じつは歴史研究者からは見向きもされていない幕末の謎、坂本龍馬の「暗殺」をめぐる3つの“考察”
日本史のなかでも根強い人気を誇る坂本龍馬。じつはその暗殺の経緯には多くの謎が残されていますが、東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏によれば、「京都見廻組」犯人説以外にも、いくつかの「説」を類推することができるそうです。
幕末の政情から本郷氏が導き出した、「龍馬暗殺」の真犯人をめぐる推理とは。
※本稿は、本郷氏の著書『日本史の偉人の虚像を暴く』から、一部を抜粋・編集してお届けします。
■歴史研究者からは見向きもされない「龍馬暗殺」
日本史のなかでも、根強い人気があるのはやはり、「戦国時代」と「幕末」ですが、その理由のひとつは、いずれも個性的な英雄が登場し、そのキャラクターに感情移入したり、「推し」にしたりしやすいからなのかもしれません。そのなかでも、とりわけ「幕末」の「英雄」と称される坂本龍馬には多くのファンがいます。
その人気にあやかって町おこしに使われたりもしていますから、迂闊なことは言えないのですが、歴史研究を専門とする身からすると、正直に言えば、坂本龍馬は研究の対象とは言えないのです。
ただし、人気はあるけれども、学問としての歴史研究においては対象にするほどの歴史的人物ではない……、ということで歴史研究者からはほとんど見向きもされない龍馬暗殺ですが、私自身はこの事件を通して、当時のさまざまな勢力の動きをまとめることは、非常に面白いのではないかなと思います。以下では坂本龍馬の暗殺の犯人についてまとめてみましょう。
下手人探しについては、龍馬暗殺の2カ月後に戊辰戦争が始まったため、実際の容疑者取り調べは、明治2(1869)年5月の箱館戦争終結後に実施されました。当初、事件への関与が疑われていたのは、新撰組のなかで主に「暗殺」の任務を担っていたと言われる「人斬り鍬次郎」こと、大石鍬次郎でした。
彼への取り調べが行われましたが、その後、京都見廻組が実行犯であるという証言が出てきたのです。見廻組の隊士・今井信郎を取り調べたところ、犯行を供述し、その結果、今井を含む京都見廻組7名が、坂本龍馬暗殺の実行犯であったことが判明しました。
しかし、今井以外の6名はすでに戊辰戦争で戦死していました。そのため、今井だけが刑に服すことになりました。しかし、今井の自供した内容には矛盾も多く、信憑性に欠けていました。また、禁固刑に服していましたが、わずか2年で赦免となっており、不審な点が多いのです。
京都見廻組は新撰組同様、京都の治安を守る警察組織のようなものですが、有象無象の集まりであった新撰組と違って、主に旗本で構成されたエリート集団でした。剣の達人揃いで、なかでも西岡是心流の桂早之助は小太刀の名手として知られていました。
龍馬が暗殺されたのは近江屋の室内でのことです。かなり狭い部屋で、大人2人が立つこともままならないくらいの広さでした。通常の刀を振るうことは難しかったでしょうから、犯人は小太刀で龍馬を斬りつけたと考えられます。それゆえ、小太刀の使い手である桂早之助が龍馬暗殺の下手人だと思われました。
暗殺の1年前、龍馬は京都伏見の船宿・寺田屋で、京都所司代指揮下の伏見奉行所の捕吏たちに襲われたことがあります。その際、龍馬は高杉晋作からもらったピストルで応戦し、逃げのびました。この事件では、伏見奉行所側に死傷者が出ています。
当時、桂早之助は京都所司代の同心でした。つまり、桂早之助にとって龍馬は自分の部下や同僚を殺し、傷を負わせた人間ということになります。だから、桂早之助には龍馬を斬る十分な理由があるというわけです。
■「京都見廻組」犯人説に、ぬぐえない疑問
しかし、どうも京都見廻組が龍馬を暗殺した理由が、ある意味では私怨に近く、動機の根拠としては弱いように思えます。私が気になるのは、まず龍馬が殺された時期です。武力によらない平和的な倒幕を念頭に置いた大政奉還が実現した、わずか1カ月後のことでした。
薩摩と長州は武力によって幕府を打ち倒そうとしたわけですが、幕府側は薩長の攻勢をかわすための窮余の一策として、政(まつりごと)を朝廷に返上するというアクロバティックな一手に出たのです。これを後押ししたのが、土佐藩の後藤象二郎であり、同じ土佐藩士の坂本龍馬が暗躍していたとされています。
つまり、幕府側は大政奉還を望んで行ったことになります。旗本を中心にした上位の組織である見廻組は、浪士を集めて組織された新撰組よりも、ずっと幕府の中枢に近い存在です。幕府の考え方により精通し、より忠実であって当然でしょう。
それなのに、大政奉還を進めた龍馬を守りこそすれ、反対に殺めてしまうというのは、幕府の意に背くことになってしまいます。やはり、京都見廻組では龍馬を暗殺する動機が弱いのです。そうなると、反対に大政奉還を推進されると目障りだと考える者たちが、龍馬暗殺の下手人である可能性が高いということにならないでしょうか。
■暗殺の背後にちらつく「薩摩藩」の影
そもそも大政奉還はいかにしてなされたのか。まず慶応2(1866)年1月、土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎を仲立ちにして、薩摩と長州の間で、薩長同盟が結ばれます。その翌年に薩摩藩と土佐藩の間で薩土盟約が、薩摩藩と長州藩と安芸藩の間で薩長芸三藩盟約が結ばれました。
これらの藩は明治維新の原動力となりましたが、しかし、それぞれの主張や思惑、立場は微妙に異なっていました。特に意見の相違があったのは、徳川幕府をどうするかという問題です。
土佐藩は幕府と朝廷を一体化させる公武合体を推進していました。藩主の山内容堂も、15代将軍・徳川慶喜を最後まで擁護していました。安芸藩も諸外国の脅威に危機感を持っており、徳川幕府を仲間に引き入れるべきだと主張しました。
一方、明らかに倒幕派なのは薩摩藩と長州藩でした。幕府との武力衝突を避けたい土佐と安芸は、幕府へ働きかけ、大政奉還を実現させました。徳川幕府が朝廷に政権を返上したのですから、徳川打倒の大義自体がなくなってしまったのです。
これに頑なに反対し納得しなかったのが、薩摩藩でした。特に意外と思われるかもしれませんが、西郷隆盛だったのです。彼は武闘派のなかでも最強硬派であり、あくまでも徳川慶喜に腹を切らせるべきだと、武力による倒幕の姿勢を崩しませんでした。
江戸に兵を進めた西郷隆盛が勝海舟と直接会談を行ったことで、江戸総攻撃は回避され、江戸無血開城となったことはよく知られています。しかし、その直前まで、西郷は断固として軍事行動を進めようとしていたのです。それは大久保利通に宛てた手紙にはっきりと書いてあります。
このように考えると、坂本龍馬の暗殺を実行したのは薩摩藩である可能性も大いにあるのです。もちろん証拠となる史料はなく、あくまでも状況証拠を検証した結果、推理されるものの範疇にとどまります。
■坂本龍馬「当たり屋」説から生じる紀州藩関与説
状況証拠として考えるならば、最近、私がもしかしたらと思うのが、坂本龍馬「当たり屋」説から導き出される、紀州藩関与説です。
坂本龍馬が日本初の貿易商社である「亀山社中」を結成し、その後、新たな組織として「海援隊」を作ったことはよく知られています。この海援隊が操船した蒸気船・いろは丸が、慶応3(1867)年5月26日、瀬戸内海を航海中に紀州藩の軍艦・明光丸と衝突事故を起こし、鞆の浦付近で沈没した事故が起こりました。
このとき、海援隊と紀州藩の間で裁判が行われましたが、坂本龍馬は万国公法を持ち出して「非は明らかに明光丸にある」と紀州藩に多額の賠償金を求めたのです。
いろは丸は長崎からさまざまな物資を積んで、大坂に向かう途中でした。船の積荷には大量の金塊や最新鋭の銃が積んであったと龍馬と海援隊側は主張しました。
いろは丸と明光丸はそれぞれ衝突の直前、回避行動を取っていました。いろは丸は取舵、つまり左に舵を切りました。一方の明光丸は面舵、つまり右に舵を切ったため、両船とも同じ方向を向いてしまいます。そして、明光丸の船首が、いろは丸の右舷に衝突してしまったのです。
龍馬は「万国公法」に照らし合わせて、明光丸の側に非があると主張しました。しかし、実は当時も現代も、国際法上は前方から船が向かってきた場合には、お互いに面舵(右舵)を取り、衝突を避けるのが大原則となっていました。つまり、この場合、面舵を取った明光丸のほうが正しい回避方法を実行していたわけで、取舵を取ってしまったいろは丸にこそ非があるのです。
そのことに気づいていた龍馬は、それを百も承知で、口から出まかせを言って、紀州藩を言いくるめてしまったのでした。
さらにすごいのが、その請求した賠償金の額です。沈没した船の購入費3万5600両の弁償。そして積荷のミニエー銃400丁に金塊の賠償金もこれに上乗せして、全て合わせて総額8万3000両を、龍馬は紀州藩にふっかけたのでした。
■「胡散臭さ」も含めた、人間・坂本龍馬の魅力
平成元(1989)年、地元の有志で結成された「鞆を愛する会」が、鞆の浦から15キロメートル沖合の水深27メートルの海底で、沈没したいろは丸を発見しました。その後、京都の水中考古学研究所により、平成17(2005)年までに数回の調査が行われて、さまざまな遺物が見つかっています。
しかし、龍馬が積荷であると主張した銃や金塊のたぐいは一切見つかっていないのです。つまり、龍馬は徹底的にはったりをかまして、自分たちの非を言いくるめるばかりか、多額の賠償金までふっかけてぶんどっていたのです。まさにそれは「当たり屋」のようです。
その後、龍馬は暗殺されるのですが、海援隊の面々は龍馬の暗殺は紀州藩が関与していたのではないかと考えます。いろは丸の裁判を恨んで、紀州藩が龍馬を暗殺したと見なし、紀州藩士・三浦休太郎が逗留していた京都油小路の旅籠・天満屋を襲撃したのです。
危険を察知した紀州藩は、会津藩を通じて、新撰組を派遣してもらい、警護にあたらせました。その結果、海援隊と新撰組の間で、戦闘に発展し、死傷者が出るほどの騒ぎとなりました。
つまり、龍馬の仲間たちは、紀州藩が龍馬を暗殺したのだと考えて、行動を起こしているのです。紀州藩からすれば、あることないことでっちあげられて、当たり屋のような真似をされ、多額の賠償金を取られたことを恨みに、坂本龍馬の暗殺を実行したということもあり得なくはありません。
いずれにせよ、いろは丸の裁判だけを見ると、坂本龍馬という人物は非常に胡散臭く見えてしまいます。それも含めて、人間・坂本龍馬の魅力だったということでしょうか。
東洋経済オンライン
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最終更新:11/30(土) 16:02