NHK「英語でしゃべらナイト」は異×異の教養論 激変の時代に生きる 頭の強さとハザマの思考

4/19 9:02 配信

東洋経済オンライン

現在、学校のみならずビジネス社会においても「教養」がブームとなっている。そもそも「教養」とは何か。なぜ「教養」が必要なのか。
3万5000部のベストセラー『読書大全』の著者・堀内勉氏が、「爆笑問題のニッポンの教養」や「欲望の資本主義」、「世界カブカルチャー史 欲望の系譜」など数々の教養番組を世に送り出してきたNHKエンタープライズ エグゼクティブ・プロデューサーの丸山俊一氏に、プロデューサーとしての原点や、不透明な時代において「教養コンテンツ」をどう届けるかについてインタビューを行った。

 堀内:前回も触れましたが、NHKの番組は教科書的で予定調和的なものが多い中で、どうして、丸山さんだけが異質な番組を作り続けることができるのか。私自身も今、上智大学で「知のエグゼクティブ・プログラム」のプロデューサー的な仕事をしていて、プログラムを組み立てて参加者に理解してもらうことの大変さを理解しているつもりです。

 ですから、丸山さんの企画がどうしてそんなに社内で通るのか、いったいNHKの周りの人はどうやって丸山さんに説得されているかということが不思議でなりません。

■すべて異文化コミュニケーションの探求

 丸山:いえいえ、説得に失敗して落ちる企画の数も多いので(笑)、とくに成功しているわけではありません。最近は、実験的な番組も増えてきていますし。ただプロデューサーになってから、企画のコンセプトを編成マンたちと対話し共有する過程で、自分自身の発想のスタンスに変化があったためか、おかげさまで少し風変わりな企画をいくつか世に送り出せています。

 振り返ってみますと、プロデューサーとして最初に手掛けた「英語でしゃべらナイト」という番組が原点になったのかもしれません。あの番組は、視聴者のみなさんに英語に親しんでいただく意図もあったわけですが、毎週放送をお送りしながら、僕自身の心の中に明確にこの企画のテーマの核心は「異文化コミュニケーション」だという思いがどんどん大きくなっていきました。

 毎回スタジオに海外での仕事の体験、留学体験を持っていらっしゃるような俳優やタレントの方をお迎えして、それこそ切実感をもって思わぬところで英語を使うことになった話などをお聞きし、司会のパックンが話を膨らませていくバラエティーでもありましたが、もっと異なるところに、「教養」的な要素となる大きな問いを見出していました。

 すなわち、コミュニケーションとは、そもそも言語の問題なのか、と。単に文法通りにしゃべりましょうというような英語の正しさをめぐる話などではなく、人と人が出会ったとき、まったく異なる背景、文化を持つ他者同士が人間性をかけ、総体としてわかり合うということは一体どういうことなのかを考える、「異文化コミュニケーション」の探究ではないかと。そう考え出すと、単に言語の技術を超えて、人間の認識のあり方や他者性の受容の本質まで射程に入ってきます。

 さらには毎週毎週、ゲストの皆さんの本当に様々な経験をお聞きしているうちに、トーク、物語というものの可能性にも気づくわけです。きれいなオチがある話よりも、リアルな体験談、そのフラグメント、ディティールのほうが想像力も広がり説得力を持つこともあるという発見です。

 そうなると、いよいよ番組も、そもそも起承転結をつける必要があるのだろうかと。先ほど堀内さんが言われたような教科書的なあり方とは対極の感覚ですが、むしろ根本の理念がブレることさえなければ、「起承転結」などなくても、「起承転々」でも良い、他者同士がその異質さを認め合う過程自体が表現となり、発見があるという感覚が自分の中に芽生えたことは大きかったですね。

 ご出演の皆さん、ディレクターたちも、こうした異を楽しむコンセプト、“未完成”ゆえの可能性を理解してくれ、毎週、個性的な表現に挑戦してくれたことに感謝しています。

■異と異の化学反応の可能性

 こうした経験があったからこそ、「爆笑問題のニッポンの教養」という番組も生まれました。たとえば、東大の哲学、論理学の第一人者、野矢茂樹さんと、自身の笑いの哲学を持っている爆笑問題の太田さんが、「心とは何か?」をめぐって議論するという、「異文化コミュニケーション」です。

 爆笑問題のお二人が全国の大学の研究室を巡って、コンニャク問答をする過程から知の最前線が見えてくるという企画ですが、僕自身の心の中では、「英語でしゃべらナイト」とある意味、同じ構造で発想したものでした。

 その後も、きれいにまとめようとするよりは、異と異がぶつかり合う中で、その対話でどこまでがわかり合え、どこから分かり合えないのか、そのプロセスを丁寧にご紹介し視聴者の皆さんにも意識の上で両者の間に参加していただくことで番組は成立するということを実感するようになり、その精神が現在の「欲望の資本主義」「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」などのシリーズにもつながっている感じでしょうか。

 かつての昭和の時代であれば、何か問題に行き詰まったときに欧米はどうしているのか、アメリカでは、イギリスでは……と西欧諸国の「先進」事例のケーススタディでもある程度説得力を持つことができました。しかし、現代では、社会の構造も大きく変わり、日本が課題先進国と言われるような状況となったこともあり、正解がない中で視聴者の皆さんと「問い」を共有する感覚で映像制作に向き合うという時代になってきているのが、この四半世紀ぐらいではないかと。

 もともと、定型があってその秩序に則って完成形を目指すような仕事の仕方が苦手で、常にフラットに現象を捉え、現在進行形で対話のプロセスを含めて未完成のままでも開示していく姿勢を好んでいた変わり者のマインドに、皮肉なことに時代がマッチし始めた、という言い方はできるかもしれません。

 堀内:現在、世は教養ブームで、丸山さんも番組制作や講演などに引っ張りだこかと思うのですが、教養や教養教育について、また、教養をどのように実際の仕事に活かすのかといったことについて、どのような見方や考え方をされていますでしょうか。

 丸山:「ファスト教養」という言葉でも表現される現象が象徴的だと思いますが、いまや教養も市場の「商品」となってしまった感がありますよね。教養という以前に、それこそコスパ、タイパなどの言葉もあるように、限られた時間の中で手っ取り早くとりあえず現代社会を生きる武器が欲しいという感覚で「消費」されていく状況は、「情報」の効率的な共有という面ではやむを得ないところがありますが、本来的な「教養」という意味ではやはり残念なものがあります。「情報」ももちろん大事ですが、「教養」という領域には、数値化や相対化を拒むような、次元の異なる広がりがあると考えるからです。

 「商品」としての教養で自分自身の存在まで「消費」されないためにも、常にメタレベルと言うか、全体を俯瞰した視点でものごとを捉え続ける、自己洞察を連続的にしていく感覚を持つことが大事になると思います。逆説的な言い方をすれば、流行りの商品、消費財としての教養的なものでも相対化し批判的に戯れることができるのも教養的なマインドの奥行きがあればこそ、と、そこでも教養を試されているという言い方もできるかもしれませんね。

■「見たいようにしか見えない」人間の性を超えて

 堀内:そのための方法論というのは、丸山さんの場合、引き続き番組制作を通してやっていこうということになるのでしょうか。

 丸山:確かにひとまずは、映像制作の試行錯誤を通して、ということになります。制作の過程は、考える材料に事欠かない、実に様々なジレンマに満ちていますから。そう言えば「新世代が解く! ニッポンのジレンマ」という番組もありましたが、僕の中の隠しテーマとしては、ジレンマを「解く」というより「楽しむ」ことでした。葛藤に直面しても、結論を急ぐことなく、楽しみながら付き合っていける感覚が重要だと思うんです。

 時々好きで思い出すのですが、漱石の『草枕』の冒頭に「智に働けば角が立つ。」に始まる有名な書き出しがあります。「情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」と続くわけです。その後、人間関係には疲れたけれども、だからと言って「人でなし」の世に行くわけにもいかないというところから小説は始まります。

 あの漱石の3、4行の中に、この社会の中で人が抱える悩みの変わらない構図が簡潔に表現されているように思います。そして、そんな中で自分がどう生きるのかを考えるための大事なヒントがあの不思議な小説にはあるように感じます。ちなみにそれについては、『14歳からの個人主義』という書で触れました。

 そうした引き裂かれる思いの中で、どのように考え続けるかと言えば、僕はデュアルな思考のセンス、内村鑑三の有名な言葉ではないですが「ニつの中心を持った楕円」を思い浮かべます。楕円の思考の重要性です。たとえば資本主義社会において「資本の運動」があるとしたら、それに対してあるスタンスをとるためには、利潤の論理と同時に倫理的思考の軸をもう一つに置くように、同時にニつの中心を意識することが重要になってくると考えます。

 つまり、単線的に、何か一つの論理でものを考えるというより、二元論的な構造を意識し、常に緊張関係の中で両方の論理を動かすような感覚が大事なのではないかと。そうしたものの見方を養い、その緊張関係を楽しめるのも教養の力だと言えるでしょう。映像の人間だからこそのレトリックで表現すれば、「蟻の目」も、「鳥の目」も、リアルを掴むためには両方必要というイメージです。

 堀内:そのような問題意識を世の中にどう訴えかけていくかは、番組で映像を通して続けていくのか、それとも、映像以外にもなにか別の領域で活動の場を広げられようとしているのでしょうか。

 丸山:映像は、大事なものを考える手段の一つですが、僕はもともと言葉、活字も好きで、本を読めば今度は読んだことをアウトプットで考えていくという循環も生まれます。書くという行為も、考えることを楽しむ大事なプロセスです。

 現在も『群像』という文芸誌で連載をしているのですが、「教養」をテーマにとお話をいただいたときに思いついたタイトルが「ハザマの思考」でした。映像と活字、音楽と言葉、情報と教養など、ジャンルやカテゴリーの狭間からこぼれ落ちるもの、はみ出すズレ、ノイズみたいなものにこそある面白さに、書いていくうちに辿り着く過程を楽しませてもらっています。

 アウトプットという意味では、大学などの対話の場も貴重ですね。芸大に加えて、この春から、「社会デザイン」という学の理念を謳う立教大学の大学院に関わることになりましたが、様々な場での「異文化コミュニケーション」が楽しみです。映像で、活字で、大学で……、そうした移動、往復運動の中で文字通り歩きながら考えることが、エネルギーになっています。

■不透明な時代の「教養」とは

 堀内:わかりました。これからも是非、丸山さんならではの視点でアウトプットを続けていっていただければと思います。

 最後に「教養とは何か」という最初の問いに戻りたいのですが、今回は丸山さんにいろいろ語っていただいたので、だいぶ理解できましたが、まとめ的に丸山さんにとっての「教養とは何か」ということを教えていただきたいのですが。

 丸山:アマノジャクな答え方になるのかもしれませんが、「固定化させずに、日々問われたときによって定義の仕方が変わっても大丈夫」と言ったら変ですけれども、答えが変わることをむしろ楽しめるぐらいのセンスのほうが、それこそ今の時代の教養のあり方としてはいいのかもしれません。教養的ということが、ある事象を常にメタレベルで捉えられたり、オルタナティブな価値を見つけられたりということであるならば、自分を固定化させないで、原初に持っていたエネルギーを大事に、その発揮の仕方の柔軟性を忘れないための作法、という言い方もできると思います。

 最近はやはりAIやデジタル技術と社会との関係性などについてもよく考えるのですが、AIがこの世界をどう捉えるか、そこに新たなリアリティ、認識の形が示される面白さに期待すると同時に、その一方、人間の精神構造がAIを無意識に模倣していってしまうことについての警戒感も持ちます。後者の危惧については、哲学者、社会学者、科学者……様々な分野の皆さんからもよくお聞きする話です。

 たとえば、アメリカで近年話題の「ポリティカルコレクトネス疲れ」などのように、「正しい」概念が逆説的に働き、過剰適応を招き、かえって息苦しい社会を生んでしまうような状況とも関係があるように思います。複雑性に耐え切れず、AIが提示する「正解」に頼り、委ねることに慣れていくうちに自ら考えることを放棄する人々が増え、社会の硬直化も進んでいくことの怖さがそこにあります。

 ケインズの警告を思い出すような話ですが、ともすれば環境に慣れてしまい、「見たいようにしか見えない」人間の性には自覚的でありたいと思っています。そうした視野狭窄を破壊するのも、教養のはずですね。仮に、目的と手段が逆転してしまうようなねじれた状況が生まれても、焦れることなく飄々と、ユーモアを忘れず対処できる柔軟性を、伸びやかな知性を鍛え続けたいものだと思います。

■教養とは「生きる力」を取り戻す術である

 謙遜などではなく、僕は「頭のいい」人間などとはまったく思いません。博覧強記であったり、パッと質問にきれいに回答したりというような目から鼻に抜ける優秀さとは、子どもの頃から無縁です。「言われた通りにやれ」「理屈はいいから覚えろ」といった状況が苦手な、むしろ要領の悪いタイプです。

 ただ、「頭の強い」人間ではあるかもしれないと自己分析します。というのも、あるとき疑問に感じたり、引っ掛かりを持ったりした問いを、ずっと忘れずに、ときに無意識レベルでも、夢にまで見るようにイメージし考え続けてしまうのです。その答えが出るのは、1週間、ときには10年、20年ということもあります。岩井さんに質問した問いが35年後に番組化したのがいい例かもしれませんが、その他にも、子どもの頃に感じ考えたことが変形して、気づけば映像企画になったり、文章になったりということの繰り返しです。

 別にあらゆる方にこんなことを勧める気はありませんが、無意識の中に眠っているフラグメントが発酵して、あるとき思わぬ偶然から化学変化を起こし、新たなアイデアとなる……、そんな長い時を待てる胆力も大事なのではないでしょうか? 

 その胆力も決して理屈で考えるようなものでもなく、身体に染み付いた、子どもの頃目を輝かせた原初の体験につながるものと直感します。

 たとえば精神的に疲れ、世の中に対して否定的になっている人でも、幼い頃初めてこの世界を認識できたとき、大いなる喜びに満ち溢れていたのではないか?  そう想像してしまうのです。あどけない目をしていたときの子どもの頃の生命力が誰しも心の奥底に眠っているとしたら、それを取り戻せるのも、教養の力なのではないかと。

 子どもの頃の無垢な心、弾力性ある精神……そうしたものをいくつになっても思い起こせれば……、そこに立ち返れる力、立ち返って生きる力を取り戻せるということ、その術になるのも教養の力なのかもしれません。

 あす以降さらに更新されるかもしれませんが、今日考える「教養」の定義です(笑)。

 堀内:数多くの貴重なお話をありがとうございました。

 (構成・文:中島はるな)

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最終更新:4/19(金) 9:02

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