「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・橋姫① 妻亡き後に2人の娘、世を捨てきれない親王の心境
輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。
NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部。彼女によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。
この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 6 』から第45帖「橋姫(はしひめ)」を全7回でお送りする。
光源氏の死後を描いた、源氏物語の最終パート「宇治十帖」の冒頭である「橋姫」。自身の出生に疑問を抱く薫(かおる)は、宇治の人々と交流する中でその秘密に迫っていき……。
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橋姫 宇治に暮らす八の宮と二人の姉妹
世間から忘れられ、二人のうつくしい姉妹と
宇治で暮らす親王がいたのでした。
■世間からは忘れられている古い親王
その頃、世間からは忘れられている古い親王(みこ)がいた。親王の母方も高貴な家の生まれなので、ゆくゆく格別な地位に就くだろうと噂されていたのだが、時勢が変わり、世間から冷たい扱いを受けるようなことになってしまった。その後はかつての声望もなくなり、後見(うしろみ)の人々もあてが外れたことを恨めしく思い、それぞれの事情によって出家したり、政界を退いたりしたので、この宮は公私ともに頼る人もなく、世間からすっかり見放されたような有様となってしまった。
この宮の北の方も、昔の大臣の娘であったが、そのようなことになってしまってしみじみと悲しく心細く、親たちが自分に期待していたことを思い出すと、ひどくつらい気持ちになる。けれども夫婦仲がまたとないほど睦まじいので、つらいこの世のせめてものなぐさめとして、お互いにこの上もなく信頼し合っていた。
年月がたっても子どもが生まれないのでもの足りず、どことなくさみしく所在ない日々のなぐさめに、どうにかしてかわいらしい子がほしいものだと宮はときおり思い、またそう口に出してもいたところ、ようやく、たいそうかわいらしい女君が生まれた。この姫君を限りなくいとしく思い、たいせつに育てているうちに、北の方はまた引き続き懐妊した様子で、今度こそ男の子であってくれたらと宮は思っていたのだが、同じく女君であった。無事に生まれはしたものの、北の方は産後ひどく患ってしまい、亡くなってしまった。宮はあまりのことに途方にくれた。
生き長らえているにも、まことに見苦しくたえがたいことの多い人生であるけれど、見捨てることのできない、いとしい妻の容姿や人柄が絆(ほだし(妨げ))となってこの世に引き留められ、なんとか生きてきた。それなのにこうしてひとり取り残され、いよいよわびしいことになろう……、幼い姫君たちも男手ひとつで育てていくとなると、親王という身分柄、じつにみっともなく世間体も悪いだろう、と宮は思い、出家の本意を遂げてしまいたい気持ちになるが、姫君たちをまかせられる人もなく、あとに残していくのはどうしても心配で、ためらってしまう。そのまま月日が流れ、二人はそれぞれすくすくと成長し、その姿や顔立ちがかわいらしく、申し分ないことを明け暮れのなぐさめとして、ついつい日々を過ごしているのである。
■残された二人の姫君
あとから生まれた妹君(中君(なかのきみ))のことを、仕えている女房たちも「なんてこと、奥さまの命と引き替えのようにお生まれになって……」などと小声で言って、心をこめてお世話することもないのだが、北の方は臨終の折に、すでにほとんど正気が失せていたにもかかわらず、「どうかこの姫君を私の形見だとお思いになって、かわいがってくださいませ」と、ただ一言だけ、宮に遺言したのだった。宮には、前世からの因縁も恨めしく感じられるのだが、いや、こうなるべきめぐり合わせだったのだろうと思うのである。北の方が息を引き取るまで妹君をかわいそうに思い、いかにも気掛かりでたまらないふうに言っていたのを宮は思い出しながら、この妹君のほうをとくにかわいがってきたのだった。この妹君の顔立ちはたいそう愛らしく、そらおそろしいほどうつくしい。姉の姫君(大君(おおいぎみ))は気立てがしとやかで深みのある人で、見た目や物腰も気品があり奥ゆかしい。いじらしく高貴な点ではこの姉君のほうがまさっているが、宮はどちらをもそれぞれたいせつに育てているのだった。しかしながら思い通りにならないことも多く、年月がたつにつれて邸(やしき)の中も次第にさみしくなっていくばかりである。仕えていた人々も、頼りない気持ちになって我慢しきれずに次々と暇をもらっては去っていく。妹君の乳母(めのと)も、あの北の方の亡くなった騒ぎでしっかりした人を選ぶこともできなかったのだが、その乳母すら、身分相応のあさはかな考えで幼い妹君を見捨てて去ってしまったので、宮が男手ひとつで育てているのである。
さみしくなったとはいえ、さすがに広く、趣向をこらした邸で、池や築山(つきやま)などのたたずまいは昔と変わらないものの、ひどく荒れるばかりである。宮はそれを何をするでもなく眺めている。家のことを管理する家司(けいし)などもしっかりした人がいないので、草は青々と茂り、軒の忍ぶ草も我がもの顔に一面にはびこっている。四季折々の花や紅葉(もみじ)の色をも香をも、夫婦二人でともに見、たのしんでいたからこそ、気持ちの晴れることも多かったのだが、今は一段とさみしく、頼りとするべきものもないので、宮は念持仏(ねんじぶつ(身近に置いて信仰する仏像))の飾り付けばかりを一生懸命にして、明け暮れの勤行(ごんぎょう)に精を出している。
■再婚の勧めも聞き入れず
このように、二人の姫君が出家の絆となっているのも、宮にとっては不本意であり残念なことなので、自分の心ながら、思い通りにならない前世の因縁だったのかと思わずにはいられない。ましてなぜ世間の人のように今さら再婚などできようかと、年月がたつにつれて俗世のことをあきらめつつある。今では心ばかりはすっかり聖(ひじり)になりきっていて、北の方が亡くなってからは、ふつうの人が女に対して抱くような気持ちなどは、かりそめにも持たないのだった。
「何もそこまで……。死に別れた時の悲しみは、世にもう二度とはないほど大きく感じられますが、時がたてばそうばかりでもないはずですよ。やはり世間の人のように再婚もお考えになったらいかがでしょう。そうなればこのように見苦しく荒れてしまったお邸の中も、自然ときちんとしてくるのではないでしょうか」と、周囲の人は意見して、何やかやとふさわしそうな縁談を持ってくることも、縁故を通じて多かったが、宮はまったく聞き入れない。
念誦(ねんじゅ)の合間合間には、この姫君たちの相手をしている。だんだん成長する二人に、琴を習わせ、碁打ち、偏(へん)つき(漢字をあてる遊び)など、ちょっとした遊びごとをしていると、それぞれの性格も見えてくる。大君は聡明で思慮深く、重々しく見える。中の君はおっとりと可憐(かれん)で、はにかんでいる様子がじつにかわいらしく、それぞれにすばらしい。
春のうららかな陽射しの下、池の水鳥たちが寄り添って羽をうち交わし、思い思いにさえずる声など、いつもならなんでもないことと見過ごしていた宮だが、今は、つがいが睦まじくしているのをうらやましく眺め、姫君たちに琴などを教えている。二人ともいかにもかわいらしく、まだちいさい年ながら、それぞれ搔(か)き鳴らす琴の音色がしみじみとおもしろく聞こえるので、宮は涙を浮かべて、
「うち捨ててつがひさりにし水鳥(みづとり)のかりのこの世にたちおくれけむ
(父鳥をうち捨てて母鳥が去ってしまった後、かりそめのこの世に子どもたちはなぜ残ってしまったのか)
悲しみの尽きないことだ」と涙を拭っている。顔立ちのたいそううつくしい宮である。長年の勤行で痩せ細ってしまったけれど、かえって気高く優美で、心をこめて姫君たちのお世話に明け暮れている日々に、すっかり糊(のり)も落ちてやわらかくなった直衣(のうし)を着て、取り繕わずにいる姿は、気後れするほど立派である。
■水に浮かぶ水鳥のように
大君が硯(すずり)をそっと手元に引き寄せて、すさび書きのようにあれこれと書いているのを見て、
「これに書きなさい。硯の上に書きつけるものではありません」と紙を渡すと、大君は恥ずかしそうに書きつける。
いかでかく巣立ちけるぞと思ふにも憂(う)き水鳥(みづとり)の契りをぞ知る
(どうしてここまで大きくなったのかと思うにつけても、水に浮かぶ水鳥のようにつらい我が身の宿世(すくせ)が思い知らされることです)
それほど上手ではないけれど、折が折なのでたいへん胸を打つというもの……。
筆跡は、この先の上達が予想できる書きぶりだが、まだ続け書きはうまくできない年頃である。「妹君もお書きなさい」と宮が言い、もう少し幼い字で長いことかかって中の君が書き上げる。
泣く泣くも羽(はね)うち着する君なくはわれぞ巣守(すもり)になりは果てまし
(涙を流しながらも羽を着せて育ててくださる父君がいらっしゃらなかったら、私は孵(かえ)らない卵のように育つことはなかったでしょう)
姫君たちの衣裳も着古していて、そばに仕える者もなく本当にさみしく、またそのさみしさを紛らわしようもないが、それぞれかわいらしい様子でいるのを、どうしてしみじみといたわしく思わずにいられようか。宮はお経を片手に持って、ときにそれを読み、また姫君たちに琴を教えるために唱歌もする。大君に琵琶(びわ)、中の君に箏(そう)の琴を教える。まだたどたどしいけれど、いつも合奏しつつ稽古しているので、そう聴きにくくもなく、じつにおもしろく聴こえる。
次の話を読む:12月1日14時配信予定
*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです
東洋経済オンライン
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最終更新:11/24(日) 17:32