現代アートが1980年代に「変わった」のはなぜか、「ビフォー1980」と「アフター1980」の違いとは

5/21 16:02 配信

東洋経済オンライン

しばしば「意味不明」「わからない」とされる現代アート。しかし、そこには必ず社会状況の反映がある。むしろ、現代アートを見ることで、より深く時代や世界について考えるきっかけにもなる。そこで本稿では、1980年代に入って大きくアートが変わった経緯を『「わからない」人のための現代アート入門』より、抜粋して紹介する。

■「ヘンな」アートが出てきたワケ

 「ビフォー1980」のアートは、時代や社会に対してポジティブであれネガティブであれ、いずれであっても「読みやすい」ものではありました。そういうものが現れる文脈が理解でき、どっちへ進んでいくのかもおおよその見当がつきました。

 ところが、シンプルなイデオロギーで律することのできる右肩上がりの時代はいつまでも続きませんでした。それと併行して、現代アートにも視界不良が訪れます。

 世の中はやがて混沌の時代へと突入していくこととなります。そういう時世の変化を捉えて、1979年、哲学者のジャン=フランソワ・リオタールは「大きな物語の終焉」を宣言したのでした。

 1980年を過ぎる頃から時代の様相は怪しくなっていきました。それまでは高度経済成長の波に乗り、多少の問題があったとしても、総じては前途洋々たる気分だったのが、次第にその「前途」が見えなくなってきたのです。

 今日よりよくなるはずの明日は不透明となり、経済も気がつけば低成長時代に突入。ジョン・K・ガルブレイスの『不確実性の時代』がベストセラーになったのはそういう時期でした。

 近代化の時代は終わりを告げて近代化以後となり、キーワードは「モダニズム」から「ポストモダン」へと移り変わりました。「アフター1980」は、確かなもののない戸惑いと手探りの時代となったのでした。

 現代アートも時代の変化に呼応するように変容していきます。ビフォー1980のときのように明快なロジックに裏付けられるものでは必ずしもなくなっていき、どうしてそれが出現するのか、それがどういうものなのか、はっきりと説明することができなくなっていきます。

 また、発展の道も不透明です。右肩上がりであればその先を見通すことができましたが、いまや次はどっちへ向かうのか誰にもわからなくなりました。曖昧で不透明、混沌として不合理。それがアフター1980のアートでした。

■「シミュレーショニズム」と呼ばれた作品

 1980年前後の時期に一風変わったアートが出現しました。それは、シンディ・シャーマンが撮影し続けた写真シリーズで、モデルは自分自身でしたが、その〝モデルぶり〟がいささか奇妙でした。

 シャーマンは、映画の一場面みたいな既視感を伴いつつ、あるときは都会でバリバリ働くキャリアウーマンのように写るかと思えば、あるときは素朴な田舎の少女のような佇まいで写りました。

 かと思えば、何かの事件に巻き込まれた女性のように写るときもあれば、また別のときは大学教授の秘書か何かのように写るのでした。シャーマンはその一連のシリーズを《アンタイトルド・フィルム・スチル》と名付け、1977年から80年にかけて制作しました。

 《アンタイトルド・フィルム・スチル》に写された女性はすべてシャーマンではありましたが、一枚一枚の変わりぶりが激しすぎて、見る者はどれがほんとうのシャーマンなのか見極めがつかず戸惑いを覚えることになりました。

 すべての写真のモデルはシャーマン本人には違いなかったので、どれもシャーマンとはいえましたが、同時に逆に、どれが真実かわからないので、どれも本物のシャーマンではないということもできました。

 真実と虚構の区別がつきませんでした。つまり、シャーマンが扮したのは「誰でもあって、誰でもない私」としかいいようのない何とも不思議な人物像なのでした。

■不確実性の時代を生きる人々の心に響いた

 この作品は大きなインパクトをもたらしました。真の「私」はどこにいるのか。全部で70枚もの写真がありながら、どこまで行っても確信が持てない「空洞化した私」しか見出せないという虚構感が作品には漂っていました。それは確かなものの手応えがない時代にふさわしい表現というべきもので、不確実性の時代を生きる人々の心に響きました。

 「誰でもあって、誰でもない私」、それでも存在している「私」とはいったい何なのか。そのありさまは、アイデンティティを見失いつつあった人々自身のあり方とオーバーラップしたのです。

 哲学者のジャン・ボードリヤールは、1981年の著作『シミュラークルとシミュレーション』において、人々がそういう虚構感に苛まれるのは世界がシミュラークルによってかたちづくられるようになったからだと主張しました。ボードリヤールのいう「シミュラークル」とは、「オリジナルなきコピー」とでもいう概念です。

 本来コピーにはオリジナルがあるはずです。オリジナルという〝本物〟があって初めて、コピーという〝複製〟が生まれるはずなのですが、ボードリヤールによれば、オリジナルなくしてコピーだけが突然出現するという奇妙なことが起こっており、それを彼はシミュラークルと呼びました。そして、シミュラークルの飽和によって虚構が現実に先行するようになっており、現実の世界が無意味化していると説きました。

 ボードリヤールがシミュラークルの典型として例示したのがディズニーランドでした。ディズニーランドにあるあらゆるものはすべてフィクションです。何らかの現実から派生したものではありません。

 にもかかわらず、ディズニーランドは確固として存在し、それどころか、「夢のある世界とはどういうものか」とか「冒険や友情とはどういうものか」などを訪れた人々=リアルな人々に伝え、人々はそれに感動し納得しています。

■アフター1980の幕開けにふさわしいアート

 つまり、ディズニーランドで起こっていることは「コピーがオリジナルを規定する」という逆転現象で、真実性と虚構性が倒錯した関係になっているのです(ことわざ的にいえば、まさに「嘘から出たまこと」です)。

 それは「誰でもあって、誰でもない」という真実性と虚構性が交錯し、虚構性が幅を利かせたシャーマンの《アンタイトルド・フィルム・スチル》にも通じるもので、シャーマンのアートはシミュレーショニズムと呼ばれるようになります。

 シミュレーショニズムは、それまでのアートが作品の唯一絶対性や真実性を根拠としてきたことに対する問い直しを迫り、コピーや模倣、盗用といった手法による作品の可能性をさまざまに提示し、アートのイデオロギーの根本的な見直しを迫りました。と同時に、いまから振り返れば、シミュレーショニズムはまさにアフター1980の幕開けにふさわしいアートのかたちでした。

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最終更新:5/21(火) 16:02

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