なぜ、日本では傑出したリーダーが出にくいのか 日本社会をダメにする「二重の選抜」の非効率

5/18 7:02 配信

東洋経済オンライン

ビジネスエリートにとってリベラルアーツは必須の知識と言われている。そもそもリベラルアーツとは何か。なぜリベラルアーツが必要なのか。
前回に続き、3万5000部超のベストセラー『読書大全』の著者・堀内勉氏と、リベラルアーツに関する著作が多数あり、講演や企業の研修においてもリベラルアーツの重要性を訴えている山口周氏が、リベラルアーツや教養をテーマに縦横に語り合う。

 堀内:最近、JTCと言われるいわゆるジャパニーズ・トラディショナル・カンパニーでは、若いうちに何らかの選抜が行われ、部長や執行役員レベルになるとだんだん教養が求められていきますよね。私が見てきた狭い世界の話かもしれませんが、その前に実務家としての能力や実績での選抜があるので、山口さんのように教養を身に付けてきた人はその手前でほとんどが淘汰されてしまうような気がします。

 淘汰されずに残った人は、若い頃は仕事に必死で教養などを学ぶ時間がなかったような人たちばかりで、急に「これからは会社のマネジメントをするのだからリベラルアーツとか教養を学ばなきゃいけないよ」と言われて、もともと勉強してこなかった人たちだけで突如エグゼクティブプログラムに行かされるような仕組みになっていますよね。でも、急に変わりなさいと言われても今から変わるのは難しいと思うのですが。

 山口:社会学者である竹内洋氏(関西大学東京センター長)が『教養主義の没落』の中で書いていることですが、1970年代までは教養主義は大学キャンパスの規範的な文化であって、読書による教養主義というのは、人格の形成や社会の発展のために、学生の間で疑いようのない信念として共有されていたと。京都大学の学生が教養書を何冊読んでいるかという当時の調査では、10日に1冊読む学生が半分以上、ほとんど読まないと答えた学生は1%しかいなかったということです。

■80年代以降、大学がレジャーランド化

 「大学のレジャーランド化」という言葉について、自身でも調べたのですが、『現代用語の基礎知識』のレジャーランドの項目に、「遊び、学生が遊んで過ごす現在の大学」という説明が入ったのが1985年からです。そのあたりから大学や大学生の意識に変化が起こったと考えられます。

 これは、日本の経済というのはほっといても良くなるとか、名のある会社に入って、それなりにやっていれば別荘の一軒ぐらいは持てるようになるみたいな、きわめて楽観的な将来見通しを持つようになったという時代の影響を受けていると思われます。

 1980年代半ば以降、まったく教養書を読まず、教養的なことを知らないのを恥ずかしいと思う感覚がエリートからなくなっていくわけです。それで、40代後半~50代になって、君たちもそろそろそれなりの立場なのだから教養を身に付けろと言われて、いきなりアリストテレスなどを読まされてすごく苦労することになっています。

 私が常々指摘していることですが、日本には「二重の選抜」という非効率が存在しています。日本では、大学教育も含めて、まずは現場の担当者として優秀な人物を育て、その優秀な人の中からリーダーを選抜するシステムになっています。大学入試共通テストに代表されるペーパーテストが象徴的ですが、日本では実務の処理能力が最も高い人を選ぶというシステムで動いているわけです。

■数十年かけてリーダー候補を選抜する非効率

 官僚の世界やかつての都銀などは、優秀な大学を出たエリートたちが、まずは現場で処理能力を競う仕事をさせられて、その中で高いパフォーマンスを挙げた人が管理者になる。そうした競争というか、スクリーニングが学生の頃から社会的に行われているわけです。

 スクリーニングで生き残った者がリーダーに抜擢されると、従来のような処理能力の速さだけではダメだと。大局的な視点でものごとを捉え、倫理観のようなものも含めて、大きな判断ができなければならない。あるいは歴史観や、時代感も持たなくてはならないといったことを言われる。つまり、プロ野球選手として優秀な成績を残してそろそろ引退かという人に、今度はラグビー選手として一流を目指すためトレーニングを行うような非効率なことをしているわけです。

 ハーバードやオックスフォード、フランスのバカロレアも、二重の選抜は非効率であるという社会の共通認識があるので、はじめからリーダーになる素養のある人を選抜し、その人たちに対して、徹底したリーダー教育を行っているのです。

 堀内:そうしたリーダーになるべき人たちを選抜する試験のあり方が、日本の大学の入試とはまったく違ったものになっているということですね。

 山口:はい。たとえばアメリカの大学の入試では何よりも論文を重視し、その中でとりわけリーダーシップを体現した経験を問われます。イギリスもフランスも基本的には最初からエリートを育てる考え方なので、エリートに必要なのはリベラルアーツであると。オックスフォードの看板学部のPPE(Philosophy、Politics and Economics)のPの筆頭というのはポリティクスじゃなくてフィロソフィーですし、バカロレアでは理系・文系問わずに哲学が中心科目として課されています。

 当然、社会に出れば若いときはある程度担当者の仕事もやらなくてはいけないわけですが、大前提として、リーダーになる素養を持っている人にそういうトレーニングをしているということです。日本社会はなかなかリーダーが現れないと言われますが、構造的な要因としてスクリーニングシステムが二重に働いていることに難しさがあるのではないかと思っています。

 堀内:つまり、日本ではマネジメントができる人の母数を最初の段階でものすごく絞り込んでしまっているので、優れたリーダーを選抜するための母数も少なくなっているわけですね。

 私が36歳でゴールドマンに入社するときの部長面接が後にパートナーになった小高功嗣さんで、彼は年齢でいうと私の2つ年上でした。最終面接ではパートナーに会っていただきますと言われてお会いしたのが、今はマネックス証券会長をされている松本大さんです。そのときに松本さんから、「堀内さんの経歴書を拝見しましたが、私、堀内さんの大学の後輩なんです」と言われてびっくりしました。恥ずかしながら、そのときは30歳でゴールドマンのパートナーになっていた松本さんを知らなかったんですね。

 ゴールドマンのパートナーと言えば、日本の銀行だったら常務クラスかそれ以上ですから。30歳なんて、当時の日本の銀行だったら完全な平社員で、ひたすら現場仕事の毎日ですよ。松本さんがゴールドマンでものすごい実績を上げたのは確かなのですが、ソロモンブラザーズから転職してわずか4年足らずでマネジメントに向いているということで、一気にパートナーにまで引き上げられるというスピード感にびっくりしました。

 山口:松本さんは外れ値だと思いますけれども。

 堀内:たしかに松本さんは外れ値かもしれませんが、そのような人を引き上げるシステムが会社の中にあるわけです。松本さんがどんなに優秀でも、日本の銀行や証券会社では30歳で役員になることはシステム上あり得ないですから。

■ビジネス社会における教養教育のあり方

 少し話を変えて、ビジネス社会における教養教育について、うかがいたいと思います。山口さんには私が主催している上智大学の「知のエグゼクティブサロン」にリソースパーソンとして来ていただきましたが、私自身も日本や海外の一流大学のエグゼクティブ・マネジメント・プログラムを含めて、今までにいくつかのエグゼクティブプログラムを受講してきました。

 それらのプログラムでは、著名な学者や経営者、起業家などが講師となって、「君たちは将来会社を背負って立つ人物なので、幅広い思考を身に付けてほしい」といった話がほとんどです。こうしたいわゆる「すごい人」が自分たちの成功体験や研究してきた知の体系について話をして、受講している人は「この人たち本当にすごいな、自分も頑張らないといけないな……でもやっぱり自分には無理かな」と感心して帰るのです。

 私は、そのようなプログラムを「ダウンロード型のプログラム」と言っていますけれども、本当にそれでよいのかと思っています。たとえば、大谷翔平の野球の試合を見に行って、大谷がホームランを打つのを見てすごいなとは思っても、自分が大谷になれるとはとても思えないんですよね。一流オーケストラのコンサートもそうですが、本当に感動するのですが、じゃあ自分があんなふうに演奏できるかなんて考えもしない。同じように、すごい講師が出てくるエグゼクティブプログラムでは、話を聞いた瞬間はアドレナリンが大量に出て、「今日はいい話が聞けて充実した時間だった」となるのですが、その先につながらないのです。

 そうした経験を踏まえて、上智大学の「知のエグゼクティブサロン」では完全な水平型のプログラムにしたわけです。そこに講師は存在せず、学者や有識者であるリソースパーソンは問題の投げかけをするだけで、その後はリソースパーソンも我々コーディネーターも学びますし、受講生という立場の参加者もビジネスの立場からアウトプットします。

 お互いが違う人生を生きてきて、それぞれそれなりに何十年もやってきたのですから、何かしら相手に与えるものがあるはずなのです。それをお互いに話して、お互いに聞く。哲学的な言い方をすれば、ヘーゲルの弁証法的にお互いもう一段高いところに一緒に上りましょう……そういうコンセプトで行っています。

 山口さんはいろいろなところで講師をやられていると思いますが、エグゼクティブ向けの教育についてはどのようなスタンスで臨まれていたり、どのようなプログラムを開発されたりしているのか、そのあたりを教えていただけますか。

■即効性を期待しすぎる日本の人事部

 山口:エグゼクティブ向け研修とリベラルアーツということで言えば、有名なのはアスペン研究所ですよね。アスペン・セミナーはとてもいい取り組みなので私自身が行きたいと思うほどですが、日本の一般的な取締役や執行役員クラスに対して、いきなり取り組ませても中途半端な形になってなかなか厳しいだろうという気はします。

 特に日本の人事部は、効果を数字で見せてほしいとか、次の日からすぐに使えることを教えてほしいという傾向が強い。リベラルアーツを役員に学んでほしいということで、京都大学の中西輝政先生やAI研究者の新井紀子先生に来てもらってディスカッションを行うプログラムを組んだことがありますが、驚くことに、人事は「即役立つことが学べたか」といったアンケートをとっていました。

 当たり前ですが、リベラルアーツは次の日からすぐに仕事に活かせる類いのものではありません。結局、この企業からは「参加者の評価が低いので、この1回でやめにしました」と言われ、そもそも何をしたくてリベラルアーツの研修プログラムを始めたのかと叱責した経験があります。

 ですから、プログラムの中身以上にバイヤー、つまりは企業側の問題が大きいと思います。したがって、ダウンロード型、アスペンのプログラム、対話型のどれがいいかということで言えば、参加者のレベルやプログラムそのものよりも、それを差配している人事部門の思惑がすごく気になりますね。

 堀内:いろいろお話をうかがいましたが、最後に、改めて教養とは何かについて、山口さんの考えをうかがえますか。

 山口:難しいですけれども、最近、私が感じていることは、教養とは「市民としての基本的な知的基盤」なのではないかと思います。私たちは憲法で基本的人権を保障され、参政権も与えられるなど、近代的な概念としての市民の権利を与えられています。

 その権利の多くは生まれながらに与えられているものではありますが、民主主義社会を健全な形で維持していくために、権利を与えられている人には一定の責任が伴い、その責任をまっとうするためには、一定の知的基盤を自己で養う義務を負うものだと考えます。

■民主主義の基盤が脅かされている

 しかし、今、世界の至るところで、民主主義を支える知的基盤が脅かされるような出来事が起こっています。アメリカではトランプのような人が出てきて、それを熱狂的に支持する人たちがいる。社会全体には目が向かず、何よりも自分たちの利益を最優先に考える。このような市民が多数になりつつある。

 政治の話だけではなくビジネスの世界も同様で、企業が誤った方向に進んでいるならば、従業員は批判し声を上げなければならないわけですが、昨今は子供でさえ仰天するような不祥事が日本でも起こっています。自動車にわざと傷つけて保険金を水増しするような不祥事は、小学生でも、幼稚園児でも「そんなことしたら、良くないよ」と言うでしょう。

 行き過ぎた資本主義の弊害だという人もいますけれども、私はシステムの問題だとは思いません。資本主義をやめて社会主義に変われば良くなるのかと言えば、そんなことはないでしょう。結局、良き社会とは何か。社会にとって正しいこととは何か。こういった哲学的で根源的な問いに対する解が求められているのだと思います。そのためには、1人ひとりが知的基盤を養う必要がありますし、教養やリベラルアーツを学ぶことも必須なことだと言えるでしょう。

 堀内:多くの貴重なお話をありがとうございました。

 (構成・文:中島はるな)

東洋経済オンライン

関連ニュース

最終更新:5/18(土) 7:02

東洋経済オンライン

最近見た銘柄

ヘッドラインニュース

マーケット指標

株式ランキング