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両親の自己破産で「奨学金225万」借りた女性の顛末とは? 金銭的理由で志望校断念も、それでも求めた「大卒」そしてその後の「人生」。

5/22 10:02 配信

東洋経済オンライン

これまでの奨学金に関する報道は、極端に悲劇的な事例が取り上げられがちだった。
たしかに返済を苦にして破産に至る人もいるが、お金という意味で言えば、「授業料の値上がり」「親側におしよせる、可処分所得の減少」「上がらない給料」など、ほかにもさまざまな要素が絡まっており、制度の是非を単体で論ずるのはなかなか難しい。また、「借りない」ことがつねに最適解とは言えず、奨学金によって人生を好転させた人も少なからず存在している。

そこで、本連載では「奨学金を借りたことで、価値観や生き方に起きた変化」という観点で、幅広い当事者に取材。さまざまなライフストーリーを通じ、高校生たちが今後の人生の参考にできるような、リアルな事例を積み重ねていく。
 「中学生のときに両親がそれぞれ自己破産してしまいました。必然的に私の大学進学のためにお金を回すことは不可能になったため、奨学金を借りることになります」

■両親がそれぞれ自己破産、その理由は…

 そう語るのは、栗原つむぎさん(仮名・42歳)。関西出身で下には妹がいる4人家族だ。両親それぞれが自己破産というのも、滅多にないことだが、その背景にはいったい何があったのだろうか? 

 「父は町工場で工場長、母は経理の仕事をしていましたが、もともと裕福ではなかったです。幼い私が見てわかるほど、家にお金がないということは感じられました。

 そのような環境に嫌気がしたのか、ある時、母が会社のお金を着服してしまったんです。

 案の定、それがバレて裁判にまで発展したのですが、最終的に父が横領した額と和解金を肩代わりすることで落ち着きました」

 そして、時は世紀末。バブル崩壊の煽りを受けて、栗原さんの父親の会社もご多分に漏れず、経営難に陥ってしまう。

 「借金返済催促の電話がしょっちゅうかかってきましたが、両親からは『出るな!』と言われたほどです(笑)。そして、私が高校生のときに両親は離婚。私と妹は父に付いていきます。高校生ですが、家族3人、ご飯とふりかけだけで食い繋ぐ時期もありました」

 そんな懐事情のため、栗原さんは高校入学早々、飲食店でアルバイトに励むことになる。ところが、人生は思い通りにはならない。

 「中学生のときに腎臓を悪くしてしまったのですが、それが再発してしまい、高校1年生の夏休みに入院することになりました。必然的にバイトも辞めなくてはならなかったのですが、退院後に新しいバイト先を探そうと思っても、面接で正直に入院していたことをいうと、毎回不採用になってしまいます」

 そこで、栗原さんは「本分」である、学生生活を積極的に楽しむことにした。

 「仲のいいクラスメイトと学校行事に参加したり、手伝ったりするだけでなく、最終的には生徒会に誘われて、学校行事を企画・立案する立場になりました。もう、バイトも決まらないので、学生時代は生徒会に全力でしたね」

 まさに「アオハル」……と書きたいところだが、その一方で家に帰れば家計は火の車。高校は奨学金を借りずに通えたが、それはそれとして家には督促状が届く日々。授業料は銀行口座から引かれる方式だったのだが、残高不足で事務室に呼ばれることもあった。そんなときは、なんとか父親が現金をかき集めて納めていた。

 「家計が芳しくないことはわかっていましたが、父はそのことを言わずに私と妹を育ててくれました。もし、本気で『お金がないんだ』と言ってくれたら、入院していたことなど言わずに、もっと必死にバイトを探して働いていたと思います」

■大学進学は学資保険を当てにしていたが

 自らのせいではないが、常にギリギリの生活を送っていた栗原さん。それでも高校卒業後は大学進学を見据えていた。

 「昔から両親に『あなたは大学に行くんだからね』と言われて育ったため、私も当然進学する気満々でした。当時はIT革命を『イット革命』と呼び間違えた森喜朗が首相だった時代。Webに関するクリエイティブな仕事が出始めていたため、私も大学を卒業してそういった仕事に就きたいと思っていました」 

 将来の夢もすでに決まっており、専門学校より幅広い学問を学べそうだと思い、クリエイターに特化した科目・専攻がある私立大学を志望していた。ところが、事態はまた大きく変わってしまう。

 「母から『学資保険に入ったよ』と聞いたので、安心していたのですが、実は入っていなかったことが後から判明しました。もしかしたら家計の状況で解約したのかもしれませんが、聞いていませんでした。

 母は着服した前科があるのに、お金に関して楽観的というか無自覚というか。きちんと伝えてくれませんでした。

 そうすると、父の少ない給料でなんとか高校を卒業できるかどうかという状態だったので、将来設計を考え直す必要も出てきます。高校卒業後は就職という道もありましたが、大卒給のほうが将来的に安心できると思って勉強を頑張っていたのと、親の事情で進学を諦めるという決断ができませんでした」

■高校3年生で初めて知った奨学金という存在

 すでに乗りかかった船である。今さら降りることはできない。そんな中、栗原さんは高校3年生で初めて奨学金という存在を知ることになる。

 「当時はインターネットもなかったので、なにか調べ物をするときは先生に聞くか、本を読むことしか方法がありませんでした。そんなある日、担任の先生がホームルームで『第二種奨学金(有利子)の締め切りが近いので、応募する人は早めに申請してくださいね』と、クラスに呼びかけたんです。そこで、『大学進学を諦めなくてもいいんだ!』と安心することができました」

 その先生からの案内があった時点ですでに第一種奨学金(無利子)は締め切られていたため、早急に第二種の申請をすることになる。

 「そのときは文化祭実行委員のOGとして生徒会を手伝いながら、受験勉強をしていました。また、生徒会の顧問の先生が奨学金を担当されていたので、同時に奨学金申請のための対策の相談にも乗ってくれていたんです」

 「対策もなにも第二種であれば普通に借りられるのでは?」と思う読者も多いだろう。ただ、栗原さんが高校生だった90年代後半は第二種が「きぼう21プラン奨学金」と呼ばれていた時代でもある。現在とは異なり、小論文と面接があったという。

 「進学校に通っていたので、周りも進学するのは当たり前だったのですが、奨学金を借りたのは私ともうひとりだけだったのは、やっぱり少し恥ずかしかったですね」

 こうして、無事に志望校にも奨学金の面接にも受かった栗原さん。しかし、ここでもまたお金に関する問題が発生してしまう。

 「私のリサーチ不足で、大学の入学金と前期の学費は、入学前に支払わないといけないということを、後から知ったんです……。奨学金に関してもリサーチ不足だったため、『入学後に毎月一定額振り込まれる』ので、大学と奨学金機関との連携ができていて、なんとかなると思い込んでいました」

 そこで、栗原さんは志望していた大学への入学を断念して、思い切った方向転換をする。

 「後ろ髪を引かれつつも、大学にはどうしても入りたかったので、急いで夜間部の試験を受けることにします。入学する予定の大学の受験科目にはなかった、世界史が試験科目に入っていたので、2週間という短い期間で猛勉強して、なんとか第二部(夜間部)に合格することができました。

 もしかしたら他の奨学金制度で解決できる方法もあったのかもしれませんが、その時は調べる時間もなく合格することに必死でした」

■4年間で借りた金額は225万円

 こうして、紆余曲折ありながら、なんとか大学に入学することができた栗原さん。夜間部は昼間部よりも学費は安いが、それでも奨学金がなければ通えない。

 そこで、栗原さんは4年間で第二種を225万円を借りることにした(学費は入学金込みで208万円)。

 「ただ、ここでも入学金は事前に払わないといけないので、父がかき集めた現金で入学することができました。父には感謝しかありません。

 それで、いざ大学に入ってみると講義は夜なので、週4~5日は7時間程度バイトを入れるようにしていました。貯金額と生活費だけで、毎月10万円近く稼いでいましたね。大学も家から通える距離にあったので、バイトから支給される交通費で大学に通っていたといってもいいくらいです(笑)」

 これまで、散々お金で苦しい思いをしてきたため、まずは貯金に全力を注いだ栗原さん。それでも、高校時代同様、大学生らしいことも経験していた。

 「サークルはジャズ研に入っていたので、頻繁にスタジオ練習があるんですよ。その際のお金はバイト代から捻出していました。その一方で、夜間部の学部は適当に選んでしまったため、そこで学んだことは、その後、人生の役に立つことはありませんでしたが、とにかく貯金と『大卒』の称号を得ることはできました」

 そして、4年かけて無事に大学を卒業。その後は高校時代に志していたクリエイティブ業界とは違う職種を選んだ。

 「ここまでの経歴を見ていただいてわかると思いますが、私は『就職氷河期』の最後の世代でもあるので、なかなか就職先が決まらなかったんです。他方でクリエイティブやITへの興味を忘れられず……。

 当時はSEを目指して、就活と同時並行で専門学校に通いながら勉強していたのですが、ある時、偶然その専門学校の求人を発見したんです。そして、そのまま採用試験を受けたら、受講生ということを物珍しがられて採用されました(笑)」

 そして、入社後はECに関わる部署やシステム部に配属されたため、希望していたIT系の仕事に携わることができ、就職後は家にお金を入れることもできた。

■社会人になってからも学び続けた

 無事に希望していた仕事に就くことはできたが、若い栗原さんにはまだまだやりたいことがあったため、専門学校で仕事をしながら、デザイン関係の専門学校にも通い始める。

 「教育の仕事は楽しかったのですが、もっと自分で企画したものを作りたかったんです。そこで、学費も半年で70万円はしましたが、貯金を取り崩してステップアップのために専門学校に通ったんです。

 そうしていると、優秀作品展に選出していただき、学生時代から夢見ていたクリエイティブ系の仕事に転職することができたんです」

 もともと、志望していた大学には入れなかった栗原さんだが、目指していた自分にはなれた。ところで、いくら貯金があったとはいえ、奨学金の返済はつつがなくできたのだろうか? 

 「毎月の返済額は1万4000円~2万4000円くらいでしたが、給料を20万円以上もらえていたのと、実家住まいだったので、特に苦労した記憶はありません。結婚後、残り2年間の返済期間があったのですが、もう早く返したくて数年前に繰り上げ返済しました」

■「大卒」という称号を得るための奨学金

 金銭的な事情で大学進学を諦めずに進学を果たし、就職氷河期を乗り越えて夢見ていた仕事にも就き、10年くらいの時間をかけて奨学金を返済した栗原さん。やはり、奨学金がなければ彼女の物語は始まらなかったと言えるだろう。

 「結局、この社会では『大卒』という称号があったほうが、就職面では断然有利です。そういう意味では、夜間部の興味のない学部に無理して入学しましたが、卒業したことで私も『就職への切符』を手にすることができたと思っています。

 とはいえ、10代の頃の一連のお金のない時期に関しては、今もコンプレックスを抱いていますね。それを克服するために、専門学校に通ったりして、スキルを磨いていた気がします」

 充実した毎日を送る栗原さんだが、今でも「あの時、志望校に入ることができたら、自分はどうなっていたのだろうか?」と、悔やむこともあるという。

 そのため、今の奨学金制度に関しては、家庭の状況にかかわらず、自分の進みたい道への教育を受けられる制度になることを願っている。

 「もっと学生たちの細かいニーズに合わせた、プランがいくつも用意してあるといいですよね。『奨学金は国公立に通う優秀な学生のためにある』という世間のイメージはいまだにあると思いますが、他方で私のように『将来返せるかはわからないけど、とりあえず託してほしい』という学生もいます。そのため、それぞれに奨学金という選択肢は残しておいてほしいんです。奨学金を借りることで、叶えられることもたくさんあると思います」

 また、入学金の事前振り込みで入学を諦めた過去や、夜間部が現在、なくなりかけていることから、大学側に変革してほしい部分もいくつかあるという。

 「今でこそ、入学金のために奨学金を一括で貸してくれる制度はありますが、それが20年前にあれば私の未来も変わったかもしれません。このように奨学金を貸すほうがフレキシブルに変化している時代のため、大学側にも学生一人ひとりに柔軟な対応を取ってもらいたいと思っています。

 それと給付型奨学金が今は増えているとは聞きますが、学費以外でも金銭的に支援してくれる制度がもっと充実するといいですね。奨学金制度がより変わっていくことで、夢を叶えられる人がもっと増えるのではないかと思うんです」

本連載「奨学金借りたら人生こうなった」では、奨学金を返済している/返済した方からの体験談をお待ちしております。お申し込みはこちらのフォームよりお願いします。奨学金を借りている/給付を受けている最中の現役の学生の方からの応募や、大学で奨学金に関する業務に関わっていた方からの取材依頼も歓迎します。

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最終更新:5/22(水) 10:02

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