現代人がこれほどボードゲームに熱中する深いワケ…ゲームマーケット開催直前、改めて魅力に迫る
ここ数年、様々な場で、ボードゲームを目にすることが増えてきているのではないでしょうか。学校で、友だちの家で、時には企業の研修などでも使われることも増えています。2015年頃から出店数が増えてきたボードゲームカフェは、いまや学生の遊び場所の1つとして定着していると言えるでしょう。
1996年からボードゲーム情報を掲載するブログTGiW(Table Games in the World)を更新している(2009年からは毎日更新)、ボードゲームジャーナリスト・小野卓也さんと、自身が鬱から回復する中でボードゲームを楽しむようになり、社会におけるボードゲームの価値について深く考えるようになった評論家・與那覇潤さんが、ブームの深層を読み解きます。
書籍『ボードゲームで社会が変わる』からの抜粋記事です。
與那覇 ボードゲームについて「どこがそんなにいいの。デジタルじゃダメなの?」と聞かれた際、ぼくは「自然に『メタゲーム』が生まれる点がいい」と答えます。対面でテーブルを囲んでプレイすると、自分がそのゲームで勝ちたいと思うのと同時に、「同席しているみんなにも、自分と同じくらい楽しんでほしい」というミッション意識が湧きますよね。これが、プレイするボードゲーム自体よりもひとまわり大きい「メタゲーム」ではないかと思うのです。
これはコロナ禍で一時的に流行した「Zoom飲み会」が結局、対面での飲み会ほど定着しなかった理由とも似ています。パソコンの前で缶ビールを開ける形の飲み会には、確かに遠隔地の人とも楽しめる利点がありました。しかしコロナが終わった後も習慣として続けている人は、ほぼ見ません。
小野 まさにこの対談自体、一部は山形と東京をつなぐZoomで収録していますが、メインパートは「ゲームマーケット」のために私が上京する機会を活かして、対面形式で行っています。やはり「同じ場所」を共有しない形でのコミュニケーションには、無理があるんですよ。
■「目的がない」のは楽しい
與那覇 遠隔でのオンラインゲームの対戦だと、互いに顔が見えないから「相手は楽しめているのかな?」とは想像せず、自分が勝つことだけに集中しがちです。しかしテーブルを囲んでボードゲームをしている際に、隣の人はどうもルールが吞み込めてないとわかった時、「よし。こいつの理解不足につけ込んで、俺が圧勝しよう!」とは普通思わない。
むしろ「ちょっと難しい?」のように声をかけて教えあったりして、全員が同じように楽しみたいという気持ちが自然に湧きます。結果として、ゲームの上ではむしろ負けてしまったとしても、「みんなでいいプレイができたな」とする満足感の方が勝るからです。
小野 いわば利他心(=他のプレイヤーに楽しんでほしい)が利己心(=自分が満足したい)と矛盾せず、一体の形で自然に発揮されるわけですが、この「自然さ」が大事なんですよね。
リワークデイケアでボードゲームが趣味になった與那覇さんでも、もし「みなさんには協調性を身につけてもらう『ために』、プログラムの中でボードゲームをやってもらいます」のように言われていたら、そこまで好きにならなかったのではないですか?
與那覇 おっしゃるとおりです。あらかじめ「目的」を設定してしまうって危険なことで、「このゲームを10回やれば、うつが治るからやりなさい」と言われたら、11回目をプレイするデイケア利用者は誰もいないでしょう(笑)。「治らなかったから、もういいや」となりますから。
小野 そうなんです。遊びが持っている最大の力は、「目的は?」という問いをいったん無効にしてくれることなんですね。とはいえ「遊びの再評価が必要だ」のように主張すると「何の『目的』で再評価するんですか?」と、やっぱり聞かれちゃいがちなんですけど。
■「目的がない」体験が心のスイッチを入れる
與那覇 ぼくはうつ状態の体験から、メンタルが良好だというのは「目的志向の語り方が、心に響く状態にある」という意味だと思っています。健康な時には自分の行動の理由を、目的を示す形で語れますよね。働くのはお金を稼ぐ「ため」で、稼ぐのは美味しいものを食べる「ため」だ、のように。
しかしうつになると、そうした目的の提示はまったく無益になります。お金があったところで、気持ちがどん底なら意味ないじゃん。美味しいものが食べられたところで、うつで味覚が消えてるから関係ないじゃん、としか感じられませんから。むしろその時にもう一度心のスイッチを入れてくれるのは、まさに「目的がない」体験の方なんです。
うつで生きるエネルギーが低下した状態で、みんながデイケアの机を囲んで座っている。そのとき「治療に有効だぞ!」ではなく、ただ黙っているのもなんだから、別に目的はないけれど何か一緒にやろうよと。それでお昼休みに軽めのボードゲームを出すと、盛り上がってお互いの距離が縮まり、「この人とは、明日も楽しく過ごしたいな」といった主体性が戻ってきます。
■本来の「遊び」を体感できるのがボードゲーム
小野 「目標にむけて努力する」といった枠組みから、人生を一度外してみるということですね。もちろん生きる上で目標をめざすことは大切ですが、しかしそれだけが人生のすべてではない。
もし「私の生きがいはお金です」「いや、私は名誉です」と発言する人がいたら、どこか不自然に感じますよね。生きがいと言ったとき、それは特定の獲得目標のような形では表せない、人生のもうひとつの価値を示している。別に何かを求めているわけではない、その意味では「ただ生きているだけ」に過ぎないのだけど、そこにこそ価値があるというニュアンスが「生きがい」にはあるわけです。
実は「遊戯」という言葉は、仏教用語としては「ゆげ」と読みます。「ゆげ」とは、菩薩は色んな人を助けてあげるけど、その人助けは「けっこう遊びでやっているんですよ」とする思想を指すもの。あくまでも自然体で、当たり前のことのように軽く営む善行が「ゆげ(遊戯)」。人類の救済といった崇高な「目的」を設定し、無理や我慢をしてでも貢献せよと唱える発想とは逆なんです。
與那覇 言われてみるとボードゲームに限らず、上達するという「目的」を置いてプレイすると、かえって到達できる上限は低くなりがちですよね。サッカー選手やバイオリニストが典型ですが、本当に上達する人は「うまくなるぞ!」と思って訓練するというより、本人が楽しいから練習自体が日常生活における「自然」になって、結果としてトッププレイヤーに育つような。
小野 ええ。ボードゲームだけでなくスポーツを「する」のも、あるいは楽器を「演奏する」のも、英語で言えばplayでしょう? これはドイツ語のspiel(シュピール)も同じですが、とにかく具体的な行為としては指すものが広い。しかし「必要に迫られてやっているのではない」という点では、それらの多様な行為がみな共通している。これが「遊び」(play/spiel)の感覚なんです。
東洋経済オンライン
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最終更新:11/15(金) 13:02