の中にあるのは、「世界一こそ日本一」。

 目標が高いほど燃えてきます。それから1カ月後、HONDAの全社員に、ある文書が回ります。

 「TTレースに出場、優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君とともに誓う」

■苦しいときだからこそ、夢が必要

 ところがこの直後、トラブルが押し寄せます。主力製品にトラブルが発生。会社設立以来最大の経営危機に見舞われ、レースに参加している場合ではなくなります。

 しかし、宗一郎は「苦しいときだからこそ、夢が必要なんだ」と、強硬にマン島レースへの視察ツアーへと出発します。初めて見るTTレース、その迫力に度肝を抜かれた宗一郎。HONDAのマシンの3倍はありそうな馬力です。

 「こりゃあ、考えたこともないレベルだわ」と思わず弱音を吐いた。

 しかし、「できない」「ムリ」「不可能」と言われると、逆にワクワクしてしまう宗一郎には、「あきらめる」という選択肢はありません。

 無謀なる夢への挑戦です。

 しかし、結果的に、社内はこれで一気に活気づくことになったのです。

 それでも、レース出場までの道は予想以上に険しく、1年目ではダメ。2年目もダメ。3年目もダメ。4年目もダメ。そして、5年目……。ついにレース出場を果たすのです。しかし、実はこの間、すごいことが達成されています。

 世界一をめざすその間に、いつの間にか、HONDAはバイクの生産台数日本一に輝いていたのです。世界一をめざしていたら、あっさりと日本一に!  でも、ミスターHONDAにとっては、日本一は日本一じゃないのです。世界一こそ日本一。

 そして、レース出場から2年目で、なんと優勝を果たすのです。

 外国のマスコミからは、「東洋の奇跡」と絶賛されました。

 「The Power of Dreams」 

 これこそ夢の力です。

■夢は「最終地点」ではなく「通過点」に

 夢に向かって進むとき、トラブルなど、トラブルではなくなります。経営不振だろうが、あらゆる難関は、燃え上がる炎にくべる薪になる。日本一をめざしたいのなら、世界一をめざせばいいのです。

 夢をいつか辿り着きたい最終地点にするのではなく、通過点にしてしまえば、夢は一気に加速します。

 本田宗一郎は創業間もない頃から、朝礼でミカン箱の上に立ち「世界一をめざす」と宣言していました。ちなみにこのエピソードに刺激を受けたソフトバンクの孫正義社長は創業初日、ミカン箱の上に立ち、

 「5年以内に100億円、10年で500億円、いずれ1兆円企業になる」

 と演説し、あまりに壮大すぎる夢を聞かされたアルバイト社員は翌日に会社を辞めたそうです(笑)。

 本田宗一郎は、右手がとてもきれいでした。しかし、左手は傷だらけ。

 右手はハンマーを持って叩くほうですから、きれいなまま。それに対し左手のほうは、ハンマーに叩かれて、けがをしていない指がなかったのです。取れそうになった指をつないであったともいいます。傷だらけの左手。その傷は宗一郎の悔しさの数であり、その悔しさが彼を世界のミスターHONDAにしたのです。

 「私のやったことの99%は失敗だが、1%の成功のおかげで、いまの私がある」

 「新しいことをやれば、必ず、しくじる。腹が立つ。だから、寝る時間、食う時間を削って、何度も何度もやる」

 by 本田宗一郎

参考文献
『わが友 本田宗一郎』井深 大(ごま書房新社)
『この人を見よ!  歴史をつくった人びと伝1 本田宗一郎』プロジェクト新・偉人伝(ポプラ社)

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最終更新:4/6(土) 14:02

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