「首都」を目指した?南林間駅が秘めた壮大な野望 「田園調布以上」を狙った住宅地、撮影所も誘致

3/2 4:32 配信

東洋経済オンライン

 東京都心部では大規模再開発が続いている。2023年11月には東京・港区に麻布台ヒルズが、12月には渋谷区にShibuya Sakura Stage(渋谷サクラステージ)がオープンした。2024年以降もHARUMI FLAG(晴海フラッグ)のまちびらきを筆頭に、大規模再開発が目白押しだ。これらの再開発はデベロッパーによって文言は異なるものの、「緑」と「健康」が共通したコンセプトになっている。

 街が都市化すればするほど、人々が緑や健康を欲するのは時代を問わない。大正期、東京は著しく都市化した。同時期、鉄道会社は郊外に路線を延ばすとともに、沿線に住宅地を造成。それらの郊外住宅地は、緑と健康をウリにしていた。

■「田園調布を超える街」目指す

 その代表は田園調布だが、住宅地に緑と健康を求める潮流はその後も続く。小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)は、1927年に新宿駅―小田原駅間を開業。1929年には大野信号所(現・相模大野駅)から分岐する江ノ島線も開業した。同線は海浜リゾートとしてにぎわう江の島へのアクセスを目的にした路線だったが、途中駅では田園調布を超えるような住宅地が計画された。

 小田急の総帥だった利光鶴松は、それらの住宅地を林間都市と命名。同地には中和田、公所、相模ヶ丘の3駅が開設される予定になっていたが、直前になって東林間都市(現・東林間)、中央林間都市(現・中央林間)、南林間都市(現・南林間)へと駅名が変更された。

 これは、利光が田園調布を超える緑と健康の住宅街をつくるという野心を達成するために変更したといわれる。駅名によって、その意気込みを内外に示そうとしたのだ。

 利光は新宿駅―小田原駅の着工前となる1925年から小田原急行土地株式会社を設立し、座間町(現・座間市)、大和村(現・大和市)、大野村(現・相模原市)の一帯に広がる山林100万坪を買収していた。そのうち林間都市には約80万坪が充てられている。林間都市の中心は駅名から中央林間都市駅と思われがちだが、利光は南林間都市駅を構想の中心に据えようとしていた。

 そして、開業前年にあたる1928年から、すでに南林間都市駅周辺は宅地造成が始められている。翌1929年の開業年には、駅西側に約74万5000平方メートルの住宅地を分譲開始した。このときに分譲された一帯には、伊東静江によって大和学園女学校(現・聖セシリア女子中学校・聖セシリア女子高等学校)が開校する。

 同校は珍しいミッション系の女子中等教育機関だったが、立地的な面から生徒を集めるのに苦戦した。開校後、東京方面から電車で通学する生徒が多いことに着目した学園は、東京方面からの通学者に対して新宿駅―南林間都市駅間の定期券を無料で配布した。小田急も同校を支援するべく、新宿駅―南林間都市駅間に通学専用の電車を1日1往復運転している。

■学校とのタッグで沿線開発

 さらに、大和学園女学校は小原国芳を顧問に迎えて教育の充実を図ったほか、小田急との連携も密にした。小原は成城学園を現在地へと移転するにあたり、利光に対して小田急の急行停車駅を開設するように要望した教育家でもある。当時、小田急は未開業だったが、駅を開設することで利用者を確保できると踏んで利光は快諾。こうして成城学園前駅が開設されたが、同じ手法で1929年に小原は玉川学園前駅も開設させている。

 これら小原と小田急のタッグは、小田急の経営を安定させるとともに沿線開発に弾みをつけた。そうしたこともあり、小原は成城学園・玉川学園にとっても、小田急にとっても功績者とされる。

 小原が大和学園女学校に顧問として招聘された背景には、そうした手腕が期待されたわけだが、他方で大和学園女子校と小田急も密接な関係にあった。同校の創立者である伊東静江は、利光の長女にあたる。また、夫の伊東亮一は結婚時に小田急常務を務めていた。そんな小田急とも深い関係にある大和学園女学校が南林間駅のすぐ近くに開学したことからも、南林間駅が林間都市3駅で中心的な役割を担っていたことは間違いない。

 南林間都市駅の西口は、駅前広場を中心に放射状に広がる街路が整備された。これは田園調布駅の街路を模倣したものだが、駅から西へと延びている中央通り(現・やまと根岸通り)と南北に10本の道路が交差し、それらの道路は駅側から一条・二条・三条といった具合に名付けられた。これは、京都の街並みを模倣したといわれる。

 そこまで道路整備にこだわった南林間都市駅の西口には3000坪ずつの街区が整備され、そこから一軒あたり100坪から500坪前後の邸宅が立ち並ぶことを予定していた。当時においても、500坪の敷地は豪邸といえる規模で、小田急は林間都市を高級住宅街にすることを強く意識していた。

 とはいえ、そんな簡単に豪邸の購入希望者は現れない。そこで、小田急は下見客に対して運賃を無料にし、さらに購入者には3カ月間の無料パスを進呈するという破格のサービスをしている。

 こうして林間都市が体裁を少しずつ整えていくと、小田急は住宅造成を駅西口から東口へと広げていき、さらに中央林間都市駅の周辺も整備を始めた。利光は南林間都市駅の西側と中央林間都市駅の中間地点に公園をはじめゴルフ場・野球場・ラグビー場・テニスコートといったスポーツ施設を集中的に配置することを計画。こうして南林間都市駅から中央林間都市駅までの一帯は、スポーツ都市として売り出されることになる。

 これらのスポーツ施設は、後に衆議院議員となるジャーナリストの鷲沢与四二が1929年に設立したスポーツ都市協会が管理を担当した。このほかにも、小田急と大日本相撲協会(現・日本相撲協会)が土俵場と校舎を完備した相撲専修学校の開校を目指す動きもあった。1931年には学校の前段階ともいえる養成所が開所し、50人前後の訓練生を集めている。

 相撲専修学校の準備は順調に整えられていったが、翌年に力士の地位向上や大日本相撲協会の体質改善を要求した複数の力士が協会を離脱するという春秋園事件が勃発。同事件の対応に追われた大日本相撲協会は相撲専修学校を開校するどころではなくなり、計画は自然消滅した。

■「撮影所の街」も目指したが…

 さらに、小田急は林間都市に松竹撮影所を誘致することも目論んでいた。当時、松竹撮影所は東京の蒲田区(現・大田区)にあったが、都市化によって町工場が周辺に増え、工場からの騒音によって撮影に支障をきたすようになっていた。そのため、映画関係者は静かに撮影ができる場所を探しており、南林間都市駅に白羽の矢が立った。

 実際に、南林間都市駅周辺の公園やテニスコートなどに映画俳優が姿を見せたこともあった。しかし、蒲田から撮影所を誘致することは叶わず、撮影所は神奈川県大船町(現・鎌倉市)へと移転している。

 これほどまでに多くの施設を集めようとしたのは、利光が将来的に南林間都市駅周辺を日本の首都にしようとも考えていたからだ。利光が農村然とした一帯に強気な計画を立てていた理由は、関東大震災後に多くの富裕層が都心部から郊外へと居を移したことが大きい。

 関東大震災により、東京都心部の家屋は大半が損壊。その一方で、郊外の被害は軽微だった。とくに、渋沢栄一が理想の田園都市を目指して造成された田園調布はほとんど被害が見られなかった。そうした安全面が重視されたこともあって、大正末期から昭和初期にかけて富裕層が郊外へ住居を移すことが増えていた。

 南林間都市駅周辺に造成された住宅地も富裕層をターゲットに据え、都心部から多くの移住者を見込んだ。しかし、小田急のターミナルである新宿駅からの所要時間は約1時間。当時の感覚では遠すぎるために住宅地は思うように売れず、分譲開始から10年が経過した1939年になっても分譲予定地の約76.8%にあたる約49万9200坪しか販売されなかった。

 小田急は林間都市の残存土地を東横電鉄(現・東急)と提携することで売り切ろうとした。後述するが、こうした経緯が後年に東急が林間都市へと進出する布石になっている。

 住宅地の販売不振もさることながら、林間都市を危機に追い込んだのは1938年に公布された電力管理法も遠因になっている。同法は電力事業を国の統制下に置く内容で、これにより小田急の親会社だった鬼怒川水力電気は電力事業の廃止に追い込まれた。

 鬼怒川水力電気は1941年に電力事業から完全に撤退し、鉄道事業に専念することを表明。そうしたことから、子会社の小田原急行鉄道が親会社の鬼怒川水力電気を吸収する形で小田急電鉄が誕生した。それ以前から世間は同社を“小田急”と通称していたが、ここで名実ともに小田急という鉄道会社が誕生する。

■「都市」ではなく文化人の街に

 こうして小田急は1941年に林間都市の開発コンセプトを完全に転換。都市の建設を諦め、3駅すべての駅名から“都市”が取り払われ、南林間都市駅は南林間駅と改称した。

 住宅地を築くという点では失敗に終わった小田急の林間都市計画だが、大和学園女学校が開校したことで、それまで農村然としていたエリアに新たな都市文化がもたらされている。1930年、歌人の吉井勇が静かな住環境を求めて南林間駅の近隣に移住。吉井の祖父は日本鉄道の社長を務めた吉井友実だが、吉井勇本人は特に鉄道分野での活躍はなく、詩人仲間の北原白秋とパンの会を立ち上げるなど文学分野で活躍した。ちなみに、南林間に引っ越してきた吉井は伊東とも交友を持ち、請われて大和学園の校歌を作詞している。

 吉井に続き、1931年には俳文学者の高木蒼梧が南林間へと移住してきた。高木は81歳で没するまで南林間に居住し、吉井とも交流した。さらに、1940年には出版社の筑摩書房を立ち上げた文芸評論家の唐木順三が南林間へと移住している。こうした文化人が集まったことで、南林間駅は利光の想定とは異なる街へと変貌を遂げていった。

 文化人が集まり出した1930年代から南林間駅の周辺はにわかに騒がしくなり、戦時色を濃くしていく。まず陸軍が相模原近隣に多くの施設を建設。1940年代からは、海軍が厚木周辺に関連施設を次々と建設した。

 周辺に陸海両軍の軍事施設が集積したことを機に、小田急は売れ残っていた林間都市の一部を箱根土地(現・プリンスホテル)へと譲渡。箱根土地は、さらに土地を陸軍へと転売した。すでに利光の描いた壮大な林間都市は実現不能の都市計画になっていたが、土地が軍部に渡ったことで林間都市構想は完全に幕を下ろすことになった。

 だが、皮肉にも軍部の影響を受けて南林間駅の利用者は年を経るごとに増加していく。南林間駅の1930年における1日の平均乗降客数は92人だったが、1935年には221人、1940年には943人、そして駅名から都市をはずした1941年には1009人と大台を突破。1943年には1319人まで増加した。

 終戦後、南林間駅に大きな変化は起きなかったが、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、アメリカ管理下に置かれていた厚木基地の周辺は一気ににぎやかになった。アメリカ兵を相手にした商売が基地周辺では盛んになり、その波は南林間駅にも及び、駅前には英文表記の看板を掲出した商店が並んだ。

 南林間駅は戦前に陸軍・海軍による影響を受け、戦後はアメリカ軍の影響を受けたものの、一貫して閑静な住宅地だった。しかし、戦災復興が一段落した頃から南林間駅には変化の波が押し寄せてくる。

■東急の乗り入れで「都市」に

 その発端は、1953年に東急の総帥・五島慶太が城西南地区開発趣意書を発表したことだった。これは後年に内容を変更し、東京都町田市や神奈川県川崎市・横浜市一帯に多摩田園都市を建設するというものだった。

 東急は多摩田園都市を進めるにあたり、小田急の林間都市にも進出する予定を立てていた。東急は中央林間駅に向けて田園都市線を延伸させていくが、この過程で小田急が東急に対して強い抵抗を見せた。そうした小田急の反発は実らず、東急は1984年に田園都市線を中央林間駅まで到達させている。

 30年以上もの歳月を費やして東急は中央林間駅まで進出し、それを契機に林間都市は発展を遂げることになった。東急の進出には抵抗した小田急だったが、進出後に林間都市が都市化したことは、小田急にとっても嬉しい誤算だった。

 こうした林間都市の発展を概観し、小田急は社史に「林間3駅は林間の時代に都市であり、都市の時代に林間を名乗る」と皮肉を交えて記述している。しかし、利光が新しい首都にするとまで意気込んでいた壮大な林間都市の夢の跡は見られない。

 高度経済成長やバブル期に都市化の波を受けてはいるものの、南林間駅は閑静な郊外住宅地の佇まいを残したままになっている。

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最終更新:3/2(土) 4:32

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