超天才と凡人「遺伝によって差を分ける」は本当か 多数の才能の持ち主を研究して見えてきた真実

3/19 8:32 配信

東洋経済オンライン

何らかのことが「できる/できない」は天賦の才能によるもの、と考えている人は少なくありません。そこに異論を唱えるのが、20カ国以上で翻訳され、何年も読まれ続けるロングセラーの新装版『新版 究極の鍛錬』です。

モーツァルト、タイガー・ウッズ、ビル・ゲイツ、ジャック・ウェルチ、ウォーレン・バフェットなどの天才たちを研究した成果とともに、才能の正体に迫り、ハイパフォーマンスを上げる人たちに共通する要素「究極の鍛錬」を突き止めた本書より一部抜粋、再構成してお届けします。

■才能とは何だろう

 まず、才能=タレントという言葉の意味するところが何かはっきりさせなければならない。一般に才能という言葉は、卓越した業績やそうした業績を上げる人を表現するため用いられている。

 「メジャーリーグのレッドソックスの外野手にはタレントがいる」という表現をした場合、レッドソックスにはよい外野手がいるというだけの意味だ。ビジネスにおいてよく話題になる「タレントの争奪戦」という言葉は、より実績のある人材を引き抜こうとしていることを表している。

 テレビ業界では、タレントというのはカメラの前に立つ人のことをいう。テレビタレントとよくいうがテレビをよく見る人であれば、誰でもこの場合タレントという言葉は単に中立的な意味であり、評価判断が入っていないことを知っている。

 以上の意味はどれも決定的に重要なものではない。しかし、この言葉が人生のコースを変えるような意味合いで使われるときには、生まれつきの能力で他の人より何か特定のことがうまくできることを意味している。しかも、かなり特定された何かである。

 たとえばゴルフをする、ものを売る、作曲する、組織においてリーダーシップをとるといったことだ。そして、それは開花するより比較的早い時期に見いだされなければならない。それは生まれつきの能力で、もし生まれつきに持ち合わせていなければ、後天的には身につけることはできない。

 この定義での才能は、ほとんどすべての分野で存在すると固く信じられている。音楽やスポーツ、チェスなどの競技での会話を注意して聞いてみればいい。才能という言葉を使わずに2つ以上の文章を話すことは難しいことがわかるはずだ。こうした見方は他の分野でも珍しくはない。

 ニューヨークタイムズ紙の著名なコラムニストであるラッセル・ベイカーは、「言葉を操る遺伝子」をもって生まれたと信じられていた。生まれつきの書き手であると思われていたのだ。ビジネスにおいて我々はよく「ボブは生まれついてのセールスパーソンだ」とか、「ジーンは生まれついてのリーダーだ」とか、「パットはトップになるために生まれてきた人間だ」という話をする。

 ウォーレン・バフェットは次のように語っている。「私には生まれつき資本を配分する役割が遺伝子に組み込まれている」。それは、バフェット流の表現であり、バフェットは自分が儲もうかる投資を見つけ出す能力をもって生まれてきたと言っているわけである。

 「才能は存在する」と誰もが信じているが、才能について誰もが本当に考え抜いているわけではない。実際ほとんどの人は、才能自体について考えたことはないのだ。才能が存在するという考え方は、実は一部の人の考えにすぎない。だから「なぜか」と問うことには価値がある。

■天才の遺伝子は存在する? 

 ほとんどその答えとなるものが我々の予想もつかない場所に存在している。それは19~20世紀イギリスの貴族出身で探検家でもあるフランシス・ゴルトンの文書の中にある。ゴルトンは若いころは人は誰も同じような能力をもって生まれていると信じていた。そして、こういった能力も生きているうち、しだいに異なるレベルで発達していくと考えていた。

 神話学や宗教では、才能は神から与えられたものであるという考え方があったが、すでにゴルトンの時代では人はみな等しい能力をもつという考え方が普及していた。この考え方は、アメリカの独立やフランス革命に影響を与えた18世紀の平等主義に起源をもつものだ。そして、のちにヘンリー・ソローやラルフ・エマーソンなどが、当時一般的に思われてきた以上の潜在力を人間はもっているということを世の中で唱え出した。

 こうした証左を19世紀の経済の発展の時代に多くみることができる。貿易や産業がヨーロッパからアメリカ、さらにはアジアへと拡大し、当時の人々はあらゆる場所で富と好機を見いだすことができた。誰もがなりたい自分になれると思った。

 ゴルトンは従兄弟であるチャールズ・ダーウィンの書籍を読むまでは、こういった考え方を受け入れていた。しかしゴルトンは突如としてその意見を翻し、転向した者の情熱で新しい理論の普及を始めた。たしかに彼の影響はとても強く、今日でもこの問題について彼の見解は幅広く信じられている。これはおそらく、ゴルトンの強固な自信から来ているのだろう。

 「『よい子でなくてはいけません』と子どもたちに教えるために書かれた話にははっきり書かれたり、ほのめかされたりしている次のような仮説が私は我慢できない。それは赤ん坊はみな同じように生まれるが、少年になりやがて大人の男性になっていく。そのとき差をつくり出す唯一のものは、たゆまぬ努力と高い道徳心の維持だというものだ(当時は少女や女性も注目に値するという考えは、けっしてゴルトンの頭の中には思い浮かばなかった)」

 そして、ゴルトンは自分の代表的著作である『Hereditary Genius(天才と遺伝)』でこう続けている。

 「私は生来平等であるという主張に対しては全面的に反対している」

 ゴルトンの主張はわかりやすい。身長やその他の体型的特徴が遺伝的に受け継がれやすいように、「卓越した能力」も同様に遺伝的に受け継がれているというのだ。ゴルトンは「著名な人はたいてい有名な一族の一員である場合が多い」ことを示すことで、自分の理論を証明したと語っている。

■「天賦の才」の考えが間違っていたとしたら? 

 さらにロンドン・タイムズ紙の死亡欄を細かく調査し、まとめ上げ、とりわけ判事、詩人、軍の司令官、音楽家、画家、聖職者そして北部のレスラーにこの傾向があることを証明した。それは「特定な分野での卓越性は特定の一族に現れている。卓越性を発揮する能力は遺伝によって伝えられ、子どもが生まれると同時に卓越性も現れる」というものだ。

 「北部のレスラーの卓越性の研究といわれてもなあ」と反応したくなるかもしれないが、ゴルトンのことをあまりバカにしないほうがいい。ダーウィンの考え方を体型以外の人間の特徴に適用したゴルトンは、科学を前進させた。ゴルトンは今日のあらゆる科学の分野で不可欠となっている統計上の相関関係や回帰分析の技術を発展させたのだ。

 また、ゴルトンは卓越していることはどこから来るのかという、深い問いかけを自分がしていることをよく認識しており、「生まれつきか修養か(nature versus nurture)」のような言葉も生み出している。そして自らが「天賦の才(natural gifts)」と名づけた科学の分野を確立し、今日においてもその分野は続いている。その業績は現代の学術雑誌である『天才の教育ジャーナル(The Journal for the Education of the Gifted)』や『天才の概念(Conceptions of Giftedness)』という書籍へと引き継がれている。

 こうした背景があるため、「天賦の才」(我々の「才能」と同じ定義)という考え方には、多くの支持者があった。しかし、もしこの考え方が間違っていたとしたらどうだろうか。

 多くの研究者は今や天賦の才が意味するものが何であれ、一般の人が考えているものとはまったく違うものだと主張している。研究者の中には注意深い表現を用いてはいるものの、才能それ自身の存在を証明する証拠はないと主張している者もいる。

 この主張は意外に説得力がある。前述のイギリスにおける音楽の才能に関する研究と同様、達人を対象とした多くの研究で、調査の一環として本人やその両親にインタビューを行い、彼らの輝かしい業績のカギとなる要素を探ろうとした。こうした研究で被験者になったのは、みな卓越した才能の持ち主だ。

■才能という概念を探究する

 しかし、何度やっても研究者は、徹底的な訓練の前から、早熟の萌芽があったという証拠はどうしても見いだすことはできなかった。ときにはそのような形跡が表れたこともあったが、ほとんどの場合そうしたことは起こらなかった。一見、非常に才能があると思える人の例を目にすることはあった。

 しかし、研究者がより多くの例をじっくり研究してみると、少なくとも専門分野でのちに素晴らしい業績を上げるようになった人たちも、そのほとんどは早い時期から才能を示していたわけではない。

 同様の発見が、音楽家、テニスプレーヤー、アーティスト、水泳選手、数学者を対象とした研究でも明らかになっている。もちろんこれらの調査の成果は、才能が存在しないことを証明しているわけではないが、おもしろい可能性を示している。つまり、生まれつきの才能が仮に存在するとしても、それは重要ではないかもしれないという点だ。

 ひとたび訓練が始まると私たちはその才能がひとりでに現れてくるものと思ってしまう。たとえば、他の子どもたちが弾くのに6カ月もかかる曲を、小さなアシュレイはたった3回のピアノレッスンで弾いてしまう。しかしこうした早熟の才能は、後年になって偉業を達成する人々に確実に起こっているわけではない。

 たとえば傑出したアメリカのピアニストを対象とした研究で、6年間の徹底的な訓練を経たあとでも、最終的にたどり着くピアニストとしての高い能力を予想するのは困難だった。6年間の徹底的な訓練の時点では、まだ他のライバルとの間で傑出した存在になっているわけではない。結果論でいえば、彼らにはみな才能があったといえるかもしれない。しかしその才能というのは6年間の厳しい学習の後でも現れてこないものだとすれば、どうも奇妙な概念のように思えてくる。

 まだ幼い自分の子どもの才能が、自発的に開花されることを両親が報告するケースがわずかばかりあるものの、その真偽は疑わしい。非常に早い時期からしゃべり、文字を読みはじめたと報告されている子どもたちのケースを研究者は検証したが、子どもの発達や刺激に親が深くかかわっていたことが明らかになっている。親と小さな子どもの異常なまでの親しい関係を考えると何がきっかけとなったのか特定することは難しい。

 たとえば赤ん坊のケヴィンが紙の上に絵の具でグジャグジャに絵を描いたとき両親には子うさぎのように見え、自分の子どもには芸術の才能があると思い込み、あらゆる方法でこの才能を開花させようとしたりする。こうしたことはよく目にする光景だ。事実、研究によればこうした親子間の交流は子どもの能力の格差につながっている。

■特定の遺伝子は見つかっていない

 ゲノム研究の時代において、何が生まれつきで何が生まれつきでないのかという質問はもはや意味がないと思うかもしれない。なぜなら才能はその定義から生まれつきであり、その才能を説明する遺伝子はあるはずだ。問題は科学者が2万強ある遺伝子がどのように関係しているのか、いまだに解明できていない点にある。

 現時点でいえることは、特定の才能に対応する特定の遺伝子が見つかっていないという点だ。それらが見つかる可能性はあるが、現時点ではピアノを上手に弾く遺伝子や投資をうまく行う遺伝子、会計業務を得意とする遺伝子はまだ見つかっていない。

 しかし、これまでみてきた証拠が示しているように、才能に対応する遺伝子を見つけるのはまだ先の話だ。あらゆる分野におけるトップパフォーマーの過去百年の能力開発速度があまりにも速いため、変化するのに何千年も要する遺伝子との関連づけをするには無理がある。

 このことから偉業達成の理由は、遺伝子であると説明するのは不可能だ。もし仮にいえたとしても高い業績の説明に占める遺伝子の役割はとても小さいように思える。才能懐疑論者はすでに集めた証拠をもってしても、才能が神話にすぎないと証明されているわけではないと注意深い物言いをしている。研究がさらに続けば、いずれ特定の遺伝子が特定の偉業と対応していることを突き止める可能性があることも認めている。

 しかし、過去数十年間に行われた何百もの研究がこのことの証明に失敗している。それどころか、この特定のタイプの遺伝子の違い、すなわちもっとも高い能力を決定する遺伝子の違いは存在しないことを圧倒的に大多数の証拠が示している。

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最終更新:3/19(火) 8:32

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