ライオン宰相・濱口雄幸の直筆に見る凶弾の痛苦 国立国会図書館で閲覧できる死への道程

4/15 10:02 配信

東洋経済オンライン

 OSINT(オープンソースインテリジェンス)が注目される昨今、人生の終わりに触れられるオープンソースが存在する。情報があふれて埋もれやすい現在において、個人の物語を拾い上げて詳細を読み込んでいきたい。

■要人の日記や手紙をありのままに公開

 国立国会図書館といえば国内のすべての出版物を保存していることで有名だが、それ以外にも江戸期以前の古書や議会資料などの一般に流通していない資料も大量に所蔵している。そのうち、近現代に国を動かしてきた人物の私文書などを管理しているのが憲政資料室だ。

この憲政資料室がオンラインで公開しているコンテンツに「国立国会図書館憲政資料室 日記の世界」がある。幕末から昭和までの要人41人が残した日記や手記をピックアップしており、ここから各人の全収録物のページに進むことができる。

憲政に関わる重要な記述が追える貴重な歴史資料だが、歴史上の人物の晩年を本人の筆で辿れるオープンソースと捉えることもできる。たとえば、元米沢藩士で明治維新後に政治家として活躍した宮島誠一郎(1838-1911)が自ら「絶筆」と称して残した毛筆の漢詩や、法学者で大蔵官僚の阪谷芳郎(1863-1941)が亡くなる1カ月前まで記した日記など、亡くなる直前までの心境が読み取れるものも多い。

なかでも注目したいのが、昭和初期に内閣総理大臣を務めた濱口雄幸(1870-1931)が残した日記だ。

 1929年に59歳で立憲民政党初の首相となり、その風貌と厳格な性格からライオン宰相と呼ばれた。金本位制への復帰(金解禁)や軍拡の抑止などを行うなかで、1930年11月14日に東京駅で腹部に銃撃を受けたことで知られる。一命を取り留めたものの、そこから体調が万全に戻ることはなく、翌1931年8月26日に息を引き取った。

 銃撃されてから、一時回復し、再び衰弱して筆をおくまで。その間に何を思い、どんな状況に身を置いていたのか。筆の勢いや執筆頻度、健康だった頃からの変化などから読み取れることは多い。

 憲政資料室は1928年(昭和3年)から1931年(昭和6年)までの濱口雄幸の日記を所蔵しており、その全ページの画像を著作権保護期間満了の資料として公開している。ここから濱口の晩年を追っていきたい。

■突然細くなる文字

 日記の媒体には博文館の日記帳「當用日記」を使っており、1年ごとに4冊が残されている。四女の富士子さんが勧めたのをきっかけに日記を書き始めたという。

 明治時代中期には博文館をはじめとした複数の出版社が日記帳を刊行しており、1年単位でデザインされた日記帳に日々の出来事や思いを綴る風習は庶民の間にも広く浸透していた。濱口の日記も日記帳に印刷された日付や日記欄に沿って記されている。毎年違った色や柄のカバー紙で覆うなどの自己流のアレンジも見られるが、基本的にはデザインに委ねた素直な使い方といえる。

 公開資料で辿れる最初の記述は、昭和3年の元日に万年筆で記された「宮中拝賀式参列後鎌倉ニ赴ク」というもの。その後数カ月はたまに1行で簡潔に議会や来客の予定を書き込む程度だったが、次第に執筆頻度と文字量が増えていき、欄外に文字が溢れる日も見られるようになった。すっかり毎日の執筆が習慣化したことがうかがえる。

 そのスタイルは昭和5年11月11日まで続いたが、翌日の日記から突然文字が細くなり、紙面の空気が変わる。

<十二、十三ノ両日如何ナル故カ記帳ヲ欠グ、明年一月二十一日退院ノ後モ記臆ナシ>(昭和5年11月12日と13日のページより)

 退院した翌年1月21日以降に記憶を掘り起こし、過去に遡って筆を執ったものの何も思い出せなかった様子だ。ここに日常の明らかな断絶がある。

 何が起きたのかは11月14日のページに自ら記している。もちろん後日の筆だ。以下、読みやすさを重視して一部漢字表記を改め、カナ表記をひらがなに代えて、適宜改行しながら引用する。

<岡山県下における陸軍特別大演習陪観のため 午前9時発「燕」号にて出発の間際、8時57分東京駅プラットフォームにおいて 佐郷屋留男(※筆者注:銃撃犯。佐郷屋留雄=さごうや とめお)なる一青年のため、モーゼル式拳銃をもって狙撃せられ 弾丸下腹部に命中重傷を負う>(昭和5年11月14日と15日のページより)

 歴史に残る例の銃撃事件だ。濱口はさらに詳しい状況を後に唯一の自著『随感録』にまとめている。こちらの一部をなす原典の手記『随感随録』も憲政資料室で保管しており、全ページの画像が閲覧できる。主に退院して官邸で療養するようになった昭和6年1月から4月頃までに書かれたようだ。

■その激動は普通の疼痛というべきものではなく

 <それは列車側にいた一団の群衆中の一人のその下から異様なものが動いて「ズドン」という音がしたと思った刹那 自分の下腹部に異状の激動を感じた。その激動は普通の疼痛というべきものではなく、あたかも「ステッキ」くらいの物体を大きな力で下腹部に押し込まれたような感じがした。

 それと同時に「やったな」という頭のひらめきと「殺られるには少し早いな」ということが忽焉(こつえん)として頭に浮かんだ。

以上の色々の感じはほとんど同時に起こったので時間的の遅速は判らないくらいであった。>(『随感随録』の「十一月十四日」のページより)

 この銃撃の現場は現在のJR東京駅の構内にマーキングされており、付近の柱には事件の概要を記したプレートが取り付けられている。

■登院から1カ月経たずに再入院

 銃撃されて直ちに死を覚悟した濱口だったが、東京大学附属病院長の塩田広重医師による手術を受けて九死に一生を得ると、先に触れたとおり、翌年1月に退院して官邸で療養することになる。

 完治を悠々と待つ心境ではなかった。臨時の首相代理には銃撃翌日に外務大臣の弊原喜重郎が勅命されていたが、入院中から衆議院で予算審議を終える2月までには復帰しようと心に決めていた。野党からの登院要請の声も届いているし、国会で成すべきことも山積みだった。一刻も早く登院を果たしたいという思いが当時の日記から偲ばれる。1月27日の日記。

<一、衆院本会議における質疑 本日をもって打切りとなる。以後はもっぱら予算総会に全力を注ぐこととなる。本日の質疑の題目は首相代理問題>(昭和6年1月26日と27日のページより)

 はやる気持ちで病院の階段を上り下りするなどのリハビリを急いだが、退院後も身体の回復具合が思い通りについてこない。それどころか2月下旬から体調が急転して明らかに衰弱する。寡黙な決意の人である濱口をして、弱音を抑え込むのは難しかった。3月1日の日記。

<一、この日よりまたまた腹痛、腹鳴、下痢頻発、食機全く欠乏、症状いちじるしく悪化、上旬の登院可能疑わるるにいたる>(昭和6年3月1日と2日のページより/)

 それでも無理を押して3月10日の衆議院本会議に登院し、翌日には貴族院本会議に出席を果たした。しかし、1カ月もたなかった。3月28日の日記。

 <一、閉院式奉行、病気のため欠席(略)両院議員、政府委員招待、これまた欠席。

 一、この頃体力の衰弱その極みに達す、その原因不明。>(昭和6年3月27日と28日のページより)

 体調は回復せず、4月4日には「腸の癒着を解除する」手術のために再入院を余儀なくされる。ここで現職の復帰を断念し、首相と党総裁の職を辞任することになった。4月9日に2回目の手術の結果を記している。

<一、第二回の手術を受く。左腹部、肋骨の下方に蓄積されたる膿を排出せんがためなり。はたして手術の結果多量の膿出づ>(昭和6年4月9日と10日のページより)

 その後、日記の頻度は極端に落ちる。議会に復帰する思いや日々の体調の変化もほとんど記されず、「直子帰朝す」(4月10日)、「雄彦帰朝」(5月13日)など、親族の動静をまれに短く記載する程度だった。空白のページが続いたあと、6月28日に最後の筆が残されている。

<退院、久世山の自宅に入る>(昭和6年6月28日と29日のページより)

 日記はここで終わっている。一方で『随感録』は、入院中でも体調が良いときに口述筆記で継続していた。憲政資料室にある『随感随録』には収録されていないが、自宅に戻った後も「病院生活百五十日」などのまとまった文章を残している。

 後日、四女を中心に編まれた『随感録』には、最終章として「無題」の短文が収録されている。その冒頭が最晩年の雄幸の心境を端的に表していると思えた。

 <余はすでにひとたび死線を超えた。このうえの死生はただ天命のままである。以前のように生に対する執着もなければ、死に対する恐怖も淡い。もし死ぬるものならば万事休するまでである。>(池井優ら編『濱口雄幸 日記・随感録』より)

 四女・富士子さんの回想によると、自宅療養中もゆっくりであるが快方に向かっており、社会で活動する意欲は失われていなかった様子だ。しかし、8月に急変。月を越えることなく、61歳で息を引き取った。

■来るはずだった未来に向けた書き込み

「日記の世界」では、濱口の盟友であり、GHQ占領下に内閣総理大臣を務めた幣原喜重郎のページもあり、そこから晩年に使っていた衆議院手帖の画像も辿れる。こちらも著作権保護期間満了のものだ。

 幣原は1951年3月10日、衆議院議長在任中に心筋梗塞により78歳で急死している。予想しようのない死だった。それゆえに、手帖には4月8日まで予定が書き込まれていた。

 幣原は先々の予定を書き込むために手帖を使っており、過去を振り返った雑感などはほとんど残していない。いわば未来のための筆だ。過去の出来事や思索を書き留める日記とは、向いている時間の軸が180度異なる。

 ただ、日記で過去を振り返るときも、今後に生かす意識が少なからず含まれているもので、そういう意味では未来のほうも向いているといえるかもしれない。いずれにしろ、濱口の日記と随筆、幣原の手帖がともに書き手の死線を越えて、令和の現代まで誰でも読める状態で置かれていることが興味深いし、ありがたい。

※参考文献
池井優・波多野勝・黒沢文貴編『濱口雄幸 日記・随感録』(みすず書房)
田中祐介編『無数のひとりが紡ぐ歴史』(文学通信)

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最終更新:4/15(月) 10:02

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