自民党幹事長、総務会長、衆議院議長などを歴任した衆議院議員の細田博之氏が11月10日、79歳で逝去した。旧統一教会関連団体との密接な関係について説明責任が問われる中、体調不良を理由に衆議院議長を辞任してから1カ月後の急死であった。氏について政治的な評価を下すだけの知見を持ち合わせていない筆者だが、それでも今回、取り上げたのは、彼が「鉄道族」議員の重鎮だったからだ。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)
● 鉄道省、国鉄、運輸省を経て 政界に転身した父・吉蔵
細田博之氏と鉄道の関わりを記すには、まず父の細田吉蔵から語らねばならない。
吉蔵は1912年5月、島根県松江市に生まれた。1932年に東京帝国大学法学部に入学すると、翌年に京都帝国大学で発生した思想弾圧事件「滝川事件」に呼応し、学問の自由と大学の自治を守る学生運動に身を投じた。
昭和恐慌から続く就職難の中、過激な学生運動のリーダー格だった吉蔵にまともな企業に就職する目はなかった。彼は猛勉強の末、高等文官試験(現在の国家公務員採用総合職試験)と司法試験を同時に受験し、合格すると、1936年に鉄道省に入省した。
入省2年目に広島鉄道局運輸部貨物課長に抜擢されると、総力戦体制下の貨物輸送拡充に尽力し、終戦間際の決戦輸送を遂行するなど、「貨物畑」のホープとして活躍した。
1949年に運輸省から鉄道部門を分離して日本国有鉄道が設立されると、生粋の鉄道マンを自任する吉蔵は国鉄入りするが、1952年に「国鉄をよく知る人物を運輸省国有鉄道部長に充てたい」と請われ、しぶしぶ国鉄を退職して運輸省に入省した。
運輸省では国有鉄道部長として国会対策を担当し、後に運輸大臣官房長として国会議員との調整に当たるなど政治との関りを深め、1960年11月の第29回衆議院総選挙島根県全県区で自民党から出馬し、初当選した。
● 都市交通における 吉蔵の二つの功績
政界に進出した吉蔵は、鉄道マンの経験を遺憾なく発揮した。党の交通部会長、大都市交通小委員長、総合交通調査会モノレール小委員長、国鉄基本問題調査会副会長など、政策立案部門の要職に就き、全国通運連盟、全日本トラック協会、日本地下鉄協会といった運輸・交通業界団体の会長を務めた。
島根県選出の運輸族議員というとローカル線建設を推進するイメージを描きがちだが、彼はかねて都市交通に強い関心を抱いていた。運輸省国有鉄道部長時代には、これからの都市交通の主役である地下鉄の整備を促進するため省内に都市交通課を新設し、諮問機関の都市交通審議会を立ち上げた。
地下鉄建設最大のネックは建設費だ。莫大な建設費を負担しては公営地下鉄であっても経営が成り立たないため、かねて補助金の必要が論じられていたが、吉蔵が中心となって建設費の7割を国と地方公共団体で補助する制度を創設し、各都市の地下鉄建設が加速した。
もう一つ大きな功績は、踏切を除去する連立立体交差事業において、鉄道を所管する運輸省と道路を所管する建設省の間に立って調整し、「建運協定」を結んだことである。
実は国鉄と建設省の間で取り交わされた従来の「建国協定」も、吉蔵が役人時代に実現したものだった。こちらは国鉄が費用の3分の1、建設省が3分の2を折半する取り決めとなっていたが、国鉄の財政悪化で費用負担が困難になり、連立立体交差が進まなくなっていた。そこで建設省の潤沢な道路財源を活用し、鉄道側は受益の範囲のみ負担する新たな協定を1964年に締結した。
また都市モノレール整備における補助制度創設にも深く関わっており、現在の都市鉄道の大部分が吉蔵の仕事であるといっても過言ではない。
● 生粋の国鉄マンとしての 国鉄再建に対する深い洞察
1983年12月、吉蔵は第2次中曽根政権の運輸大臣に就任した。第二臨時行政調査会は前年、「国鉄は5年以内に分割民営化すべきだ」と答申し、鈴木善幸内閣も分割民営化方針を閣議決定していたが、生粋の国鉄マンであった彼は国鉄再建を次のように分析する。
「国鉄の借金のうち少なくとも7割位は、新幹線をはじめとする設備投資に要したものだ。利子のつく金を身分不相応に借りて投資をして、収入がそれ程に上がらなかったという形である。道路や港湾のように国が全額を投資するか、大都市の地下鉄のように建設費の60~70%を補助金として出していれば、よほど様子が変わっていた筈。あとは何とかなるだろうと、取りあえず借金で賄ってきたのが、一番大きな原因である(『中央公論』1984年3月号)」
一見すると国がもっとカネを投じて鉄道建設をすべきだったと読めるかもしれないが、吉蔵が指摘するのは、制度設計が不十分だったばかりに、国鉄は必要な設備投資の資金さえもまかなえず、資金調達を借金に頼った結果、首が回らなくなって自滅したという構造的問題である。この他、彼の記した国鉄の抱える課題と改善案は現代から見ても正鵠(せいこく)を射ており、運輸行政、鉄道事業に対する深い洞察がうかがえる。
念願の運輸大臣だったが1年足らずで交代となり、その後は政府、党の要職にはつかなかった。1990年、長男・博之に地盤を譲り政界を引退。その後も地下鉄協会会長などを引き続き務め、2007年に94歳で逝去した。
● 「鉄道族」のサラブレッドとして 父の後を継いだ博之
博之は1944年4月に島根県松江市に生まれ、東京大学法学部を卒業した1967年に通商産業省に入省。1986年に退官して吉蔵の秘書に就任すると、1990年の第39回衆議院議員総選挙で初当選した。
博之は当選早々、地下鉄推進議員連盟の事務局長を務めるなど、父の後を継ぎ鉄道関係の要職を歴任し、後に自民党の鉄道議員連盟会長や、与党の整備新幹線建設推進プロジェクトチーム座長を長く務めた「鉄道族」のサラブレッドである。
しかし、博之には、吉蔵ほどの鉄道への「熱意」が感じられない。もちろん地下鉄推進議員連盟の中心人物として、舞台裏で地下鉄整備関連予算の獲得に尽力したのだろう。
だが、新聞記事に彼の名前が登場するのは、大阪から彼の選挙区である松江を経由して下関に至る山陰新幹線を「実現する国会議員の会」の幹事長として、「費用対効果などで悲観的なことを言われてきたが、北陸新幹線は開通で地域が発展し、計算外の効果があると立証された。必要な投資はすべきだ(2018年2月12日朝日新聞島根版)」とコメントしたことや、北陸新幹線敦賀延伸開業の開通時期が遅れる見通しとなった際に、与党PTの座長として国交省に早期開通を求めたことくらいで、吉蔵の様なリアリズムと大局観は感じられない。
● 日韓トンネル研究会めぐる 旧統一教会との関わり
もう一つ、博之と鉄道の関わりとして「日韓トンネル研究会」の顧問を務めていたことが知られている。これは福岡県から対馬を経由して朝鮮半島に至る全長約230キロメートルの鉄道海底トンネルの実現を目指して1983年に設立された団体だが、背後には旧統一教会とその関連団体の存在が指摘される。
日本と朝鮮半島、満洲を直結する海底トンネルを建設しようという発想は戦前から存在しており、統一教会の専売特許ではない。だが対馬~朝鮮半島間の水深は津軽海峡(青函トンネル)やドーバー海峡(ユーロトンネル)を超える160~230メートルであり、技術的実現性は低い。
また研究会が主張する総事業費10兆円に収まったとしても費用対効果は期待できず、韓国政府も日韓トンネル構想には経済性がないとの見解を示しているが、それでも「事業」が推進されるのは、旧統一教会が献金の口実に掲げているからだとされる。
しかし日韓トンネル研究会の会長は、小泉内閣で法務大臣を務めた元参議院議員の野澤太三氏であり、また2008年には鳩山由紀夫氏と衛藤征士郎氏を中心に、自民、公明、民主、社民からなる超党派の「日韓海底トンネル推進議員連盟」(こちらは道路トンネルの構想だった。2011年解散)が設立されるなど、自民党に限らず政界とのつながりが深いのが実情だ。
旧統一教会との関係を問われた博之は昨年、日韓海底トンネル推進議員連盟の顧問を務めていたことはあるが辞任したとの調査結果を公表したが、すぐに実際は日韓トンネル研究会の顧問だったと訂正したことがある。このことが示すように、顧問は名義貸しであり、具体的な活動をしていたわけではないだろう。しかし、鉄道族を代表する立場でありながら、このような運動に関与していたのは残念な話だ。
とはいえ、細田博之が鉄道業界に貢献した議員の一人であったことは事実である。ここに追悼の意を表し、本稿を終わりたい。
ダイヤモンド・オンライン
最終更新:11/21(火) 8:02
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