「都を離れた紫式部」越前国で過ごした1年の心情 雪が降る光景を見ても、心はつねに都にあった

4/6 5:41 配信

東洋経済オンライン

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は都を離れ、越前国へ赴くことになった紫式部のエピソードを紹介します。
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■住み慣れた都から越前国へ

 996年1月、紫式部の父・藤原為時は、越前守に任命されました。それにより、式部も住み慣れた都を離れて、越前国(現在の福井県)に赴くことになります。

 式部はこのとき、27歳(諸説あり)。為時一行は、都を出ると、近江に向かい、琵琶湖を渡って、越前方面に赴きました。

 「近江の水海にて、三尾が崎という所に、網引くを見て」との詞書が付いた「三尾の海に網引く民のてまもなく立ち居につけて都恋しも」との歌を式部は詠んでいます。

 三尾は、琵琶湖の西岸であり、今の滋賀県高島市付近の地名です。三尾の浜辺で、網を引く漁民たち。都の中にいて、そのほかの地域にほとんど赴くことがなかった式部にとって、その光景は、物珍しいものだったに違いありません。

 しかし、人々の風俗や労働は、式部がこれまで見てきたものとは、明らかに「異質」であり、物珍しさよりも、式部は「都恋し」というホームシックにかかってしまったようです。

 「磯の浜に、鶴の声々に鳴くを」聞いた式部は、「磯がくれおなじ心に田鶴ぞ鳴く汝が思ひ出づる人や誰ぞも」とも詠んでいます。「浜辺の岩隠れに鶴がしきりに鳴いている。その切ない声。私の気持ちと同じではないか。お前は誰を思い出して鳴いているの」というような意味です。

 この歌も、式部が越前に向かう際のものだと考えられています。旅が平穏であったならば、まだ式部の心は安らいだかもしれませんが、旅とはそうしたときばかりではありません。

 「夕立しぬべしとて、空の曇りてひらめくに」(夕立が来そうだというが、早くも空が曇り、稲妻が走る)との詞書が付いた「かき曇り夕立つ波の荒ければ浮きたる舟ぞしづ心なき」との歌からは、荒い波に揺れる舟と私は一体、どうなるのだろう、という式部の心細い感情を読み取ることができます。

 式部が後に執筆する『源氏物語』のなかには、玉鬘(光源氏の親友、頭中将の娘)が肥後の監という土豪に求婚され、断り切れず、舟で逃げ出すシーンが描かれていますが、式部が越前に行くときの乗船体験も、執筆の際にかなり役に立ったのではないかと推測されます。

 そのときは悪い体験だと感じても、後から振り返ってみれば、それは貴重で得がたい経験だったということもあります。

■塩津山での印象に残る体験

 さて、式部たちは、琵琶湖西岸を北上し、湖北の塩津に上陸しました。そして塩津山を越えて、敦賀に出ます。式部は塩津山でも、印象に残る体験をしたようです。

 「塩津山といふ道のいとしげきを、賤の男のあやしきさまどもして『なほからき道なりや』といふを聞きて」(塩津山を越えるとき、その道はとても草深く、下賤の男たちが見すぼらしい服を着て、式部らの乗っている輿などを担ぎながら、つらい道だなと言い合うのを聞いて)、式部は「知りぬらむ往来にならす塩津山世に経る道はからきものぞと」と歌に詠んでいます。

 「お前たちもわかったでしょう。いつも往来し慣れている塩津山は、名前のとおりつらい山道だということを。世渡りの道はつらいものだということを」という意味です。

 この頃になると、式部の心にも少し余裕が出てきたのでしょうか。高波に舟が揺れているときと比べたら、今風に言うと、ギャグを考える余裕が出てきたように思うのです。身分の低い男たちが言い合っている「からき」(つらい)という言葉を聞いて、塩とかけているのですから。

 それにしても「世渡りの道はつらいものだということを」と、式部は男たちに歌で密かに思いを投げかけていますが、えらく上から目線ではあります。私から見れば「世渡りの道はつらいものだ」ということをわかっているのは、身分の低い男たちのほうであり、深窓で育った式部ではありません。

 式部はそれを理解していたようには、歌からは思われませんが、都の貴族の娘として育ったものの性というべきでしょうか。上から目線で、お嬢様気質というものが、式部にあったように思うのです。

 夏に越前の国府に入った式部たちですが、北国の冬の訪れは早く「暦に初雪降ると書きたる日、目に近き日野岳といふ山の、雪いと深う見やらるれば」(暦に初雪が降ると書いた日、すぐ側の日野山に雪が深く積もっているのを見て)との詞書が付いた「ここにかく日野の杉むら埋む雪小塩の松に今日やまがえる」との歌を詠んでいます。

 歌のなかにある「小塩」(の松)とは、京都市西京区にある小塩山を指しています。この山の麓には大原野神社があり、藤原氏の氏神が祀られていました。越前の雪を見ても、式部の心を占めているのは、都のことでした。

 「日野山に雪が積もっているが、都の小塩山の松にも、雪は舞っているのであろうか」と望郷の念にかられているのです。

■式部の心はつねに都にあった

 式部が住む邸にも雪は降り積もったため、軒先の雪を掻きやり、庭に「山のやうに」積み上げることもあったようです。

 人々はその雪の小山に登り「なほ、これ出でて見たまへ」(さぁ、出ていらして、雪山をご覧ください)と式部に勧めたようですが、式部はそのときの想いを「ふるさとに帰る山路のそれならば心やゆくとゆきも見てまし」(故郷の京の都に帰る山路の雪ならば、見にも行きましょうか)と歌に詠んでいます。つれない様子です。

 式部はこの歌の詞書に「いとむつかしき雪」(面倒な鬱陶しい雪)と書いています。式部にとって、降り積もる越前の雪は、残念ながら、鬱陶しい以外の何物でもなかったようです。

 式部の越前での生活は、1年ほど続くことになるのですが、彼女が、ほかに、この地の風俗や風物を詠んだものは、紫式部集のなかにはありません。何かは詠んでいたはずですが、おそらく、家集を編纂するときに、意図的に外されたのでしょう。紫式部の心は越前にはなく、つねに都にあったのでした。

 (主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)

・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

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最終更新:4/6(土) 5:41

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