江戸で大ブーム「浄瑠璃の富本節」誕生した背景。蔦屋重三郎も早速目を付けて出版に乗り出す

3/16 14:02 配信

東洋経済オンライン

NHK大河ドラマ「べらぼう」では、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を中心にして江戸時代中期に活躍した人物にスポットライトがあたっている。浄瑠璃の大夫で「富本節」を世に広めた富本豊志太夫(午之助)もその一人である。連載「江戸のプロデューサー蔦屋重三郎と町人文化の担い手たち」の第10回は、蔦屋重三郎もその人気にあやかって出版物を出した富本豊志太夫(午之助)について、浄瑠璃の世界と合わせて解説する。

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■大衆芸能として愛された「浄瑠璃」

 2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、「散楽」(さんがく)という伝統芸能がストーリーを展開するうえで、重要な役割を果たした。

 まひろ(紫式部)が屋敷の帰りに散楽を観にいくと、そこには、右大臣家の三男・三郎(藤原道長)も訪れており、幼少期に出会っていた2人は再会。物語が動き出すこととなった。

 曲芸や幻術、歌舞や音楽、物まねなど、雑多な内容を持つ「散楽」は、奈良時代に中国大陸からもたらされた。次第に日本の芸能と混じり合いながら、滑稽な物まねや寸劇がメインとなっていき、「猿楽(さるがく・さるごう」と呼ばれるようになる。

 そして室町時代には、猿楽に歌や舞、そしてリズムを取り入れた「能楽」が、観阿弥・世阿弥親子によって大成していく。能楽は、とりわけ猿楽の滑稽な要素が発達した「狂言」とともに、鎌倉時代から室町時代を経て、江戸時代に至るまで広く行われることになる。

 だが、能楽や狂言の鑑賞者は、公卿や武家など上流階級に限られており、奈良・平安時代の散楽のように大衆を楽しませるものではなくなっていた。

 そんななか、庶民の楽しみとして広がったのが、節をつけてストーリーのある物語を語る「浄瑠璃」である。

 最初に語られた浄瑠璃は、どんなものだったのか。寛文5(1665)年に刊行された仮名草子『よだれかけ』には次のように記述されている。

 「我浄瑠璃のもとをたづぬるに、奥州やはぎの長者が浄瑠璃御前といひし牛若君のおもひものの事を作り、十二段にわけて語りそめしより起る」

 この記述に端を発して、牛若丸と浄瑠璃姫との恋物語を脚色した『浄瑠璃十二段草紙』(『浄瑠璃御前物語』『浄瑠璃姫物語』とも呼ばれる)を浄瑠璃の起源とする文献が、数多く残されている。

 その一方で、それよりも以前に『やすだ物語』が12段に分けられて「じようるり」として語られたという説もある。

 また、浄瑠璃は三味線を伴奏として、物語を語るように演奏する音楽として広まっていくが、伴奏楽器を伴わない時期もあった。江戸時代中期の享保17(1732)年に刊行された江戸の地誌『江戸砂子(えどすなご)』では、発生当初の浄瑠璃について、次のように記されている。

 「その頃は三絃(さんげん)に合することもなく、右の爪さきにて扇の骨をかきならし、拍子をとったりとぞ」

 扇で拍子をとりながら伴奏を行っていたところに、室町時代から琵琶が伴奏として用いられるようになり、2つが並行して行われていた頃もあったようだ。

 そして、江戸時代に入る頃には、華やかな音を奏でる三味線とセットとなり、浄瑠璃は大きく発展していくことになる。

■大坂で義太夫節が創始される

 もともと語り物だったところから、楽器の伴奏を伴う歌謡物へと転換した浄瑠璃。さらに江戸時代初期には、人形を操る芝居を組み合わせて「人形浄瑠璃」が誕生する。

 17世紀末には、大坂で竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が、人形浄瑠璃の「義太夫節」を創始。大坂道頓堀で人形浄瑠璃の劇場「竹本座」を立ち上げた。

 「義太夫節」は、語り手としての太夫と三味線弾きの2人がセットとなって奏でられた。ドラマティックで豪快な語りと音楽で、観客を魅了したようだ。特に『曽根崎心中』など近松門左衛門の作品が人気を博して、人形浄瑠璃の黄金時代を築き上げている。

 一つのムーブメントが巻き起これば、さまざまなバリエーションが生まれるのは、いつの時代も同じだ。豪快な「義太夫節」は確かに心をわしづかみにさせるものがあるが、じんわりと心に染みる、そんな浄瑠璃があってもいいんじゃないか……。

 そう考えたのだろう。義太夫とは異なり、静かに情緒的に語りかけたのが、寛延元(1748)年に初代・富本豊前掾(ぶぜんのじょう)が創始した「富本節」である。

 豊前掾は宮古路豊後掾の門弟で(諸説あり)、重厚な時代物を得意とした「常磐津節」から独立。「富本豊志太夫」と名乗り、富本節を立ち上げた。

 中村座で宮古路豊後掾が劇場初出演を果たすのは、宝暦2(1752)年の春と、常磐津節から離れて4年後のことだ。相方となる三味線奏者を探すのに、時間がかかったのではないかとも言われている。

 「富本豊前掾が富本を起こすに当たって一番苦慮したのは、その三味線方であった。常盤津節の佐々木、江戸長唄の杵屋、河東節の山彦などそれぞれの地位を確保していた当時において、新しい三味線の相方を獲得することは至難の業であった」(『江戸豊後浄瑠璃史』岩沙慎一著、くろしお出版)

■「富本節」ブームを見逃さなかった蔦重

 そうして富本節の立ち上げに奔走した初代の富本豊前掾は、明和元(1764)年に49歳で他界。そのあとを継いだのが、当時まだ10歳だった富本午之助である。

 門人たちにサポートされながら、天性の美声を持つ午之助は、その才を鍛錬によって伸ばしていく。安永6(1777)年1月、23歳のときに2代目豊前太夫を襲名している。

 2代目豊前太夫の活躍によって富本節が大流行となると、その機を逃さずにいち早く動いた出版人がいた。蔦屋重三郎である。

 「これだけ富本節が流行しているならば、きっとみんなも真似したくなるはずだ」

 そんな嗅覚が働いたのだろう。重三郎は、富本節の音曲の詞章を記した「正本」や、練習用に節付をした稽古本を次々と刊行している。

■安定した売り上げが見込めると考えた

 浄瑠璃は新作が発表されるため、シリーズものとして定期的に刊行することができる。『吉原細見』と同じく、安定した売り上げが見込めるラインナップとして、富本節のテキストは重宝されることになった。

 そうして富本節ブームにも便乗しながら、重三郎は天明3(1783)年にいよいよ吉原から飛び出して、日本橋へと進出。一流版元への道をひた走っていくのだった。

 
【参考文献】
若月保治『人形浄瑠璃史研究 人形浄瑠璃三百年史』(桜井書店)

内海繁太郎『人形浄瑠璃と文楽』(白水社)
岩沙慎一『江戸豊後浄瑠璃史』(くろしお出版)
『よだれかけ』(東京大学総合図書館所蔵)
『江戸砂子温故名跡誌』(学習院大学文学部日本語日本文学研究室所蔵)
『富本節』(東京藝術大学附属図書館所蔵)

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最終更新:3/16(日) 14:02

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