とにかく明るい「枕草子」清少納言が悲劇隠した訳 後世に名を残す名作、執筆し始めたきっかけ

5/26 5:41 配信

東洋経済オンライン

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第20回は、清少納言と定子のエピソードを紹介する。

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■清少納言は絶頂期の定子のもとへ

 まともに正視することができない……。それほど輝く人と出会うことが、人生にはあるらしい。

 『枕草子』を書いた清少納言にとっては、一条天皇が寵愛した藤原定子が、まさにそんな存在だった。几帳の後ろから定子を見て、清少納言はこんな感想を抱いた。

 「かかる人こそは、世におはしましけれ」

 こうした方が世の中にはいらっしゃるのだなあ……。ただただそう感嘆する清少納言の胸中がよく伝わってくる。

 清少納言が定子に仕えたのは、正暦4(993)年。時の権力者となった藤原道隆が娘の定子を一条天皇に入内させて、3年が経った頃のことだ。

 その前年の正暦3(992)年、伊周は19歳の若さで、権大納言に任ぜられている。この時点で、8歳年上の叔父・藤原道長と並ぶことになった。さらに、正暦5(994)年には伊周は内大臣にまで上り、権大納言にとどまる道長を抜き去っている。

 伊周を露骨に引き上げたのは、言うまでもなく、父の道隆である。伊周にとっては祖父にあたる兼家が亡くなると、道隆が摂政・関白となり、政権を我が意のままとした。道隆は定子を入内させるや否や、強引に中宮にし、その一方で長男の伊周を急速に出世させた。

 まさに中関白家の絶頂期に、清少納言は定子のもとにやってきた。

■伊周と一条天皇が徹夜で漢詩を勉強

 定子の姿をただ感嘆して眺めることしかできなかった清少納言。しばらくは、ずいぶんと気兼ねしたようだ。『枕草子』で、次のように振り返っている。

 「宮に初めて参りたるころ、もののはづかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々参りて……」

 立ち居振る舞いなど何もかもにおいて、気が引けてしまったのだろう。「涙も落ちぬべければ」、つまり、涙がこぼれてしまうほど緊張して「夜々参りて」、夜に参上するようにしていたという。

 しかし、そんな清少納言も、月日が経つにつれて、宮中での生活に慣れてきたと思われる。『枕草子』では、一条天皇や定子のそばにいながら、必死に眠気と戦った自身の様子が描かれている。

 そのときは、大納言の伊周が一条天皇のところにやってきて、漢詩について講義をしていたという。

 「いつものように、すっかり夜が更けてしまった」(例の、夜いたくふけぬれば)とあるので、勉強熱心な一条天皇と伊周が学問について話し出したら、止まらなかったらしい。

 眠くなった女房たちが1人、2人と抜けていくなか、清少納言はちゃんと残っていた。だが、「ただ一人、眠たいのを我慢してお控え申し上げていたのですが」(ただ一人、眠たきを念じて候ふに)とあり、かなり睡魔と格闘していたようだ。

 「ほかの女房がいるならばそれに紛れて寝てしまうのですが」(また人のあらばこそは紛れも臥さめ)と、出遅れて退出できなかったことを、後悔しているあたりも面白い。

 先に限界が来たのは、ほかならぬ一条天皇だった。「柱によりかからせ給ひて、すこし眠らせ給ふ」とあるように、柱に寄りかかって眠ってしまったという。

 すると伊周は「もう夜も明けたのに休んでしまっていいのでしょうか」(「今は明けぬるに、かう大殿籠るべきかは」)と寝ている一条天皇に冗談を言って、妹の定子も「ほんとにね」(「げに」)とほほ笑んだという。

 こんな兄と妹のほほえましいやりとりが見られたならば、清少納言もがんばって起きていた甲斐があったというものだろう。しっかり『枕草子』のネタにもしている。

■『枕草子』は伊周と定子の思いやりから生まれた

 伊周は「我が世の春」ともいうべく、目覚ましく出世しているだけあって、振る舞いにもゆとりがあり、自信に満ち溢れている。

 この時点では、いつかは伊周が父の道隆のあとを継いで関白となると、周囲も考えていたに違いない。伊周自身も「自分が関白になり、一条天皇と妹の定子の若き夫婦を支えなければ」と大いに張り切ってたことだろう。

 清少納言による『枕草子』が誕生したのは、そんな兄・伊周の妹・定子への思いやりがあってのことだった。

 あるとき、伊周が一条天皇と定子に紙をプレゼントした。当時、紙は高級品だっただけに「何を書こうか」とずいぶん盛り上がっている。定子はこう言ったという。

 「この紙に何を書いたらよいかしらね。帝は『史記』という書物をお書きになられていますわ」

 これに対して、清少納言は『史記』から「敷き」を連想して「敷き布団といえば……」「枕でございましょう」と答えたところ、定子から「それでは、そなたにあげよう」と紙をもらうこととなり、清少納言は『枕草子』を書いたのだという。

 清少納言が「枕でございましょう」と答えた理由については諸説があるが、『枕草子』を生んだ宮中での心温かな交流は、読んでいて気持ちがほぐされるものがある。

 しかし、清少納言が仕えてからわずか2年後の長徳元(995)年に、道隆が急死すると、状況は一変する。関白の座は、道隆の弟である道兼が継ぐも数日後に病死。「七日関白」と呼ばれるとおり、短期政権で終わった。

 次なる関白は道長か、伊周か――。そう周囲が注目するなか、あろうことか伊周は、弟の隆家とともに「長徳の変」と呼ばれる不祥事をしでかして失脚。伊周は太宰府へ、隆家は出雲へと左遷させれることになった。

 伊周と隆家の兄弟が不祥事を起こしたことで、定子は落飾。出家するという悲運の運命をたどることになる。

 絶頂期からどん底へと一気に叩き落とされた中関白家。この失脚劇が周囲に与えたインパクトは大きなもので、藤原実資の『小右記』でもその顛末がつづられている。

■枕草子では定子の悲劇に触れていない

 だが、清少納言は『枕草子』で、定子が巻き込まれた悲劇について一切、触れていない。ひたすら明るく楽しかった頃の宮中を描きながら、思わず吹き出してしまいそうな、こんな毒舌も織り交ぜている。

 「坊主はイケメンじゃないと説法を聞く気にもなれない」

 「色黒で不美人な女と、汚らしい髭もじゃで、ガリガリにやせた男が、夏場に一緒に昼寝していた日には、目も当てられない」

 何とかして、失意の底にいる定子を元気づけて、笑わせたかったのだろう。周囲からどんどん人が離れていく定子にとって、そんな清少納言がどれほどありがたかったことだろうか。

 「かかる人こそは、世におはしましけれ」。一目見てその姿に感嘆した日からずっと、清少納言は定子を慕い続けたのである。

 【参考文献】

山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

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最終更新:5/26(日) 5:41

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