33歳から「5浪で大学院」目指した彼の強い決意。大学も2浪で合格、数々の学び経た彼のその後
浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか? また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。
今回は2浪で北里大学海洋生命学部に合格したあと、広告代理店、高校教員を経て、私塾を経営。その後33歳から慶応の大学院を目指して5浪し、慶応義塾大学大学院社会学研究科に合格。現在は東京経済大学など複数の大学、資格予備校、受験予備校などで講師として教壇に立つ鷲北貴史さんにお話を伺いました。
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■2浪1留、33歳から院試で5浪を経験
今回お話を伺った鷲北貴史さんは、2浪で北里大学に合格した方です。
就活では小さいころからの夢であったラジオ局で役員面接まで残ったものの、あと一歩届かず、広告代理店に就職。その後、高校教員として2年間働いた後に「ヤンキー再生塾」を立ち上げましたが、そこでの悔しい出来事がきっかけで33歳から大学院に入るために5浪を経験します。
2浪が彼の人生にどういった影響を与えたのか。なぜ、33歳から大学院に入るためにふたたび浪人を重ねたのか。お話を伺いました。
鷲北さんは1961年に神奈川県横浜市西区で、父親はサラリーマン、母は専業主婦の家庭で育ちました。
そんな鷲北さんの幼少期は周囲から「神童」と言われるほど優秀でした。
「小学校時代は同学年に240人ほどいたのですが、(勉強を何もせず)放っていても1番でした。中学受験用の模試を受けたら、成績優秀者として名簿に名前が載りました。その一方で、勉強ができるからといって周囲を見下しているひどい子どもでした。人として最低だったと思います」
傲慢だった彼を変えたのは、私立の栄光学園を受験しようとしていた友達に触発されたことでした。「お前が受けるなら、俺も受ける」と言い、友達が通っていた予備校の冬期講習に参加した鷲北さんは、自分よりはるかに勉強ができる人をたくさん見て、衝撃を受けました。
「初めて、自分は井の中の蛙だったと気づきましたね。たいして勉強してないから、当たり前なのですが、栄光学園にも落ちてしまい、今までの自分を否定されたような気分になって泣きました。この失敗がきっかけで、『勉強ができることに何の意味があるのだろう』と考えるようになりました」
一緒に受けた友人も栄光学園の補欠合格が惜しくも繰り上がらず、同じ公立中学校に進むことになります。
■音楽関係の仕事に就く夢を抱く
「勉強ができる」という自信が中学受験の失敗で崩れてしまい、自分の存在意義について考えていた鷲北さんでしたが、中学1年生の終わりくらいに今の生き方につながる出来事が起こります。
「授業中に前に座っていた女の子が、板書をするために前に出ようとしていたのですが、つい彼女を掴んでしまったんです。それで、『○○(女の子の名前)、行かないでくれ!』と言ったら、クラスが爆笑の渦に包まれました。このとき自分は、今までにない快感を覚えて、人を笑顔にできるような人間になろうと思ったのです」
そこから、バンドを組んで学園祭で演奏したり、人を笑わせることをつねに考えてクラスの人気者になった鷲北さん。将来はラジオ局に就職して、音楽関係の仕事をしたいという夢を抱くようになりました。
しかし、学生生活が充実しすぎたことで、気がついたら入学時に140人中10番だった成績は、中学3年生のときに学年で半分より下の位置にまで落ちてしまいました。
「当時の神奈川は内申点重視だったのですが、その点数もよくなかったです。5段階評価で音楽だけ5で、あとは2か3でしたね。ラジオ局に行きたかったので、専門科がある高校に入るという選択肢はありませんでしたし、なんとか入れる普通科高校を探して、創立2年目だった神奈川県立舞岡高等学校に入りました」
小学6年生のときに一緒に栄光学園を受けた友達は、神奈川県有数の進学校、県立横浜翠嵐高等学校に進学。鷲北さんは軽い気持ちで「昔は成績がほぼ一緒だったのに、いいな~」と話したところ、胸ぐらを掴まれ、「お前がチャラチャラしてる間に俺がどれだけ頑張ったか、わかってるのか!」と返されたことで、自分が愚かな人間であると再確認したと語ります。
こうして舞岡高等学校に入った鷲北さん。
ここでも入学当初は450人中8位という好成績だったものの、学生生活を謳歌しすぎて、まったく勉強をしませんでした。
「中学時代と変わらず、目立つことや人を笑わせることをずっと考えていました。高校1年生のときには生徒会長に立候補して、当時の会長がいたクラスに『生徒会は庶民のものだ! お前のやってることは間違ってる!』と演説しに行ったり、組んでいたバンドで、戸塚公会堂で演奏し、300人もの観客が見に来てくれました」
高校1年生で生徒会長になった鷲北さんは「自分はプロのミュージシャンになれるかもしれない」と思い、音楽のオーディションも根気強く受け続けたものの、残念ながら落選続きでした。さらに高校2年生のときには「勉強はできないけど、音楽は自信がある」と思い立ち、音大に行こうと考えたものの、ピアノや声楽の訓練を続けているうちに自分には難しいと断念し、大学受験を決意します。
■上位の成績で入り、高校3年生で最下位
しかし高校3年生を迎えた鷲北さんは、まったく勉強をしていなかったために、ついに成績は学年最下位になってしまいました。
「先生に、『こんなに上位の成績で入って、こんな下になったのはお前だけだ』と言われました(笑)。当時、代ゼミの全国模試を受けたら偏差値25で、10万8000人の受験者で、下から50番目の点数でした。
ところがめでたいことに、(中学受験模試の)上位者名簿に載った経験があるし、ノー勉で県立高校は受かっているし、大学受験は大変だろうけど、『これくらいやれば4大(4年制大学)にいけるんじゃないか』という読みが自分の中であったため、楽観的だったのです」
希望していたラジオ局に入社するためには4年制大学に入ることが必須であったために、大学に行くという目標はブレなかった鷲北さん。一方で高校3年生の10~11月までは課外活動や音楽活動にいそしんだために受験勉強は12月ごろから開始します。
受験に間に合わせるには遅すぎるスタートですが、それでも思ったよりも点数が取れたことで、鷲北さんの自信はさらに増幅してしまいました。
「共通1次試験は510/1000点しか取れませんでした。それでも、『こんなにちょこっと勉強しただけで、50%いくんだ!』と思って、勉強をなめてしまったのです。浪人して大学に行けばいいや! と思い、地元の横浜国立大学だけ出願して、不合格に終わりました」
当時の共通1次試験は実施され始めてから2年目。まだ日が浅かったために、問題が比較的簡単だったことに、当時の鷲北さんは気づかなかったそうです。
こうして鷲北さんの現役時の受験は終わり、浪人を決意します。
浪人した理由を聞いたところ、「とりあえず上位校に行きたかったから」との答えが返ってきました。
「父親が横国大の出身だったので、横国大か早慶に行きたいと思っていました。通っていた高校の卒業生は神奈川大や関東学院大に行く人が多く、偏差値25だった自分は現役で受かるわけがないし、もっと上を目指すことを考えると、浪人をするのは当然の選択でした」
「1浪が当たり前の時代だった」こともあり、代々木ゼミナールの国立文系コースに入って勉強を始めた鷲北さん。
しかし、予備校に通って勉強を続けようと試みても、高校時代からの落差で、夏までは抜け殻のようになってしまいました。
「現役までほぼノー勉だった人間なので、予備校に少しは顔を出していたのですが、授業にまったくついていけませんでした。模試の偏差値は相変わらず30くらいで、いいときが35という感じです。授業がわからないことに加えて、高校時代の文化祭のステージの快感が忘れられなくて、楽しかった高校時代を思い出してしまい、勉強に手がつかない状況が続きました」
それでも相変わらず、「子どものころの自分は勉強ができたから、ちょっとやれば人生逆転できるんだ」と思い込んでいたと語る鷲北さん。
■思わぬアクシデントで2浪が確定
秋からは、1日10時間程度の勉強は続けていたため、現役のときよりも実力がついてきましたが、施行3回目の共通1次試験では、急に問題のレベルが上がり、それに加えて思わぬアクシデントもあって、惨敗に終わってしまいました。
「ちょうどこの年、付き合っていた子がいたのですが、クリスマスのときにいろいろあって別れてしまいました。そんな中、国語の試験で川端康成の『火に行く彼女』が出題されたんです。別れた恋人が夢に出てくる話で、読んでるうちに感動してしまい、試験では自滅してしまいました」
そのほかの科目もボロボロだった鷲北さんの2度目の共通1次試験の結果は、420/1000点と、前年よりも大幅にダウンします。
この年も横浜国立大学と早稲田、慶応、立教と出願したものの、全落ちで2浪が確定しました。
1浪目の受験が終わるころには「2浪する気満々だった」と語る鷲北さん。この年は予備校の授業についていけないと思い、自宅浪人を選択します。
最初に受けた模試では偏差値50と今までで一番の結果だったものの、前年同様、夏までは勉強に前のめりになれませんでした。そんな彼を変心させたのは、早稲田に合格した友人でした。
「舞岡高校時代の友人が母校初の早稲田合格者になったのです。彼に勉強法を聞いたら、日本史の参考書を渡されて、『質問してみ?』と言われました。そこで8代将軍吉宗が何をやったかを聞いたら、やったことと、それが教科書の何ページのどの場所に書いてあるかまでズバリ答えられたのです。
彼はどの科目の参考書でも、何ページのどの場所に何が書いてあるかを正確に言えたんです。そんな彼に『お前、甘すぎるんだよ』と言われて、これだけ勉強しなければ受からないんだと目覚めることができました」
■自分の弱さと甘さを認めて猛勉強
横浜翠嵐高校に行った友人も横浜市立大学の医学部に現役で進んだことを聞き、ようやくすべてを犠牲にして勉強をする決意が固まった鷲北さんは、高校の友達を集めて「俺はバカだ!」と宣言します。
自分の弱さ・甘さを認めた彼は、1つの参考書をボロボロになるまで何度も何度もやり続け、1日平均15時間勉強しました。その甲斐あって、この年の最後に受けた模試の偏差値は60まで到達します。
共通1次試験の過去問でも7割以上の得点が取れるようになり、今年こそしっかりと実力がついたと思った鷲北さん。しかし、4回目の共通1次試験は、前年度からさらに問題が難しくなったために現役時と同じ程度の点しか取れず、方針の転換を迫られることになりました。
「2浪目はさすがにどこかしらに行かないとまずいと思って、何かしら専門性のある理系学部を受けたほうがいいと思いました。横国大と早慶の文系学部にも出願したのですが、北里大学の海洋生命学部ともう1校から合格をいただいたことで、気を抜いてしまい、その後の試験では全落ちしました」
こうして鷲北さんは2つの大学に合格し、北里大学への進学を決めて2浪の生活を終えました。
北里大学に入った鷲北さんは、浪人時代の自身の取り組みに納得がいかず、もう一度受験をしようと仮面浪人を決意しますが、共通1次試験で失敗し、諦めて卒業する決意を固めます。
就職活動では念願だったニッポン放送の役員面接まで残ったものの悔しい不採用。ほかに内定をもらった横浜の広告代理店に新卒で入社します。その後「ヤンキー」たちが多い高校で2年間教員として働き、子どもたちとより深く関わるためにヤンキー再生塾を始めます。
■大学院受験を決意した悲しい出来事
そこでヤンキーだった生徒を更生させて、千葉大学や東京学芸大学に合格させるなど実績を残した鷲北さん。口コミで塾の評判も広まっていったそうですが、33歳のとき、ある事件がきっかけで大学院受験を決意します。
「自分を信頼してくれていた生徒の父親から電話がかかってきたんです。どうやら酔っ払っていた様子でした。その方は旧帝大の出身だったのですが、私の経歴を批判され、『お前に教える資格あんのかよ! この負け犬が!』と言われたんです。
その子は私の塾を辞めて大手の予備校に移ったのですが、結局ついていけずに薬物に手を出してしまいました。自分に説得力のある経歴があれば、このような悲しい結末にはなりませんでしたし、こうした悲しいことが起こる世の中をもっとよくしたい、日本の教育を変えたいと思って、教育社会学者になろうと思いました」
「社会人入試ではなく、ほかの受験生と同じ学力試験で大学院に合格することが、過去との訣別なのだ」と決めて、33歳から大学院の入試を受け続けた鷲北さん。しかし今まで学んだことがなかった教育社会学の勉強に苦しみます。
慶応文学部の科目履修生になり、師匠となる渡辺秀樹先生や、一回り年下の慶応の大学院生に勉強を教わり続けながら、大学院に5回目挑戦し、38歳のときに慶応義塾大学大学院社会学研究科に合格しました。
その後、博士課程まで進んで単位取得退学をし、44歳で大学教員デビューをします。LEC東京リーガルマインド大学、高崎経済大学、大阪体育大学で教壇に立ったほか、現在は東京経済大学など複数の大学で、教育社会学をベースにしたキャリア科目や、リメディアル科目の講義をしています。
鷲北さんに浪人して良かったことを聞くと「努力の結果得たものの大切さを知った」と答えてくれました。
「勉強できなかったときは、僕は人の批判ばかりしている嫌な人間でした。でも、自分が実際に大学教員になってからは、自分の努力の結果で勝ち得たものがあるから、他人のバックグラウンドを理解し、尊重できる人間になったと思います。
振り返ると、高校生のときは僕が教育の道へ進むとはまったく思っていませんでしたね。大学院受験の最初の年は東京大学も受けたのですが、東大の院に落ちた後に、同大の藤田英典先生のもとに研究室訪問した際に『君のような現場主義の人は東大には向いていない、慶応の教育社会学が向いている』とアドバイスをいただいたんです」
■学問はエリートのものだけじゃない
「それで慶応を志望して受け続け、なんとか合格できました。博士課程のときに、学会で藤田先生に再会した際に『君の発表には「志」がある、そのまま突き進みなさい』と言っていただいたときは感動しました。
おバカだった自分でも、学問で道が開けました。学問はエリートだけのものじゃありません。これからも、学生たちに夢を捨てなければ何歳になっても夢は開くので、挑戦を続けることが大事だということを伝えていきたいです」
偏差値25だった過去があるからこそ、伝えられることがある。その信念を持って学生に自身の経験を伝えている鷲北さんの人間性は、浪人の苦悩と挑戦の日々が作り上げたものなのだと思いました。
鷲北さんの浪人生活の教訓:夢を捨てず挑戦を続けていれば、何歳になっても夢はかなう
東洋経済オンライン
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最終更新:12/8(日) 5:32