東海道線や小田急よりも先「日本で4番目」の電気鉄道、実は小田原にあった 自前で発電所も建設
横浜を走った路面電車や港の貨物線、人が客車を押して走った人車鉄道など、神奈川県内には数多くの「廃線跡」があります。旅行・鉄道作家、ジャーナリストの森川天喜氏の著作『かながわ鉄道廃線紀行』(神奈川新聞社)は、同県内の11の廃線をたどる一冊です。同書から、かつて小田原を走っていた「日本で4番目の電気鉄道」小田原電気鉄道(箱根登山鉄道軌道線)に関する部分を一部抜粋して紹介します。
■国府津―箱根湯本間を結んだ電車
「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり」(鉄道唱歌)
1872年、新橋(現・汐留)―横浜(現・桜木町)間に我が国最初の鉄道が開通し、「陸(おか)蒸気」とも呼ばれた蒸気機関車の汽笛が響いた。神奈川県は東京府(当時)とともに、我が国ではじめて鉄道が走った鉄道揺籃の地である。その後、1887年に東海道線が国府津まで延伸されると、そこから枝葉のようにさまざまな鉄道・軌道(路面電車)が延びていく。
その先駆けとなったのが、1888年10月に開業した小田原馬車鉄道(国府津―小田原―湯本間12.9km)だった。
【写真】日本で4番目の電車だった小田原電気鉄道。貴重な明治時代の開業式の様子や戦後の小田原の街を走る廃止直前の姿
この馬車鉄道の開業には、東海道線のルート選定が関係している。国府津以西の東海道線が、「天下の険」である箱根を迂回するため、現在の御殿場線ルート(国府津―松田―御殿場―沼津間)で建設されることが決定すると、鉄道ルートから外れることで街が衰退することを危惧した小田原と箱根湯本の有力者が発起人となり、この馬車鉄道を開設したのである。
同鉄道はその後、自前で水力発電所を建設。1900年3月までに全線の電化を完了し、商号も小田原電気鉄道に変更。京都、名古屋、川崎(京浜急行電鉄の前身・大師電気鉄道)に次ぐ、我が国で4番目、神奈川県内で2番目の電気鉄道開業となった。
そして、電化からおよそ20年後の1919年6月には、新たに箱根湯本―強羅間の登山鉄道を開業。早川橋梁(出山の鉄橋)の架橋をはじめ、7年にもおよぶ難工事の末に誕生したこの世界有数の登山鉄道は、「観光箱根の性格およびルートを一変」(『箱根登山鉄道のあゆみ』箱根登山鉄道刊)させた。
同じ頃、小田原の交通事情も大きく変わろうとしていた。元々、この地に馬車鉄道が敷設されたのは、小田原に東海道線が「来ない」ことが理由であったが、ついに東海道線が「来る」ことになったのである。これには、御殿場線ルートに関わる次のような事情があった。
■「収益好調」でも廃線になった理由は?
御殿場線ルートは最急勾配25‰(1km走るごとに25m上る)という急坂が連続していることから列車後部に強力な補助機関車を連結しなければならず、機関車の配置や乗務員の過酷な作業等が、急増する輸送需要に対応する上でのネックになっていた。
こうした課題は早い段階から認識されていたが、この時期になると「御殿場経由の線路を建設した当時に比べれば、トンネル掘削の技術は格段に進歩」(『神奈川の鉄道 1872-1996』野田正穂ほか)していたことなどから、現在の東海道線ルート(国府津―小田原―熱海―沼津間)の建設が具体化したのである。
当時、「熱海線」と呼ばれたこの新ルートのうち、国府津―小田原間が1920年10月に開業すると、同区間で熱海線と小田原電鉄の軌道が、ほぼ並行することになった。これを受けて小田原電鉄は再三の検討を重ねた結果、同年12月、国府津―小田原(現・市民会館前バス停付近)間の軌道を廃止し、同時に、鉄道省線の小田原駅(現・JR小田原駅)前までの軌道(0.8km)を新設した。
その後、1923年9月に発生した関東大震災の被災などによる経営危機を経て経営資本が変わり、1928年8月に箱根登山鉄道(現・小田急箱根)が設立されると、小田原駅前―箱根湯本間の軌道は箱根登山鉄道軌道線(軌道線=路面電車)となった。
それから7年後、軌道線は再び大きく路線変更されることになる。当時、京浜方面から強羅に向かう行楽客は、小田原駅で改札外に出て軌道線に乗り換え、さらに箱根湯本駅で登山電車に乗り換えなければならず、不便を強いられていた。これでは箱根に直接乗り入れてくる京浜方面からの遊覧バスに対抗するのは難しく、小田原―箱根湯本―強羅間の電車直通運転の実施が、同社にとっての宿願だったが、資金難などから実現できずにいた。
この夢がようやく果たされたのが、1935年10月。小田原―箱根湯本間に新たに鉄道線を開通させ、強羅までの直通運転を開始した。工事内容としては小田原―風祭間に新線を敷設するとともに、風祭―箱根湯本間は、軌道線の「既設線路を一部改修」(『箱根登山鉄道のあゆみ』)し、鉄道線に転用した。
これにより軌道線は、鉄道線と経路の異なる小田原駅前―箱根板橋間(2.4km)のみに短縮され、路線が小田原市内で完結することになったため、「市内線」とも呼ばれるようになった。
その後、戦時下での一時的な運転休止などがあったものの、軌道線は最後まで「収益は好調」(『箱根登山鉄道のあゆみ』)だった。しかし、戦後の自動車交通量の増大による道路改修を機に、1956年5月31日を最後に廃止された。
■小田原駅前から廃線跡を歩く
それでは、小田原駅前から箱根登山鉄道軌道線の廃線跡を歩いてみよう。
小田原駅前の乗り場がどこにあったのか、その痕跡を探してみると、駅東口の商業施設「トザンイースト」(旧・箱根登山デパート)1階の搬入車専用駐車場の脇に立っている「旧市内電車のりば」の案内板は、すぐに見つけることができた。
しかし、当時を知る人によれば、この位置に乗り場があったのは、廃止直前のほんの1~2年間のことであり、それ以前はもっと国鉄(現・JR)駅寄りの場所、現在は箱根登山バス、伊豆箱根バスの案内所になっているビルの位置にあったという。1954~1955年度に行われた小田原駅前整備拡張工事(1955年10月13日竣工)に伴い、乗り場が移設されたのだ。
さて、駅前を出発した軌道線はバス通りを道なりに進み、最初の緑町停留場に停車した。現在、付近には同名のバス停が設置されている。緑町といえば、伊豆箱根鉄道大雄山線にも緑町駅があるが、直線距離で500ⅿほど離れている。
調べてみると、1889年に十字町・幸町・緑町・万年町・新玉町の旧・小田原駅5町(ここでいう「駅」は鉄道駅ではなく、従来の小田原宿などの「宿」を再構成して設置された行政区画)が合同して小田原町が誕生。その後、1966年に市内の町名変更が行われるまで、どちらも所在地は緑町だったという経緯があった。現在の地名では、いずれも栄町となっている。
■現役時代の面影は残っている?
この先にある郵便局と書店は、軌道線が走っていた当時から場所が変わっていない。さらにその少し先では、2021年7月までで閉館となった市民会館の解体工事が進められている。この辺りは小田原城の大手口に当たり、近くには今も大手門の石垣と、朝夕に時報を打つ「時の鐘」(現在の鐘は昭和28年製)が残されている。
市民会館前で、国府津方面から来る国道1号線と合流するが、1920年12月に国府津―小田原間が廃止される以前は、国府津駅前から酒匂川を越え、この国道上を路面電車が走ってきていた。
市民会館の少し先に幸町バス停がある。ここには、かつて小田原電鉄の本社と車庫があった。また、単線だったため交換(すれ違い)場所も設けられていた。ちなみに、小田原駅前―箱根板橋間において、交換場所は幸町のほか、早川口にもあった。
本社前を過ぎ、本町交差点で直角に右折すると、箱根連山が正面の視界に入る。この付近は停留場の間隔がきわめて短く、わずか300ⅿほどの間に「小伊勢屋前」「御幸(みゆき)浜」「幸三丁目」「箱根口」と、4つもの停留場が設けられていた。
箱根口の道路右手には、まるで城のような建物が見える。神奈川県下で最古の商家とされ、製薬・製菓業を営む「ういろう」本店の八棟(やつむね)造りである。店内には路面電車のジオラマが展示されているので、ぜひ立ち寄ってみてほしい。
東洋経済オンライン
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最終更新:11/2(土) 4:32