「エジプト」現地在住・世界史講師が語る深い魅力 一度は訪れたい「世界史的絶景の宝庫」

4/4 17:02 配信

東洋経済オンライン

海外旅行は好きでよく行っていたけれど、世界史の知識は断片的でなんとなく見て終わってしまっている……という旅行者も多いと思います。このような人に向けて、世界史を「歴史的名所=人気の観光地」という切り口で解説するのは、代々木ゼミナール世界史講師で、『人生を彩る教養が身につく 旅する世界史』の著者である佐藤幸夫氏。

「歴史を知れば、『ただ見るだけ』より旅が100倍楽しめる」と主張し、今はエジプトに在住する同氏が、エジプトの絶景ポイントを歴史とともに語ります。

 今から5000年くらい前に、ナイル川流域が統一されてできたエジプト王国。古王国→中王国→新王国と3000年弱続き、紀元前の時代に世界の中心をなしました。古代大河文明の一つ、ということで歴史の授業をうっすらと覚えている人もいるでしょう。そんな歴史の登場人物や遺跡を、観光地をめぐるように解説していきます。

■エジプト王国の発展と衰退

 古王国の時代はピラミッド時代と言われ、クフ・カフラー(スフィンクスがある)・メンカウラー王の三大ピラミッドはナイルデルタの南端のギザ地区にあります。中王国の時代は、ナイル川中流域のテーベに遷都しました。テーベの都市神アモンは、エジプトの最高神で、全知全能の神とされる太陽神ラーと結合してアモン=ラー神となり、長い間信仰されました。しかし、メソポタミアからやってきたヒクソスに、一時支配されてしまいます。

 ヒクソスを追放して成立した新王国の時代に古代エジプトは絶頂期を迎え、トトメス3世の時にシリアからスーダンまでの最大版図になりました。しかし、アモン=ラーの神官団が強大化して政治に介入するのを排除するために世界初の宗教改革が行われます。アメンホテプ4世です。アトン神を唯一神とし、自らの名前を「イクナートン(アクエンアテン)」と改名、都もテーベからテル=エル=アマルナへ遷都し、権力を国王に集中させます。

 しかし、急激な変革や自然災害などが相まって失敗、彼の死で再びアモン=ラーを中心とする多神教が復活しました。彼の妃がネフェルティティで、後継者になったのがツタンカーメン王です。前13世紀に登場したラムセス2世は強大な王権を復活させ、領土を拡大し、のちに「征服王」とも呼ばれました。シリア遠征でヒッタイト人と戦い、世界史上初の講和条約を結んでいます。これ以降は、衰退してしまいました。

 新王国滅亡後は、オリエント世界を統一したアッシリア、アケメネス朝ペルシアの支配下に入ります。アレクサンドロス大王の没後、プトレマイオス朝が成立し、この王朝の最後の王が、あの有名なクレオパトラ7世です。彼女はローマの将軍カエサルと結婚しましたが、彼の死後はローマと対立。ローマの将軍アントニウスを味方につけましたが、前31年のアクティウムの海戦でローマ軍に敗れて自殺し、プトレマイオス朝は滅亡しました。

 前30年にはローマに支配され、ローマの東西分裂後には東ローマ帝国の領域に入りましたが、7世紀初めに成立したイスラーム教が教団国家を設立し、領土拡大を図り、シリア・エジプトはイスラーム勢力の支配下に入りました。

■オスマン帝国の支配下へ

 10世紀半ばに北アフリカから侵攻してきたファーティマ朝がカイロを建設し、そこに世界最古の大学とされるアズハル学院が設立されました。その後、イスラーム文化の中心としてカイロは大繁栄します。

 12世紀に建国されたアイユーブ朝の建国者サラディンは、十字軍が建国したイェルサレム王国を破り、聖地イェルサレムを奪回しました。これに対して行われた第3回十字軍との戦いでも勝利をおさめたものの、キリスト教の捕虜の返還やキリスト教徒の巡礼を認めるなど、寛容な姿勢を貫いた王として有名です。13世紀にトルコ人奴隷(マムルーク)によって建国されたマムルーク朝では、紅海からアラビア海そしてインド洋にかけて、カーリミー商人によるダウ船交易が栄え、エジプトに富をもたらすも、大航海時代に入りポルトガルがアジアに進出すると、アラビア海の制海権は奪われ、経済的に衰退していきました。

 16世紀初め、オスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを支配すると、エジプトは、オスマン帝国全体を支える穀物供給地として重要な役割を持つようになりました。さらに、スエズ地峡から紅海・アラビア海へ抜けるルートが注目されるようになり、エジプトの重要性は増していきました。そのようなタイミングで、イギリスのインドへの航路遮断を狙った軍人ナポレオンがエジプト遠征を仕掛けます。しかし、オスマン皇帝によって派遣されたアルバニア人傭兵隊長のムハンマド=アリーがこれを撃退。以降、彼はエジプト総督となり、19世紀半ばには事実上独立を成功させました。

 ムハンマド=アリーは、トルコの軍人です。彼の名前を冠したモスクは、アラブ式ではなくトルコ式の、エジプトでは珍しいモスク。

■植民地化と脱植民地の時代

 1860年代の綿花価格高騰により、エジプトに経済的な大繁栄がもたらされました。しかし70年代の世界的不況により財政難に陥り、イギリスの保護国となります。脱植民地への歩みと反植民地主義への影響を振り返りましょう。

 シナイ半島の西端にスエズ運河が開通すると、ますます世界経済におけるエジプトの重要性が増していきました。しかし、1870年代の世界的な不況も相まって財政難に陥ると、エジプト政府は保有するスエズ運河会社の株をイギリスに売却してしまいます、これを機にイギリスによるエジプト進出が始まり、1881年に起きたウラービー運動(反専制・反英)の鎮圧後、イギリスの保護国となりました。

 第一次世界大戦後の1922年に独立に成功しましたが、スエズ運河とスーダンはイギリスとの共同管理となるなど、イギリスの影響が強く残っていました。そうした中、第二次世界大戦後の1952年に自由将校団(ナギブ・ナセルら青年将校)によるエジプト革命が起き、約5000年続いた王政は終焉、“エジプト共和国”が成立しました。

 まもなく大統領となったナセルはアラブ民族主義と社会主義を掲げてソ連に傾倒していきました。こうした中、1956年にアスワン・ハイダム建築融資を米英に拒否されたことで、スエズ運河を国有化し通行税を建築費に充てようとします。こうして始まったのがスエズ戦争(第二次中東戦争)です。結果的にはエジプトを攻めた英仏・イスラエル軍が国連による即時撤退要請を受け入れたことでナセルの名声は高まり、1950年代後半から60年代にかけて第3世界で台頭する反植民地主義に強い影響を与えることとなりました。

 「ピラミッド!」「スフィンクス!」だけにとどまらないエジプト観光地の魅力がおわかりいただけたでしょうか?  ぜひ一度、その目で歴史をご覧になってみてください。

 ※記事内の写真は、すべて佐藤幸夫エジプトツアー2023参加者により撮影されたものです。

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最終更新:4/4(木) 17:02

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