5浪で悟った「身の程」早大卒の彼が捨てた拘り 苦学の道を余儀なくされ、新聞配達を続ける

5/26 5:21 配信

東洋経済オンライン

現在、浪人という選択を取る人が20年前の半分になっている。「浪人してでもこういう大学に行きたい!」という人が激減している中で、浪人はどう人を変えるのか。また、浪人したことで何が起きるのか。 自身も9年間にわたる浪人生活を経て早稲田大学の合格を勝ち取った濱井正吾氏が、さまざまな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張ることができた理由などを追求していきます。
今回は神奈川県藤沢市の私立高校を卒業後、朝日新聞社の新聞奨学生制度を使って、5年間学費を全額負担しながら、予備校に通い、5浪で早稲田大学第2文学部に合格。大学在学中も新聞奨学生を続けた後、新卒で入社した東証プライム上場企業に20年勤めているホリ・ホーリーさん(仮名)にお話を伺いました。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

■新聞配達をしながら予備校代を稼いだ

 タフで確固たる意志を要求されるイメージのある、新聞奨学生制度。

 金銭的に大学に進学することが難しい家庭の「苦学生」が使う印象が強いこの制度を9年間利用して、自分で予備校と大学の学費をすべて払い切ったのが、今回お話を聞いたホリ・ホーリーさん(仮名)です。

 「頑固で融通のきかない性格」と語る彼の半生は、この新聞を配達しながら勉強をした日々なしには語れないと言います。

 決して貧乏な家庭ではなかった彼が、この制度を使った理由とは。現在新卒で入社した会社に20年間勤務を続けている彼が、5浪の生活、4年間の大学生活を通して続けた新聞奨学生制度で得たものとは。

 親との関係から「苦学生の道」を余儀なくされた、壮絶な彼の人生を深掘っていきます。

 ホリ・ホーリーさんは神奈川県の藤沢市に生まれ育ちました。両親ともに大学を出ており、父親は会社員、母親は看護師だったようです。教育熱心な家庭だったそうで、小学校までいろんな習いごとをさせてもらっていたと彼は語ります。

 「小学校までに水泳、ピアノ、絵画などを習わせてもらいました。勉強面でも小学校5年生から中学受験用の塾に通い、中学受験の勉強をさせられました。

 ただ、当時はとても勉強が嫌いで、いつも親の顔色をうかがいながらやっていましたね。学校での成績は真ん中よりちょっと上だったのですが、塾では落ちこぼれでした。小6の後半から少しずつ勉強ができるようになりましたが、私立の中学を2つ受験したものの落ちてしまい、地元の公立中学校に進みました」

■勉強をさせようとする親からの圧

 中学に入ってからも中の上の成績をキープしていましたが、勉強は好きにはなれないままでした。

 このころから、勉強をさせようとする親の圧が強くなったようで、それが彼にとってはとてもつらかったそうです。

 「小さいころの我が家はそこそこ裕福でしたし、大学に行くのが当たり前だと言われる環境でした。もともと私はぜんそく持ちで体が弱く、体を使う仕事が無理だと思ってくれていたからこそ、勉強して立派な大学に行かせようとしてくれていたのだと思いますが、私にはそれが息苦しくて嫌でしたね」

 ホリ・ホーリーさん自身は、高校に進むときも公立の学校に進学したいと思っていたそうですが、大学への進学率を考慮した親の意向もあって、私立高校の受験をすることになります。

 中学の教員からは、私立専願のほうが合格しやすいとアドバイスを受けたこともあり、市内の私立中堅高校のみ受験し、合格することができました。

 このころの彼は、逸見政孝さんや福澤朗さんが好きで、アナウンサーになりたいと思っていたそうです。

 そのため、彼らが出た早稲田大学に漠然とした憧れがあり、勉強もそれなりに頑張っていました。その一方で、高校に入っても親からの「勉強しろ」という圧は続いたため、ホリ・ホーリーさんは、この3年間で親元を離れるための方策をひたすら考えるようになります。

 「とにかく1人になりたかったんです。そのために東京に出たいと思っていたのですが、当時、父親が勤め先を辞めて、家計がきびしくなっていました。家出する手段を考えていましたが、生活費も生活していくあてもなかったので、どうしようかと考えていました。

 そう思い悩んでいた高校3年生のときに見つけたのが、新聞配達をしてお金をもらいながら予備校に通える、朝日新聞の奨学生募集の記事でした。浪人しても、予備校生でも採ってもらえるので、落ちたときのことを考えてすぐに応募しました」

 「落ちたときのこと」と語るように、高校3年生の段階ですでにホリ・ホーリーさんは浪人を覚悟していたようです。

 高1の段階で理数系を諦めて文系3教科の勉強に絞ったものの、高校に入ってからの成績は真ん中より下くらいに下降。当時の学力は早稲田には到底届かなかったようで、模試の偏差値は50未満でした。

 「早稲田・慶応・上智・立教・青学……どこの大学もE判定でした」と語るホリ・ホーリーさんは、予備校講師の吉野敬介さんに憧れていたこともあり、当初は吉野さんの出た國學院大學を目指していたそうです。

 「現役のときのいちばん最後のほうは1日15時間ほど勉強をしていました。どうにかしなきゃとは思っていたのですが、やり方を間違えていたんです。英語が苦手で、単語も文法も何もわかっていないのに長文を読んだり、問題を解きっぱなしにしたりしていました。

 効率の悪い勉強を何の疑いもなく続けていて……。勉強するふりをしていただけだったんです。結局、現役のときは、早稲田・立教・法政・中央・國學院の5大学5学部を受けて、全落ちでした」

 「(偏差値的に)行けるか・行けないかにかかわらず、自分が行きたいと思った大学の文学部に絞って受験した」という挑戦は惨敗で終わります。

■朝刊と夕刊を配りながら、予備校に通う

 こうして彼は、「落ちて悔しかった」ために浪人を決めます。

 ようやく家から離れて東京での生活を始め、新聞奨学生として代々木ゼミナールの代々木本校に通い始めたホリ・ホーリーさん。

 「午前3時ごろに起床し、朝刊を配ってから6時ごろに帰宅し、それから代ゼミに行って午前中の授業を受けました。午後になると帰ってきて、夕刊を配ってからまた夕方に予備校に行ってましたね。朝の3時間と夕方以降の4時間で、1日7時間ほど勉強をしていました。いつも眠くて眠くてたまらないので、ずっといちばん前の席に座っていました」

 「浪人するからにはいいところに行こうと思っていた」と語るホリ・ホーリーさんでしたが、残念ながら成績はそこまで伸びず。偏差値は50を超えたものの、志望していたGMARCH(学習院大、明治大、青山学院大、立教大、中央大、法政大)や早慶レベルには届きませんでした。結局、早稲田・慶応・上智・立教・学習院の文学部を5つ受けて全落ちでした。

 「ハイレベル私立文系コースを選んだのですが、高望みしすぎていました。予習、復習はずっとしていましたが、内容が難しすぎて、わかったつもりになっているだけでした」

 こうして全落ちで2浪目に突入したホリ・ホーリーさんは、この年も新聞奨学生を続けながら同じ予備校に通い、同じような生活を続けます。

 しかし、「変にできる自信がついたからハイレベル私立文系コースより上の早慶コースにした」というように、さらに実力に見合わない高望みをしてしまったため、成績もほとんど変わらず、早稲田・上智・立教・学習院の文学部を4つ受けて、この年も全落ちしました。

 「今思えば何やってるんだという感じですね……。自分は偏差値が高いところに行きたいのですが、それに見合った授業を受けられていなかったんです。意地っ張りで、受験以外のことは考えられないくせに、ほかの道に一歩踏み出す勇気がない受験生でした」

 こうして彼は3浪目もまったく同じ生活を続けます。多少成績が上がり、偏差値55に到達はしたものの、前年と同様に受験した早稲田・上智・立教・学習院の文学部は全滅。

 ただ、追加で受けた偏差値50未満の滑り止めの大学には、ついに合格することができました。しかし、彼はこの大学の入学を辞退して4浪を決意しました。

 「初めて大学に受かったのでとても悩んだのですが、今まで行きたいと思える大学だけ受けて滑り止めを避けてきたのに、ここで妥協して大学に進んだら一生後悔するだろうと思ったんです」

■名物講師にも顔を覚えられた

 4浪目も、意地で代ゼミの早慶コースに通い、吉野敬介先生や富田一彦先生に顔を覚えられたというホリ・ホーリーさん。

 「ずっと最前列に座っていましたし、先生方は『今年もいるのか(笑)』という反応でした。もう呆れられていましたね。大学に行って当たり前だと小さいときから言われ続けたので、さすがにそろそろ行かなきゃかっこ悪いとは思っていました。

 でも、効率悪いやり方をしていても、勉強はずっと続けていたので、ようやく成績が伸びてきたんです。この年は偏差値60に届くくらいになって、模試でたまに明治・中央・法政あたりはD判定が出るようになりました」

 「もしかしたらいけるかもしれない」と思ったこの年の入試。しかし、それでも現実は厳しいもので、早稲田・上智・立教・青学・学習院の文学部を5つ受けて全落ちしたホリ・ホーリーさん。

 ついに現役生が大学を卒業し、社会人に突入する年齢になる5浪目に突入します。しかし、この歳になって、ようやく彼の目には希望が灯ってきたそうです。

 「いよいよ今までやってきたことが形になってきたんです。模試の偏差値は60を超えて、早稲田でも夜間学部だった第2文学部や社会科学部でD判定がポツポツ取れていました。C判定以上は取れなかったものの、もうこの年で何とかしなきゃと思っていました」

 この年は初めて文学部以外も受験します。早稲田は第1文学部、第2文学部、教育学部、社会科学部。立教・上智・学習院の文学部と、明治の文学部の1部と2部の5大学・計9学部を受験しました。

■学費を稼ぎながらの5浪生活を終える

 「5年間、受験を続けてきて、明治大学の文学部(2部)だけは手応えがありました。ほかはダメだったのですが、そこだけは受かっていて、やっと形にすることができたと思えましたね。そのあとに、早稲田大学の第2文学部の合格発表を迎えて、まあ無理だろうと諦めていたのですが、電話で『おめでとうございます、合格です』という声を聞いて呆然としました」

 信じられない合格の報せを聞いた彼は、「嬉しかった」と感じるのではなく、ただ「終わったんだ」という感覚にしかならなかったそうです。

 「今ではもっと喜ぶべきじゃなかったのかな?  とも思いますが、心が疲れきっていたんですね」

 こうして彼は予備校の学費をすべて稼ぎながら取り組んだ5浪の生活を終えました。

 新聞奨学生をしながらの5浪が実を結んだホリ・ホーリーさん。お世話になった新聞販売店の人たちにいい報告ができて、激励の言葉をもらえたことで、だんだんと実感が湧いて嬉しさが込み上げてきたそうです。

 彼に浪人してよかったことをお聞きしたところ「身の程を知れた」こと、頑張れた理由については「意地」と答えてくれました。

 「私は天才じゃないんだと気づいた5年でした。そのおかげで、偉そうにしても仕方ないと思えて、細かい上下関係などを気にしなくなったのはとてもよかったと思います。

 今も社会人として働いていて年下の上司がいっぱいいますが、それでもいいやと思えるようになったんです。謙虚さを身につけることができました」

 大学に入学してからのホリ・ホーリーさんは新聞奨学生を続けつつ、大学に通ってストレートで卒業しました。

 「大学に入ってからも新聞配達が忙しかったので、サークルに入るなどの楽しい活動はできませんでした。大学の授業の学費も自分で全部稼いで払っていたので、なるべく授業をとって、ストレートで卒業しなきゃと思っていたんです。

 嬉しかったのは、第1文学部や教育学部、政治経済学部など、昼間の他学部の授業も受けられたことですね。大学の学びを楽しみながら、4年で卒業することができたのでよかったです。

 新聞奨学生自体は5浪プラス大学4年間で、合計9年続けました。その間、使い続けてくれた販売所長には今でも頭が上がりません。よくぞ、こんなやつを見捨てないでいてくれたなと思い、本当に感謝しています」

■我慢強く、骨のある人間だと気づけた

 お世話になった当時の販売所長とは、今でもつながっていて連絡が取れる状態であるそうです。大学を卒業したホリ・ホーリーさんは、新卒で東証プライム上場企業に事務職として入り、20年間の時の流れの中で、所属が店舗販売からインターネット販売に移行し、形態が変わったものの、今でも新卒で入社した会社に勤め続けています。

 「今、会社で働き続けられているのも、浪人を通して、自分の性格がわかり、それが鍛えられていったからだと思います。私は意地っ張りで、頑固で融通のきかない人間です。

 でも、浪人を通して我慢強くなりましたし、自分が骨のある人間なのだと認識することができました。これからもネット販売を陰で支える裏方として、業務を続けていきたいと思います」

 5年間の浪人生活・4年間の大学生活の合計9年間を新聞配達とともに過ごし、学費全額を払い切った彼は、今でも当時鍛えた根性を生かして、東証プライム上場企業をタフに支え続けているのだと思いました。

ホリ・ホーリーさんの浪人生活の教訓:継続の日々によって、自分の長所を鍛え上げることができる

東洋経済オンライン

関連ニュース

最終更新:5/26(日) 5:21

東洋経済オンライン

最近見た銘柄

ヘッドラインニュース

マーケット指標

株式ランキング